第一章:喫茶店の変人達

第2話 春の嵐

  瞼を開くと、枕元が微かに濡れていることに気が付いた。

 どうやら俺は泣いていたらしい。

 別に悲しい出来事があったわけでも、泣くほど嬉しい出来事があったわけでもない。

 たまにあるのだ。

 いつもはきっと怖い夢でも見たのだろうとか、寝ているときに目にごみが入ったのだろうとか適当に考えていたが、流石に何回もとなると少し不安になってくる。

 いつも涙を流した日は妙に目覚めが悪いうえに、胸の中もモヤモヤとする。

 何かあったような、なかったようなと思わせるような曖昧な感覚。

 それはもしかしたら……。


「いや、やめよう……」


 俺は『ある』考えに辿り着きそうになり、思考を中断した。

 それはきっと喜ばしいことの筈なのに、どうしても受け入れられなかった。それに、肝心の内容の方は全く思い出せないから、多分違うだろう。本当に大切なことなら覚えているはずだ。

 覚えていないことを無理に思い出そうとするのは中々気分が悪いものだ。しかも、こういうのは思い出そうとすればするほど思い出せない。人間の脳とはなんとも不思議だ。

 俺は気だるい体を起こして、顔を洗いに洗面所に向かう。

 春休みも残り二日。

 新しくも古くもない、程よく傷んでどこか雰囲気のある二階建ての建物。ここに俺は下宿している。

 この下宿先の名前は『喫茶ヴェルモンド』。一階が喫茶店になっており、二階には四つ部屋がある。そのうちの三つが今は埋まっている。去年までは部屋が一杯だったのだが、先輩が一人卒業してしまい遠くの大学へと進学したため、一部屋空きがある。

 ご飯は交代制で、厨房で作ったものを居間で集まって食べることになっている。他にも洗濯や掃除は全部自分たちでやることになっているため、非常にめんどくさい。

 寮などのように寮母がご飯を作ってくれたりしたら少しは楽なのだが、残念ながらそういうものはいない。そもそもこの店には管理人がいないのだ。

 俺の母の友達が経営している店ということで特別に家賃はなしで下宿させてもらっているわけだが、初めてこの店に来た時には既に店長はおらず、書置きと接客マニュアルだけが置かれていた。

 タダほど怖いものはないという言葉は、あながち間違えではないのかもしれないと思った瞬間だった。

 そして、その時一緒にもらった肩書きが店長代理。

 バイトをしたこともないような奴に任せるなんてどうかしていると思っていたが、他のメンバーは少し個性が強いため、心配なのはわかる気もする。

 そんなわけでいきなり不安になるスタートを切り、それでも何だかんだで一年間を過ごした。

 今年はなるべく、平和な日々を過ごせますようにと叶うはずのないお願いを心のなかでし、部屋を出ようとドアに手を掛けたところで勢いよくドアが開いた。


「かーわしーまくーん! 朝だよ! 女の子が起こしに来るなんてこの幸せ者め……って、何してるの?」


 寝起きの頭には少し響く、とても周波数の高い声とともに少女が部屋に入ってきた。

 お願いした途端にこれだ。神様も少しくらいは働いてもらいたいものだ。

 などと言う罰当たりな考えをすぐに振り払い、抗議の言葉を口にする。


「『何してるの?』は、こっちの台詞だ! 朝くらい静かにできないんですかあんたは!」


 尻餅をつく俺に素でキョトンとする元凶。きっと自分が思い切りドアで吹き飛ばしたなんて思っていないのだろう。

 彼女は椎名真琴しいなまこと。俺と同じ東高校に通う、一つ上の先輩だ。腰まである長い茶髪は寝ぐせなのかそういう髪型なのかいつも外にはねている。ぱっと見の外見は間違いなく可愛いと言えるだろうが、中身が残念すぎるため恋愛対象としてみる人は少ない。

 俺は、強打したお尻をさすりながらゆっくりと立ち上がる。


「つか、毎回どうやって入ってきてるんすか? いつも鍵閉めてるはずなんですけど」


 そう、この部屋は何故か鍵を掛けても何食わぬ顔をして皆入ってくる。プライバシーも何もあったもんじゃない。

 椎名は口元に人差し指を当てて、一瞬だけ考えるそぶりを見せると。


「んー、気合いとか根性とか友情とか?」


「そんなんで開けられたら警察はいらないんですよ! しかも、友情ってなんですか!? 他にも協力者がいるんですか?」


「いや、単独による犯行」


「平気な顔して言わないでくださいよ……。それで、どうやって開けてるのかいい加減教えてもらいましょうか?」


 一年間放置してきた謎を、今更になって問いただす。

 今までは周りのペースに巻き込まれて聞けなかったが、一年かけてつけた耐性のおかげか、わりと正気を保ったまま今回は聞けた。

 それは喜ばしいことのようだが、よく考えてみれば、それは自分が変人たちに順応しているという意味合いもあるようで若干へこむ。

 椎名は実践と言わんばかりに無言でドアの鍵を掛けて、ドアノブを握る。


「えっと……先輩?」


 ドアノブを握ったまま固まる椎名に駆け寄ろうとして。


「おりゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 女子らしからぬ奇声を発しながら、ドアを思いきり引っ張った。

 すると、ガキンッという嫌な音ともにドアは開いた。


「ちょ、あんた何してんですか!?」


「これが真実だよ、川島君」


「いや、全然わかんないです……」


 恐らく、ドアノブを上げながら回すというところに意味があると思うのだが、鍵を掛けても意味がないことを目の前で証明されてしまって愕然とする。

 そんな俺に追い打ちをかけるように椎名はどや顔で腰に手を当てた。


「はぁ……もう朝から疲れる」


 俺はがっくりと肩を落とすと、疲れを吐き出すように溜息をする。

 そんな俺のことなんてお構いなしに椎名は変わらずハイテンションだ。


「それはきっと眠気のせいだよ! だから、眠気をふき飛ばすためにもっと上げていこうぜ!」


「先輩は無理に上げなくていいです。寧ろ下げてください」


「あ、それで感想は?」


 椎名は何かを思い出したようにさっきまでの会話ぶつ切りにして、謎の質問をしてくる。


「また唐突ですね……えっ、何の感想? 気分は最悪ですけど」


 とりあえず今の俺の心境を答えてみたものの、気に入らなかったのか、椎名は呆れたように息を吐くと。


「だから、女の子が朝起こしに来るっていう夢シチュエーション」


「あ、もうさっきの話はスルーなんですね。上げたままなんですね」


「グダグダうるさいよ! ちゃんと人の話聞いてるの!?」


 椎名はまるで悪さした子供を叱るように、両手を腰に当てる。


「それ先輩が言いますか!? 今のところ俺達の会話は一方通行ですよ!」


「そんなことないよ! 川島君の初恋じゃあるまいし」


「ちょっと!? 誰の初恋が一方通行ですか!? 俺の初恋が一方通行かどうかなんて先輩には分かんないでしょうが!」


「…………」


「そこで黙るの止めてもらえませんか」


「あ、そうだ。川島君、今日当番だよね? 今日の晩御飯はハンバーグがいいな」


「話題の変え方が雑すぎでしょ!? 面倒臭くなったんですか?」


「じゃあ聞くけど、川島君の恋は実ったの?」


 椎名は急に真顔になると、俺の目を見つめて言った。

 真顔になるタイミング的に、かなり悪意があるように感じるのはきっと気のせいじゃない。


「……ごめんなさい。これ以上はもう勘弁してください」


「どうせ一方通行な川島君に、せっかく気を遣ったのになー」


「真顔で刺すの止めて……」


 あのいつもハイテンションな椎名が真顔で言うほど俺は奥手に見えるらしい。

 確かによく喋る女の子なんてそんなにいる訳じゃない。だから、そう思われても仕方ないだろうが、でもそんなこと椎名に言われたくない。

 何故なら。


「さっきから散々な言いようですけど、先輩だって恋とかしたことないんじゃないですか? 見たことないっすよ、先輩が男連れて歩いてるところ」


「それは見せてないからね。あたしだって男の四人や五人くらいいるもん!」


「ものすごい悪女っすね」


「でも、本命は君だけだぜ!」


 可愛らしく片目を瞑って、こちらに指を突きつける。

 それに対して俺は冷静に。


「ごめんなさい。私、好きな人がいるの」


「そ、そんな! あのときの言葉は嘘だったのかい? 好きだって言ってくれたじゃないか、恭ちゃん!」


「誰が恭ちゃんですか!」


 完全に椎名のペースに乗せられた俺は、ふと我に返りスマホの時間を確認する。

 時刻は七時五十分。喫茶店の開店十分前だ。

 あまりの絶望的状況に体中の血の気がさっと引くと同時に、スマホをぶんどられた。


「ちょっと先輩、何してんすか!? そんなことしてる場合じゃないですって! 開店十分前ですよ!?」


「そんなこととはなんだ! 人と話してるときにスマホを見るなってお母さんに習わなかったのか!」


「先輩が常識を語らないでください!  つか、スマホ返してくださいよ先輩」


 椎名はまるでいたずらっ子のように、ニヤニヤしながらスマホをヒラヒラさせている。

 それを何とか取り返せないかと手を伸ばすが、椎名は猫のように身軽にかわす。


「ちょ、先輩! ほんとに返してくださいってば!」


「ふっふっふ……取り返したければ、あと三人は連れてくることだね」


「だからそんな時間ないって言ってるでしょ!? こうしてる間にも時間は刻一刻と過ぎてるんですよ!」


「それなら心配には及ばないよ」


 椎名はチッチッと舌を鳴らして、自信満々に言った。

 この時点で既に開店時間には間に合わないことが決定し、もう諦めモードだ。いっそのこと休業にしてしまおうかと考えているくらいだ。

 俺は短くため息を吐いて、とりあえず椎名の話を聞いてみることにした。


「先輩、一応聞きますけど、その自信はどこから?」


「心の真ん中からだよ!」


 少しでも期待した俺が馬鹿だった。そもそも、椎名からまともな回答を貰えたことなんかない。少しは学習しろよ俺!


「相当浅いっすね……自信満々に言うなら心の底から思えるようになってからにしてください」


「それは出来ん!」


「そんな強く否定しないでください」


「だってあたしの心は……ん?」


 椎名が言い終わる前に俺のスマホから鐘を鳴らすようなアラーム音が鳴った。開店時間だ。


「あ、開店時間になったね。じゃあ、あたし行ってくるね」


「は? 今行ったって……」


「いやだなぁ、ちゃんと準備してからこっちに来たに決まってるじゃん」


 俺の言葉を遮るようにして言うと、椎名は足早に俺の部屋から出て行った。


「…………」


 俺はシミ一つない天井を見上げて思う。

 ――今日も俺の受難は絶好調なようだ。

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