第3話 再生

 海は凪いでいた。少年の垂らした釣り竿には動きが全くない。

「私はさ、学校さぼったの初めてだからさ。そういう風に言えるのかっこいいと思う」

 少年は、不機嫌そうにこちらを見上げた。

「う、嘘じゃないよ。本当にそう思っているんだって」

 私が顔の前で両手を振ると、少年ははあっとため息を漏らす。

「嘘じゃなさそうだっていうのは分かります」

 私は、ふと堤防に腰を下ろした。どうしてだろう。この少年の見ている景色を、同じ高さから見てみたいと思った。


 風がうなじを撫でていく。私は、抱えた紙の束が飛ばされないようにぎゅっと握りしめる。

「私、学校好きじゃないんだよね。人に合わせるのが苦手なんだ。すごくかんばってたんだけど、でも今日どうでもよくなっちゃった」

 なんとなく、この人になら言ってもいいかと思った。彼からしたら、はた迷惑な話だとは思ったが、言葉がするすると口をついて出る。

「そんなものじゃないですか。俺だって学校は嫌いです。勉強は簡単だし、周りはくだらないし。運動ができないといじめられるし」

「ああ、最後すごくわかるなあ……私も運動は苦手だから、いつも惨めな思いしてたよ」

 堤防につけたお尻が熱い。太陽が高くなるにつれて、海は輝きを増して、私の心の内なんて知らずに優雅に揺れている。私がいようがいまいが、ここはそんな場所なのだろう。海は青黒くて、漁船が行きかっていて、そして少年はここで釣り竿を垂らしている。


 世界に自分がいなくても何も変わらないことは、残酷なことだと思っていた。誰かに認めてもらいたかった。私は世界に必要なのだと。だけど、今日初めて、私のいない世界を美しいと思った。世界は広くて大きくて、そこにいる私のことなんて何一つ気にせず、ただ淡々と時を重ねていく。

 世界に置いて行かれてはいけないと思っていた。だけど、私が追いかけていたのは、本当の世界ではなかった。本当の世界は、誰のことも連れて行かないし、置いていかない。なんだか馬鹿らしくなった。びくびくする必要もない。焦る必要もない。学校は、友達は、世界のすべてではない。もちろん、ミヤちゃんだって、私の全てではない。


 私は、隣の少年の顔を盗み見た。首筋はクラスの男子よりずっと細くて、でも手の大きさだけは一人前に近い。成長期に入ったばかりの少年のアンバランスな肉体と、分相応な強さを秘めた瞳が、そこに存在していた。

 抱えた紙束を下ろして、だいぶ薄くなってしまったスケッチブックを手に取った。ついでに、バックパックの中から筆箱を取り出す。こんなに全てを捨てる覚悟をしていたのに、私の筆箱の中には、まだ4Bの鉛筆が入っていた。

 流石に4Bで描くのは濃すぎる。なんだかパンパンの筆箱をまさぐって、Bの鉛筆を取り出した。こんなことなら、透明水彩も持ってくればよかった。光が生み出すこの世界を、色なしに美しく残すほどのデッサンの腕を私は持っていない。


 スケッチブックを開いて、まずは隣に座る少年の姿をなぞった。彼は特段綺麗な顔をしているわけではなかったけれど、でも、今の私にとって一番美しい人だった。

 その強さをこれからも持っていてほしいと思う。押しつけのようであるかもしれないけれど。もし彼が、私のように誰かに合わせて行動するようになったとしても、それが彼が胸を張って選んだ結果であってほしい。

 ずっと羨ましいと思っていた。ミヤちゃんの持っている強さが。だけど、それが強さだったのかどうかすら、私は知らなかった。

 私はスケッチブックをめくって、そこに彼女の笑顔を描いた。教室では険しい顔をしていることが多かったミヤちゃんは、私と二人の時はよく笑った。それが嬉しかった。私だけが、そういう彼女を知っているのが嬉しかった。私は今の彼女の笑顔を知らない。彼女が、転校先でも、あの鈴のような笑顔を見せられる人に出会えていればいいと思う。

 記憶の中の彼女は、一年前に描いた時よりもずっと霞んでいた。変わったのはミヤちゃんだけではない。私だって、彼女と離れて変わっていく。


 画用紙をスケッチブックから破り取って、もう一度紙飛行機を作る。小さなころ、兄が誇らしげに、よく飛ぶ紙飛行機の作り方を伝授してくれたことを思い出す。折り方は思い出せなくても、彼の長い指が紙の上を滑っていったことと穏やかな声は、鮮明に浮かんでくる。

 私はおもむろに立ち上がって、腕を大きく振りかぶった。今度は迷わない。指先を離れた紙飛行機は、思ったよりも低いところを粘り強く飛んで、音もなく水面に着地した。水面に広がっ波紋は、すぐに波に打ち消されて散っていく。

「ちょっと、ものを捨てないでって言ったじゃないですか」

 少年が釣り竿を持ったまま憤慨している。なんだかおかしくなって、私は笑った。自分から声を上げて笑ったのは、本当に久しぶりだった。

「笑ってる場合じゃないですよ……」

「ごめんごめん。もうやらないから」

「反省してないじゃないですか」

 私の声が、抜けるように高い空に吸い込まれていく。夏の青は、この世界で一番美しい色だと、小さなころから思っていた。


 またここに来よう。今度は透明水彩絵の具を持って。この色を、空間を、波の音を、日差しを、真っ白な紙に写し取っておきたい。

 小さなころ、ただ描くことが大好きだった。自分の指先が、自分の好きな世界を作り出していくことに、いつもわくわくしていた。

 自分の好きなものを描こう。この世界には、嫌いなものもたくさんあるけれど、同じくらいたくさんの美しいものと好きなものがある。この心を、この気持ちを忘れないために、私は絵を描いて残しておくことができる。


 紙飛行機は、水面を滑って小さな白い点に近づいていく。汗がアスファルトに落ちる。紺碧の波が、堤防のふもとで砕けて、小さなガラスの欠片みたいに、光を振りまいている。

 少年の釣りざおがしなる。

 私は、消失点の存在しない視界に満ちた青い光を、ただ静かに見つめていた。

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青彩 藤石かけす @Fuji_ishi16

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