第2話 懐古
小さなころから、絵を描くことが好きだった。絵本や兄の買っている漫画の絵を模写したり、風景や動物を描いたり。家にいて暇なときは、十中八九絵を描いていた。
学校では、美術の授業以外で絵を描いたことはなかった。もともと人付き合いのうまくない私は、周りの人に振り落とされないように必死で、自分の好きなものの話なんてしようと思ったことがなかった。友達と同じドラマを見て、友達の家ではやっているゲームをやった。けれども、その時はそれを辛いとは思っていなかった。みんなそんなものだろうと思っていたのだ。
もっと楽しい人生があると知ったのは、小学五年生の時だ。
人生で初めて、本気で絵を褒められた。
「すごい、ひなちゃん、絵めちゃくちゃ上手いじゃん!」
特別仲が良いわけじゃないのに私を名前で呼んできたのが、ミヤちゃんだった。
ミヤちゃんの本名は都子で、物知りな人だった。そして冷めていた。流行っているアイドルの話は嫌いだったし、なんだか小難しそうな本をいつも持っていて、すぐに泣いたり喧嘩したりして友情を確かめ合っている同級生のことを馬鹿馬鹿しいと思っていた。そういう考えがにじみ出ていたのか、それとも単純に言葉のきつい人だったからなのか、みんなから好かれているとは言えなかった。ただ、賢い人だったので、グループ活動などで仲間外れにされているところは見かけなかった。
彼女に声をかけられたのは図工の授業――小学校では美術ではなく図工と呼ばれていた――でのことだ。驚いた私は、とっさに絵に覆いかぶさった。
「なんで隠すの? 上手いのに」
彼女はコテンと首を傾げた。私はフルフルと首を振る。その時は、お気に入りの場所を描くという題で絵を描いていた。私が描いていたのは、みんなと同じように学校の校庭だ。
「あ、そう」
私が無言でいると、彼女は興味を失ったように去ってしまった。その時の私は、半分ホッとしていて、半分残念に思っていた。勇気なんて一つもないのに、誰かに話しかけてもらうのを待っている。私はそのころから、臆病で卑怯な人間だ。
ミヤちゃんは他人に興味がないので、すぐに私のことなど忘れるだろうと思っていた。だけど、それはこちらの勝手な思い込みだったようだ。彼女は、一週間もしないうちに、私を呼びだした。
「ねえ、ひなちゃんは他にも何か描いてるの?」
「まあ、うん。大体のものは」
ちょっと驚いて、変な返しをしてしまったことを覚えている。
彼女の猫みたいにまん丸の瞳は、見たことがないほど輝いていた。まっすぐで眩しい光。こんな顔もできるのだと、私はついその光に吸い寄せられてしまった。
「他の絵も見てみたいな」
その日の放課後、私は習っていたピアノを初めてさぼって彼女を家に呼んだ。私のスケッチブックを三往復くらいした彼女は、やっと顔を上げると、こう言ったのだ。
「すごい、すごいよ! この森、影がすごくうまいし、こっちの人は髪の毛がめちゃくちゃ上手。これは漫画のキャラクター? 私漫画詳しくないけど、動きすごくいいね。本当に何でも描けるんだなあ」
彼女がこんな風に人を褒めるのを見るのは初めてだった。こんな風に褒められるのも初めてだった。私の心臓は信じられないほど大きな音を立てていて、私は自室の床に正座したまま手汗だらけのこぶしを握っていた。
「ねえ、お願いがあるんだけど」
ミヤちゃんは私の手を取って言った。
「私の書いた物語に絵をつけてくれませんか」
ミヤちゃんは嘘をつかない。お世辞も言わない。
「あっ、もちろんひなちゃんが私の作品が気に入らなかったら無理にとは言わない。でも、私ひなちゃんの絵がすごく好きだからさ」
初めて、本当の私が認められた気がした。
「うん、いいよ」
私はこの時から、ミヤちゃんの魔法にかけられていたのかもしれない。
何日か後に見せてもらった、ミヤちゃんの書く小説は、学校での彼女の姿から想像できるものよりもずっと可愛らしかった。ジャンルは児童文学。冒険ものから、甘酸っぱい恋愛もの、ミステリまで色々あった。どれも短かったけれど、面白かった。私はその日家に帰ってすぐに絵を描いた。確か、男の子が不思議な世界に迷い込んでしまう話の絵だったはずだ。一番得意な森を描いて、その手前に主人公を描いた。絵のレベルだけで言えば、今のほうが絶対に上手い。けれど、この日の絵は、私の人生の中で一番輝いていたと思う。
ミヤちゃんは、私が描いた絵を見ると、それを頭上に掲げてくるくると回った。
「すごい! 私の物語が絵になってる! ひなちゃん本当にありがとう!」
私たちが会うのは、はじめは放課後だけだった。しかし、段々と学校の中でも二人でいることが多くなって、小学校を卒業するころには私たちは親友になっていた。ミヤちゃんといるときだけは、好きなものは好きと、嫌いなものは嫌いと言えた。その思いを馬鹿にしないと知っていたから。私は、ミヤちゃんの強さが好きだった。ミヤちゃんと一緒にいるときは、自分が矮小な人間なことを忘れていられた。強くなれたような気がしていた。
「ねえ、大人になったら二人で本を作ろうよ」
遊びじゃなくてさ、本当に本屋に並ぶようなやつ、とミヤちゃんは言った。ミヤちゃんの夢は作家になることだった。ミヤちゃんならなれると思う。だって、彼女の物語は文句なしに面白いのだから。
「私が文を書いてさ、ひなが絵を描くの。名案でしょ?」
名案でしょ? はミヤちゃんの口癖だ。
その日から、私の夢はイラストレーターになった。自分の書いたイラストが、ミヤちゃんの本の表紙を飾っているところが見たかった。
私たちは、たくさん話をして、いろいろな本を作った。ミヤちゃんがスマホで書いた小説を印刷して、挿絵と表紙をつけてホチキスで留めただけだったけれど、その本は私の宝物だ。
けれど、中学二年生になるとき、ミヤちゃんは転校することが決まった。親の仕事が原因だ。仕方がない。寂しいけれど、私たちはスマホを持っていたし、この時代なら大丈夫だ。そう信じていた。
「これからも仲良くしてね。絶対だよ。本作ろうね。私は、ひなの絵の一番のファンだから」
何度も電話をした。ビデオ通話もした。中二の春休みには、ミヤちゃんが私のところに会いに来てくれた。互いの誕生日には、必ずメッセージとプレゼントを贈った。ミヤちゃんが私にくれるのは小説で、私が彼女にあげるのはイラストだった。
だけど、昨日。高校一年生の九月八日。ミヤちゃんの誕生日に、私が送ったメッセージに既読はつかなかった。いつもは一時間あれば必ず返信があるのに。何かあったのかと彼女のSNSをチェックしたところ、彼女は友達と誕生日パーティーを開いていた。
ミヤちゃんは、高校でどんな風に生活しているんだろう。四月には、「ここには仲間が沢山いるよ! ひなも仲良くなれると思う」と言っていた。それが、最後の連絡だったはずだ。仲間ってどんな意味なんだろう。ミヤちゃんは、友達とパーティーをするような子じゃなかった。高校に入って性格が変わってしまったのだろうか。もしかしたら、私よりも絵がうまい人を見つけて心変わりをしてしまったのかもしれない。それとも、文章を書くよりも楽しいことを見つけた?
本当の私にとって、ミヤちゃんは世界の救いの全てだった。だけど、そう思っているのは私だけなのだ。私は彼女に必要とされる絵描きになりたかった。ミヤちゃんの小説の挿絵を考えているときは、どんなキャンバスの前でもわくわくした。彼女の強さと真っ直ぐさは、私の憧れだった。中学二年生以降、自分を隠す生活に戻っても、ミヤちゃんがいるって思えたから笑っていられたのに。
高校は全然楽しくなかった。周りの女の子は、流行りのコスメと海外のアイドルの話ばかりしていた。入ろうと思っていた美術部は、始めに仲良くなった子の一人が「美術部って暗そう」と笑いながら言ったので入らなかった。私はいつも引きつった笑いを浮かべていた。スカートを折るのが怖くて怖くて仕方がなかった。
こんなことになるなら、ミヤちゃんと知り合いにならないほうがよかった。どうせ失われるのなら、心地よい関係なんて知らないほうがよかった。
私、どうしてイラストレーターになりたいんだっけ?
白いスケッチブックを前にしても、何も思いつかなかった。
何もわからないものを追いかけてきた自分に、無性に腹が立った。約束を馬鹿正直に守った私が悪かったのだ。結局何も変わらない。迎合するのが、クラスメート全体からミヤちゃんに変わっただけだったのだ。私は、臆病で矮小なまま。人の指示した道を、まるで自分が選んだかのように思い込んで、崇高な気分で追っていたのだ。
もうこれに用はないな。私はそう思って、自室の棚から五冊のスケッチブックを取り出した。本当はゴミ箱に捨てるつもりだった。道にばら撒いてもいい。でもなんだか、こんなところまで来てしまった。
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