青彩

藤石かけす

第1話 逃亡

 手に握りしめたスマートフォンの電源をつける。通知を確認する。画面に新しいメッセージはなく、無機質なメールマガジンの「セールのお知らせ」だけが煌々と輝いていた。


 どうして。


 私は、何の変化もない画面に心の中で詰問する。どうして、どうしてこんなに音沙汰がないんだろう。自分で描いたホーム画面の女の子の笑顔も憎らしく思えてくる。なんでこいつはピースなんてしているんだ。私は、小さく首を振って、スマートフォンの電源を落とした。


 ガタンゴトン、という規則的な音が速度を緩めていき、鈍色の列車がホームに滑り込む。ぷしゅ、という気の抜けたような音を立てて扉が開いて、私と同じセーラー服を着た子供たちが、まるで洪水のように車両から流れ出していく。

 ああ、降りなくてはいけないと思った。今日の一時間目の社会は小テストだし、今日は体育のグループ活動もある。学校に行かなければ、より一層置いていかれてしまう。


 だけど、そんなことにどんな意味があるのだろう。どうせ私がいなくても、先生は名簿に欠席の「欠」を書き込むだけだし、友達から心配する連絡も来ない。私を必要としてくれているのは、ミヤちゃんだけだったのに、そのミヤちゃんですらももう私のことを忘れてしまった。


 何の曲かも分からない発車ベルが鳴って、電車のドアが閉まった。マンモス校の生徒がごっそりいなくなった車内は、今までで一番空気がきれいだった。私は、きっちり揃えていた足を前方に投げ出し、車窓に視線を向けた。初めて見る景色が流れている。退屈で気分が悪いだけだった周囲の世界が、学校のはるか先というだけで、こんなにも自由に見えた。

 車内に残っているのは、知らない制服の子供が数人と、後は仕事に行くのだろう大人だけだ。私のことを訝しむように見ていたスーツのおじさんは、私がしっかり起きていることを確認すると、次の駅で降りて行ってしまった。


 ドアの上に貼ってある時刻表を見上げる。この列車は、隣の県の海辺まで続いている。

 ガタンゴトン、ガタンゴトンと規則正しく、列車は何事もなかったかのようにひたすら前進していた。いや、実際何事もないのだ。鉄道会社にとって、一人ひとりの行先なんてどうでもいいことなのだから。彼らにとって大切なのは、列車が時間通りに動くこと。トラブルが発生しないこと。乗客が行きたいところに行きたいときにたどり着けること。私がホームに飛び込んだら大変なことになるだろうけれど、私が電車を乗り過ごそうがどうしようが、運賃をってさえいれば、私はただの乗客の一人に過ぎない。

 眼前を流れる景色が、ビル群から住宅街になり、そしてこの後はきっと田んぼに変わっていく。空は気持ちが悪いくらい青くて、浮かんだ雲は放し飼いの羊のようにのんびりとしている。


 このまま終点まで行こう。

 そうして、人魚姫よろしく、この鞄の中身と一緒に海の藻屑となってしまえばいい。我ながら名案だ。

 スマートフォンの電源を切る。友達からはこなくても、学校や親からは連絡があるかもしれない。本当はスマホを捨ててもよかったけれど、それは少し怖かった。


 車両からはどんどん人が減って、とうとう私と、いかにも地元の人間という雰囲気のおばあちゃんだけになった。


 私は、生まれて初めて学校をさぼった。




「終点、津久駅です。列車をご利用いただきありがとうございました」

 耳馴染みのないアナウンスとともに、十両の列車はゆっくりと減速していく。終点が英語で「terminal」なことを、私は初めて知った。

 終点の駅は想像以上に大きくて、ノスタルジックな無人駅を想像していた私にとっては、なんだか拍子抜けだった。二本だった線路が駅に入る直前に五本に分かれて、その先に倉庫のようなものがある。そっとのぞき込むと、眠っている車両が一つ見えた。

 腕時計を確認すると、十時を回る直前だった。一時間半以上乗り過ごしてきたことになる。なんだかおかしくて、小さく笑いながら、ホームの階段をかけ上がった。改札口には駅員がいたけれど、制服姿の私を見ても何も言わない。私は、ICカードの残高が足りていたことに安心しながら、駅の外に出た。


 さあ、これからどうしようか。駅舎の外の風は、どこか懐かしい匂いがした。水と潮の匂い。私が最後に海に来たのは小学校のころなのに。2億年前に水から上がった私たちは、まだあそこへ還りたいのかもしれない。


 日差しがじりじりとうなじを焼く。残暑とかいう言い方はナンセンスだと思う。残り物には福があるというが、残った夏なんて服が張り付くだけだ。汗が背中をくすぐるように流れて行って、私は日陰を追いながら海辺を目指して歩いて行った。

 ロータリを抜け、商店街のような大通りを進む。この辺りでは珍しい制服を着ている私に話しかける人は一人もいなかった。地図で方向を調べることはしない。そんなことしなくても、潮の香りがすべて教えてくれる。



 しばらく歩くと、鮮烈な青が飛び込んできた。刺すような光にうろこの如く輝く碧海。まっすぐ一本の線で区切られた紺碧の空。私と世界の間に、煮え立ったコンクリートが横たわっている。

 海辺は砂浜ではなく、堤防の下にテトラポットが置かれていた。左に目をやると、少し向こうには何艘か小型の船も見える。そちらが漁港のようだ。私は、道路を渡って堤防に飛び乗った。

 小さなころ縁石の上をなぞったように、私は堤防の上を歩いていく。海はゆらゆらと光っていて、太陽はうなじを焼いていた。海辺に並んだ民家も、港に泊まった舟も、何もかもが蜃気楼の向こうにあるみたいにぼやけていた。ただ、眩しい夏の光だけが、私を呼んでいる。


 堤防がT字に張り出した場所があったので、私は進行方向をそちらに変えた。視界にどんどん海が迫ってくる。本州の海は、エメラルドというよりは、黒々とした紺色をしている。すべてを包み込む腕のように、私を見つめている。

 バックパックをおろして、スケッチブックを取り出した。全部で五冊。中学二年生のころから書き溜めてきた私の絵のほとんどが、この五つの冊子に閉じ込められている。

 ゆっくりと開いて、ぱらぱらとめくる。通学路のイチョウ、学校の水道、好きな本の一シーン、好きなアニメのキャラクター、流行っていた俳優の顔、顔全体で笑っているミヤちゃん。

 私は、それを一枚一枚、スケッチブックから外していった。裏返って足元に広がったそれは、場違いな雪のようだ。


 そのうちの一枚を拾って、苦戦しながら紙飛行機を折った。小学生の頃は、寝ぼけていても折れたのに。どんどん忘れていってしまう。好きだったことも、嫌いだったことも。

 腕を大きく振り上げる。どうやったらよく飛ぶのかも聞いたことがあったはずだが、忘れてしまった。あんまり飛ばないのも格好がつかないが、仕方がない。


「ちょっと、何やってるんですか!」


 突然かすれた大声をかけられて、私は堤防から落ちそうになった。水面がぐんと近づいて、すんでのところで踏みとどまって振り返る。立っていたのは、背丈が私と変わらない少年だった。


「海にごみを捨てないでください」

 彼は、取り立てて言うべき容姿の人間ではなかった。印象に残らない顔に、Tシャツ、麻の短パン。しいて言うなら、一重瞼が厳しく細められていて、左手には釣り具を、右手にはバケツを下げていた。


「ご、ごめんなさい」

 責められるとすぐに謝るのは私の悪い癖だ。ゴミじゃないし、という反論を飲み込んで、自分より年下の少年に頭を下げる。

「それも拾ってください。なんですか、これ」

 足元を指さされて我に返る。散らばった白い紙は、ほとんどが裏返しになっていて、確かに気味が悪い。

「ご、ごめんね。拾うね」

 少年は私には会釈を返しただけで、堤防の縁に座って釣りの準備を始めた。私は、足元に散らばった紙を拾い集めながら、彼を盗み見る。小学校高学年くらいだろうか。日に焼けていて、でも体は細くて、泳いで焼けたわけではないことが一目瞭然だった。少年は、慣れた手つきで餌を括り付けて、釣り竿をしならせて、糸を水に落とした。ぽちゃんという音はしなくて、代わりに水面に同心円が広がって、すぐに消えた。

 彼の目は真っ直ぐ前を向いていた。決して大きくはないけれど、どこまでも芯のある強い目つき。同じものを過去に見たことがあった。


「ねえ、釣りが好きなの?」

 この日の私はおかしかった。変に気が大きくなっていたのか、普段なら絶対にやらないようなことをした。

「まあ……別にものすごく好きってわけではないです。学校行かないなら、昼ご飯は自分で作れって言われるので」

 それで魚を釣ろうとしているのか。独特な発想だ。

「よく釣れるの?」

「粘れば一匹くらいは釣れますよ」

 彼は淡々と答える。ハキハキはしていないが、理髪そうな子供だ。

「そういうあなたこそ、何をしているんですか」

 当然のことを、少し不機嫌に聞かれた。彼は、私という異物に気が付いた、この町で一番初めの人間だった。

「学校さぼっちゃった。ちょっと罪悪感」

 声に出してから、自分が怯えていることに気が付いた。私は、今まで絵にかいたような真面目だった。当然学校をさぼったことなど一度もなかった。今日の休みがさぼりなことを、誰かに言うつもりはない。だけど、隠し通せる自信もなかった。

「どうしてですか?」

 少年は私を見上げて尋ねる。

「俺はもう半年行っていないです。一日くらい大したことないですよ」

 あっけらかんとしていて、屈託のないその言葉に私はたじろぐ。その瞳はまっすぐに澄んでいて、いつも猫背で自身のない私とは全く逆の何かを秘めていた。


 ああ、やっぱり、私はこの強さを知っている。


 頭の中を、濁流のように記憶が流れていく。過ぎ去った美しい思い出。もう二度と戻ってこないそれを、私は渇望している。

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