第1話


 はらはらと舞い落ちる白い雪が眼下の街並みを白く染めていく。今日は満月というのに、満月は薄く広がる灰色の雲に隠されてしまった。


「今日は雪、か」


 薄暗い夜空を眺めてしきはぽつりと呟き、声は息と一緒に薄白く広がって消えていく。

 今日は何か夢を見たような気がするのだが、思い出せない。なんとか記憶に残っているのは月明かりの下に光る二つの蒼。その蒼は迷子のような目をしていた。綺麗な蒼なのに、もったいない、と織は思ったような気がする。


 

 今日は夢見が悪かった。いや、今日も、だろうか。それはきっと今日が満月の日だから。月に一度のこの日はいつも夢を見ているのだが、その夢の内容を一度も覚えていたことはない。ただ、必ずといっていいほど起きたら心が締め付けられたような感覚がする。だからこの夢は「彼女」の過去だろう、と織は考えていた。なぜなら自分が生活してきた中でそんな感情と一度も出会ったことはないから。


 

 織は生まれながらに、自分のではない一人の女性の記憶を持っている。そのことを誰かに話したことはない。「自分の中にもう一人の記憶がある」と言えば余計に周りから気味悪がられるに決まっているから。

 記憶の中にある一人の物語は「彼女」の視点で紡がれていて、織にとってそれは記憶であるはずなのに、古い伝承の本を読んでいるような、どこかとてつもなく遠いもののように感じていた。

 織の記憶の中に在る「彼女」の物語は絵本の最後の数頁を破いたように、その「彼女」の夫であろう、初老の男性の最期を看取ったところで終わっている。その後、「彼女」はどんな人生を歩んだのかは織すら知らない。知りたくても、「彼女」とは誰なのかわからないのだから、どうすることも出来ないのだ。

 

  

 一向に思い出すことの出来ない夢のことは忘れることにし、崖に座ってぼう、と眼下の都を見下ろしていれば、崖に座っている自分から少しだけ離れて立っている木の辺りにある人の気配に気付いた。

 いつからいたのだろうか。少なくとも、織がここに来た時はいなかった。木の影から動くことのない気配は織のことなんて気付いているだろうに、声をかけることもなければ、近付いてくることもない。殺意は感じないが、木に背を向けているため、相手がどんな背格好で、どんな表情をしているか、それに急に何をしてくるかがわからない。

 そのまま黙って相手の気配を探っていると気配は僅かに動いた。織は少しだけ体の支えにしていた片腕に力を入れる。相手が飛び出してきても咄嗟に立ち上がって体制を整えられるように。万が一いきなり襲われても対処することができる自負は織にあった。

 

 ──尤も、相手が人間であればだが。


 気配は少し動いただけですぐに止まった。

 そもそも、織に危害を加える気なら完璧に気配を殺すはず。なのに相手は気配を殺すことなく織の背後に立つ。これが織を殺すために雇われた殺し屋なら廃業まっしぐらだろう。

 何をするつもりか。

 織がほんの僅かに腰をあげた瞬間、


 「こんな夜更けに一人で危ないな」


 凛とした、若い男の声だった。声がした方に肩越しにゆっくりと振り返れば、腰まであるだろう長い黒髪を雑に紐で一本に括り、夜でもはっきりとわかる深海のような深い碧の瞳を持った男が左肩を木に凭れさせるように立っていた。

 まっすぐに織を見るその碧い瞳から逃げるように織は視線をすっかり白く染まってしまった眼下の街並みへと戻す。


「……多少、武術に覚えがあるのでご心配なさらず」

「それでも心配だ。恐ろしい妖が襲ってくるかもしれない」

「妖なぞ、もうこの世にはいないでしょう」

「どうだろうな、分からないだろう?」


 飄々と話す男に織はより警戒をする。とても面倒臭い男に捕まってしまった。こんな事になるなら気配に気付いた時点で無理やりにでも逃げるべきだったのだ。今更後悔しても遅いのだが。

 

「……もし、襲われて命を落としたとして、私の人生はそれで終わり。こんな時間に出歩いていた私の自業自得です」

「自分のことなのに随分と他人事なのだな」

「事実ですから」

「まあ、貴女ほどの力ならばそこらの妖相手に心配はいらないな」


 どくん、と大きく心臓が鳴った。


 ──この男は今なんと言った?


「私の力、とは」


 動揺を悟られないように、先程までと同じ声を装う。だって、今の時点で自分の正体を知られたということは、


「本当に襲う訳ではないから安心してくれ」


 自分よりも力のある妖か、


「ここまで力を完璧に隠せるほどの力を持っている妖と会ったのは初めてで興味があっただけだ」


 大昔に妖と共に姿を消したはずの、妖なんかよりも力のある、あの種族しかいない。


「なあ、」


 勢いよく織は男を振り返る。

 両頬に鱗のような紋様、先ほど深海のようだと感じた瞳は怪しく光り、雑に纏められ、風になびいている黒い髪の毛先はほんのり青く光っている。間違いない。


「──雪女殿?」


 端正な顔にどこか作りものじみた笑いを顔に貼り付けた「龍」が織をまっすぐに見ていた。



 

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紫苑の香りが運ぶ千歳の約束 烏鷺葵 @kt825wgb

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