紫苑の香りが運ぶ千歳の約束

烏鷺葵

プロローグ


 森の奥の少し開けた場所、男の探し人は切り株に座って夜空を見上げていた。

 

 男は気配を消し、後から音もなく近付き無防備な首筋に剣を添える。

 

「──随分と早かったのね」

 

 静かに紡がれた音は男の記憶の中のものとなんら変わりはない。女性としては少しだけ低めで、透き通ったよく通る声。

 男が急に背後に現れたというのに少しも驚いた様子がないあたり、凡そ男がこの場所に足を踏み入れた時点で気付いていたのだろう。彼女は人の気配を探るのを得意としているから。

 

「……抵抗、しないのか」

「する訳ないじゃないの」

 

 今更でしょ、と彼女は男が少しでも手を動かせば殺されてしまうような状況だというのに、いつものようにからからと笑う。男は自分が思っていたよりも彼女は理性的で、昔のように話せていることにどこか安心をする。

 

「あっという間だったわ、私の人生」

 

 けれど、やはり彼女は最後に会った時よりもどこか不安定で、危うい。

 

「真っ当に生きていたら私は何歳まで生きたのでしょうね」

 

 彼女は幼い頃からいつでも、どんなときでも凛としていて、芯が真っ直ぐ通った人だった。

 

「さあな、俺にも分からない」

 

 『真っ当に』と彼女は言うけれど、男から見るに、彼女は真っ当に生きていたと思う。

 

 囚われ続けている自分なんかよりも、ずっと。

 

「せめて、貴方の奥様とお会いしてから世を去りたかったのだけれど」

「俺にはまだ早いらしい」

「早いって、私たち幾つだと思っているの?貴方もいつまでもふらふらしていないで身を固めてしまいなさい」

 

 昔から変わらないお節介。でもそれが心地が良かった。

 

「お前は俺の母か。俺はふらふらしている方が性に合っている」

「そんな貴方がふらふらしている間に私なんて孫までできたのよ?」

 

 ──時の流れは残酷だ。

 

「お前の孫には会ったことがないな」

「でしょうね、貴方が家にいないせいで会わせようとしても連絡がつかないのだもの」

「それは…すまなかった。そんなにお前が見せたがっていたのなら相当、可愛らしいのだろうな」

 

 彼女は自分のずっと先を止まることなく歩んでいて、自分はずっと彼女と過ごしていた時代に取り残されている。

 きっと、これからも。

 

「なに?貴方に私の可愛い可愛い孫はあげないわよ」

「何故お前の了承がいるんだ」

 

 こうして変わらないものを見つける度に突きつけられていく現実。

 

「私の孫はあげられないけれど、いつか唐変木のような貴方のことを理解してくれる女性と出会えるといいわね」

「唐変木で悪かったな」

 

 最初から彼女の変化には気付いていた。

 

「──千景」

 

 もう、時間切れのようだ。

 

「……なんだ」

 

 さぁ、と二人の間に風が吹き抜け、彼女の長い髪がなびく。ふわりと香る花の香り。

 彼女はこちらを振り返り、口を開いた。

 

「──」

 

 見上げてきた彼女の頬には雪の結晶の紋様。膝の上に添えられている手の甲にも同じ紋様。目は儚く発光して彼女は人ではないことを再認識させられる。

 やはり彼女は最期まで強い人だったのだ。

 

「今言ったこと、宜しくね」

「あぁ、任された」

 

 もう、時間はないのはわかっているが文句を言う時間くらいは許されるだろうか。

 

「俺に身を固めろと言う割にはそれすらできないくらいの重い手荷物を持たせるのだな」

「いいでしょそれくらい」

「それくらい、ではないのだが。……まぁ、乗りかかった船だ。最期まで付き合おう」

「ありがとう。──さようなら」

 

 二人の間を風がさぁ、と吹き抜ける。




 「紡」は自分たちの永い付き合いの中で一番綺麗な笑顔を咲かせて、散った。

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