第35話 山口明日香

「私、山口明日香っていうの」


 聞いたことのない名前だった。

 本当にハルの知り合いなのかと不審に思っていると、山口さんは「大きくなったんだね」と微笑んだ。


「中学生の頃ハルくんと仲が良くて、すずめちゃんと出会った話とかも聞いてたんだ。会ったのは一度きりだったけど、こんなに大きくなってるなんてびっくり」


 懐かしそうに話す山口さんが嘘を吐いているようには見えなくて、不審者かもと疑う気持ちはすんなりと消え失せた。


 疑いが晴れたのを察したのか、山口さんは「良かったら少し話さない?」と私を近くのカフェに誘った。


 この人もハルと関わりがあったのなら、ハルの恋人について何か知っているかもしれない。

 本人に聞けないからと、私は誘われるままノコノコと付いて行ってしまった。


      *


 店に入り、窓側の席に案内され向かい合って座ると、山口さんは大人らしくホットコーヒーを頼み、私は苦い物が苦手だからとアイスココアを頼んだ。


「ハルくん、元気にしてる?」

 注文を終え店員さんが席から離れると、山口さんはすぐに聞いてきた。


「あ、はい。普通だと思います」と正直に言うと、山口さんは上品に笑い「普通かぁ」と呟いた。


 他愛のない話をしながら山口さんの顔をよく見てみるが、やっぱり覚えがない。

 一度会っているのなら、どうして私はこの人を忘れてしまったんだろう。

 幼い頃のほんの一瞬だったから?

 山口さんを見ていると、何だか嫌な気持ちになるのはどうして?


 話も聞かずに考え事をしていると、

「私ね、ハルくんと付き合ってたの」

と突然山口さんが懐かしそうに微笑み言った。


 思わず「えっ」と声を出すと、山口さんは笑顔のまま「中学生の頃の話だけどね」と目を細めた。

 その瞳の奥は真っ黒で、嘘を吐いているとすぐに分かった。


 失敗した、きっと昔ハルに振られて逆恨みしてるんだ。危ない人かもしれない。

 早くこの人から離れなければ危険かも、と荷物を持って帰ろうとすると、丁度そのタイミングで飲み物が届く。

 残すのはなんだか申し訳なくて、早く飲み干して帰ろうとココアのコップを手に取った。


 山口さんは届いたコーヒーに砂糖とミルクを加え、表情を変えずまるで本当のことのように話を続ける。


「ハルくんはカッコよくて優しくて、少し冷たいところもあったけどいつも私のことを想ってくれてて、私達すっごく仲良しだったの。学校中の噂になるくらい」


 話しながらいつまでもコーヒーを混ぜ続ける山口さんは、少し怖かった。


「……だけど、すずめちゃんと出会ってから、ハルくんはおかしくなった」


 それまで笑顔で話していた山口さんが突然、コーヒーを混ぜる手を止め真顔になり、私はホラー映画でも見ている気分になる。

 ホラー映画は苦手なんだけどな。


 その顔に若干の恐怖を覚えつつもちびちびとココアを飲んでいると、目の前の幽霊みたいな女の人はまた笑顔になった。


「ハルくんったら、幼いすずめちゃんにすっかり夢中になっちゃって……一度すずめちゃんに会ったとき、すずめちゃんが私に懐かなかったからってあっさり振られちゃった。私も子供だったから、弄ばれたって思っちゃったの」


 本当なのか嘘なのか、よく分からない口調で話されココアを飲む口が進まない。


 もしそれが本当なら、この人にとって私は二人の仲を引き裂いた悪魔のようなものなのだろうか。

 この人の態度に妙な怖さを感じるのも、私への恨みが滲み出ているから?

 全部の言葉を信じる訳ではないけど、全部が全部嘘でもない気がしてきて体が強ばる。


「あ、でもね」

 今は別れてよかったと思ってるの、と続ける山口さんに、どう考えてもよかったとは思ってないでしょうと頭の中でツッコミを入れた。

 吹っ切れているなら、きっとわざわざ私に話しかけたりなんてしない。


 漸くコーヒーのカップを手に取り、それをゆっくりと口に運び優雅に一口だけ飲むと、山口さんは落ち着いた様子で「ハルくん、今は女遊び激しいらしいし」と言った。


「…………えっ」


 信じられない言葉を聞いた気がした。


 ハルが、女遊び……?

 女の人が苦手で、私と一緒の時は女の人と目も合わさないハルが?

 綺麗な人に声を掛けられても冷たくあしらって、私に気付くと途端に優しい顔で笑う、あのハルが?


「……やっぱり気付いてなかったんだ?有名だよ、ハルくんが彼女を取っかえ引っ変えしてるって」


 私が言葉を失っていると、山口さんは聞いてもいないのに次々とハルのことを暴露し始めた。


 ハルに告白したら必ず付き合ってくれるだとか、恋人を大事にしないからすぐに振られるだとか、嘘吐きで酷い男だとか、私の見た事のないハルの噂を一気に聞かされ、目眩がしてくる。


 この人が嘘を吐いているんだ、と思い山口さんの顔を見るが、あの真っ黒だった瞳は鳴りを潜めていてどうにも嘘を吐いているようには見えない。


 まさか本当なのか、と私が驚きのあまり固まっていると「あはっ、信じられないよね」と先程まで不気味なほど上品だった山口さんが声を出して笑った。


 何がそんなに面白いんだろう、と疑問に思う。


「女の子にあんなに冷たかったハルくんが、今じゃそんなプレイボーイになってるなんて、最近まで私も思ってなかったの」


 楽しそうに笑いながら言う山口さんは、どこか嬉しそうにも見える。


 何がおかしいのか、山口さんは一頻り笑い落ち着くと

「……きっとハルくん、私を振ったことを後悔してるんじゃないかな」

と、何故そうなるのか頬を染めて愛おしそうに呟いた。


「あの頃すずめちゃんを優先して私を振ったけど、今更私への想いに気付いて後悔して、だから誰とも上手くいかないんじゃないかなぁ……」


 ハルのことを吹っ切れている風に言っていたのに、幻を見るかのように宙を見て呟く山口さんは、どう考えても普通の人ではなかった。


 この人は本格的におかしい人だ、と漸くココアを飲み干し「わ、私帰ります」と立ち上がったところで、


ドンッ!!


と突然窓から大きな音がした。


 外には、大きな窓に拳を叩きつけた、ハルが立っていた。

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