第22話 海と電車
「春樹」
しばらく玄関で固まっていたが母に名前を呼ばれ我に返ると、目の前にヘラリと笑う母がいた。
「すずめちゃん行っちゃうよ?」と言われ、漸く固まっていた体と思考が動き出し、先に出て行ったすずを追いかけるように家を出た。
外へ出ると「はるおそい〜」と何事もなかったかのようにすずが怒っていて、先程の出来事は全て俺の妄想だったのかと思い至る。
だが、あの小さく柔らかい感触は、ただの妄想と言うには鮮明すぎて。
たとえ妄想だとしても、なぜ俺はそんな妄想をしたんだという疑問も残る。
俺が混乱した脳を整理していると、すずがこちらへ走って来て俺の手を取った。
その小さな手の感覚に、ただの子供の気まぐれだと無理やり自分を納得させ歩き出す。
胸の鼓動は、繋いだ手からすずに伝わるんじゃないかと思うほど速かった。
*
「ハルくん、大丈夫?」
すずを送り届け俺も学校に着き、校門で待ち合わせていた華と合流し二人で教室へ向かっていると、俺の顔が変だったのか華が問いかけてきた。
「……大丈夫」と今朝の事が頭から離れずぼんやりとした声で答えると、「またすずめちゃんだ?」と華が悪戯っぽく微笑み言った。
図星で何も答えないでいると、華は
「ハルくんって分かりやすいよね」
と言いクスッと笑う。
恋人である華に言えるわけがない。
すずにキスをされたことが頭から離れない、なんて。
どう考えても他意は無いのに、そんな事をいつまでも考えていると華に言えばさすがに軽蔑されるだろう。
血は繋がらなくともすずは兄妹で、家族で、子供だ。こんなことは早く忘れろ、そう自分に言い聞かすのに、頭が言うことを聞かなくて苛立ちが募る。
子供にキスをされたくらいでなぜこんなに自分が頭を悩ませているのか考えても分からなくて、余計に苛立った。
忘れようと思えば思うほど脳裏にこびり付いて離れず、結局俺は数日間、心にモヤモヤを感じながら過ごした。
漸くあのキスのことを“子供の悪戯”として処理が出来た頃には、梅雨が訪れていた。
鬱々とした雨が数日続き、周りが静かになるからと好きだった梅雨も、キスの件もあり今回ばかりは気が滅入る。
まるで、俺に頭を冷やせと言っているような雨。
休日、リビングの床に寝転び全てを悪い方にばかり捉えて暗くなっていると、突然すずが寝転ぶ俺の体の上に乗ってきた。
「ぐっ……!」と苦しげな声を出せば、俺の考えていることなど何も知らないすずはケラケラと笑う。
誰のせいでたくさん悩んだと思ってるんだ、と思う一方で、すずが笑顔ならそれでいいかとも思う。
随分と簡単な男になってしまった、俺は。
そうだ、この感情はただの妹に対する愛情だ。
それ以外に有り得ない、いや、それ以外など存在しない。
あってはならない。俺は、間違ってなんていない。
降りしきる雨の音を聴きながら、無意識に自分を肯定していた。
*
俺の心に重たく降り注いだ梅雨も明け、夏休みになった。
小学校での生活が上手くいっているのか、すずは友達と遊びに行く回数が増えた。
だが、相変わらず俺の事が一番なようで、友達の誘いを断ってまで俺と過ごそうとする一面もある。
まだ俺は必要とされている、と安心感を感じると同時に、いつか俺を見なくなるという漠然とした不安も感じていた。
そんな不安を感じる兄など、何処にもいないというのに。
「海いきたい」
夏休みも残り僅か、俺が手伝ってギリギリで宿題を終えたすずが突然言った。
どうやら学校で海の存在を教わったらしい。
「はる!海!」
宿題が終わったからと興奮気味に希望され、妹に甘い俺は「はいはい、明日な」と簡単に約束をした。
喜びはしゃぐすずを見て、俺も嬉しい気持ちになる。
翌日、約束通りすずと電車で近場の海に向かった。近場だが、すずにとって初めての遠出で初めての電車だ。
急な話だったので父と母は仕事で来られず、二人だけでの旅路。
すずは「ぼうけんみたい!」と楽しそうだ。
海水浴場に着き、俺が水着を着せようとすると「じぶんで着れるもん!」と怒り一人で更衣室に入ってしまった。一人になられると俺が心配なんだが。
女子更衣室に男の俺が入れる訳もなく、すずが出て来るのをじっと待っていると、やがて女性スタッフに連れられて出てきた。
迷子と勘違いされたようで、不貞腐れた顔をしている。今度からはちゃんと母も連れてこよう、と反省した。
すずを回収し俺も水着になり、泳いだり砂遊びに付き合う。
浅瀬ですずに小さく水をかけると、負けず嫌いなのかすごい勢いで返され驚いた。
俺が全身ずぶ濡れなのを見て、すずはこれでもかという程笑っていた。
笑うすずを見ると怒る気にはならない。
そうして遊んでいると、あっという間に夕日が沈み始めた。
「夏休みおわっちゃうね」
沈む夕日を眺めながらすずが言う。
そうか、今日は夏休み最終日か。
「……海、また来年も来るか?」
夏休みが終わるのが名残惜しそうなすずに言えば、「行く!!」と元気な返事が返ってきた。
夕日に照らされるすずが俺には眩しくて、何故だか目を逸らしたくなった。
帰りの電車では、遊び疲れ眠ってしまったすずをしっかりと支え、ただ静かに電車の走る音を聞いていた。
来年も、再来年も、ずっとすずとこうして穏やかに過ごせたらいい、と思いながら俺は小さな寝息に耳を澄ました。
この日が何の日なのか、思い出すこともなく。
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