第11話 聖母様の物理学~その6
川崎の扶桑女子大は丘の上に立てられ、校舎の間に木々が植えられ落ち着いた、これぞ女子大と言う雰囲気で私は好きだった。商業高校をでてすぐ就職した私には知らない世界で、正直娘が羨ましかった。同時に娘にそんな環境を与えることができて、克彦さんと二人、満足していた。
対して札幌国立大学は平地の木々の間に校舎が見え隠れし、その間を人々が活発に行き来している。観光客も混ざっているだろうが、研究者らしき人の姿も多い。また男子学生のパワーは扶桑では見ることができない。
扶桑は古き良きものをしっかりと守り発展させていく学風、札幌は積極的に新しいものにチャレンジしていく学風に見える。優劣はつけようもなく、両方を知ることができた杏はラッキーだし、そのように指導した扶桑の先生方の慧眼には恐れ入るしかない。
そんなふうに考えながら歩くと、杏の居室のある理学部棟に着いた。
理学部棟を見上げると、克彦さんが笑うように言った。
「杏はうそをついてたな」
「どういうこと?」
「2月に杏の部屋を探しにきたとき、ここに来たろう」
そのときはすべてが雪に覆われ、美しいが人影は少なかった。
「あの時杏は、中に誰も居ないから入れないと言ってたろう」
「そうね」
「だけどさ、お盆休み中も研究しているっぽい人がこれだけいるんだ、中に入れないなんてことはなかったと思うよ」
「杏ははずかしかったのかな?」
「多分そうだね」
現代的な建物の中に入ると、内装もやはり現代的である。機能とコストを重視し装飾は無く、悪く言うと無機質である。これが扶桑だと歴史や女性らしさを感じさせるものがそこかしこにあって、有機的な美を感じさせてくれていた。階段を登りながらその感想を克彦さんに言うと、ちょっと時間が立ってから返事があった。
「うーん、もしかしたらだけど、扶桑の内装には学生集め、生徒集めという機能があるのかもしれないね。そうすると内装にコストを掛けるのも、費用対効果という点で悪く無いのかもしれないね」
「それって、国立大はそんなことしなくても学生は集まるってこと?」
「うーん、大学のホームページとか見てると、国立と言えど学生集めには腐心しているとは思うよ。ただ、女子校・女子大っていうのは、時代的・社会的に存在意義自体が問われているんじゃないかな」
「克彦さん、そんなこと考えてたんだ」
「はは、会社の若い子たち見てるとね、いつの時代も女の人って大変だと思うんだよ。なんせ仕事が楽しくなってきた頃に結婚・出産のタイミングが来がちだからね。女子校がそんな女の子たちに力になっていればなって、杏が扶桑にお世話になってから、ずっと考えてた」
研究室までは、杏に聞いていたので迷うことはなかった。
風を通すためかドアが開け放たれていたので、早速入室する。
「おじゃましまーす。杏ー、いるー?」
杏が振り返り、笑顔をみせてくれた。
窓からは緑に満ちた景色が見える。杏はこの窓から北海道の四季を満喫しながら学問ができる。うちが払う学費以外に国費がたくさんたくさん出ているはずで、学生たちは納税者に感謝し、さらには将来の仕事で貢献していかなければならないと思う。
並べられた事務机には書籍やプリント類が積まれ、皆学問に身を捧げているのがわかる。まあ多くの机にフィギュアとかアニメのポスターとかが飾ってあり、杏には男の子の世界を知るのにちょうどいいだろう。
私と克彦さんはそれぞれ、部屋を目にした感想を口にした。
「なんか、杏の部屋とおんなじね」
「そうだな、雰囲気が似てるね」
杏は、
「どういうこと?」
と聞いてきた。私が、
「物理に埋まっているっていうか?」
と答えると、
「ははは、私はこの部屋、好きだよ」
と言ってくれる。きっといい仲間に恵まれているのだろう。
食事を出すために「ゼミ室」というところに案内してもらう。大きなテーブルが鎮座し、電気ポットとか冷蔵庫などが備えられている。克彦さんにお湯の用意を頼み、私はSNSでのぞみちゃんたちを呼ぶ。綺麗だったがテーブルの上を一応拭く。持参の食べ物を並べていると、廊下から話し声が聞こえてきた。
聞き慣れたのぞみちゃんの声がする。廊下に飛び出して
「のぞみちゃん、修二くん、明くん、ひさしぶりー」
と言って迎えた。
若い人の食欲を見るのは気持ちいい。四人ともよく食べてくれる。
「杏、あんたハンバーグ食べ過ぎ。昨日も食べたでしょ。それだと男の子たちの分が無くなっちゃうよ」
杏が返事する前に明くんが反応する。
「おかあさん、聖女様のハンバーグ好きは有名ですから、想定内です」
杏は恥ずかしそうに明くんをにらんだ。
のぞみちゃん、明くん、修二くん、それぞれに暮らしの様子や研究の進み具合を聞く。
のぞみちゃんは帰省をあきらめて、実験用の試料をつくるのに集中しているそうだ。その事自体は聞いていたけれど、表情を見る限り充実した経験をつめているようだ。私はのぞみちゃんを長いこと見てきたけれど、実験の様子を語るのぞみちゃんからは今までに見たことのないアグレッシブさを感じた。中高とスポーツにずいぶん力を入れていたが、そのパワーを研究にぶつけているらしい。
明くんは不思議な人だ。SNSやらメールやらで杏達の様子を一番良く教えてくれるけれど、なんだか一つ上のステージからみんなを見ているような感じだ。本当はのぞみちゃんに恋していて、仲間として杏も好きで、親友の修二くんを真剣に応援している。だけどそれだけじゃない。自分の専門のみならず、杏たちがやっている分野まで首を突っ込んで、もしかしたら学問に対する貪欲さは杏より上かもしれない。
修二くんものぞみちゃんの仕事を手伝って杏の研究に参加しているそうだ。私はこの人に一番興味がある。なぜなら電話で杏と離すと、話題の半分は修二くんのことだからだ。だけど話の中で修二くんは何か派手な事をするわけではない。ちょっと親切なことをしてくれるとか、細かいことに気がついてくれるとかだ。
「神崎さん、ちゃんと食べてる?」
修二くんが杏に声をかけた。修二くんはこんなふうにいつも杏のことを気にかけてくれているのか、と思った。
「修二くん、そろそろ『杏』っていってあげてよ~」
と言うと修二くんは、
「あ、いやー」
と言って照れていた。この人は致命的に押しが弱い。もうひと押ししておこう。
「その方が杏も喜ぶと思うんだけどなー」
杏が真っ赤な顔をしている。
二人を応援したいという明くんの気持ちがよくわかる。
あとでなにかの拍子に明くんと二人きりになったときがあった。
「聖母様、あの二人、もう、もどかしいでしょう」
「そうね、ありゃ相思相愛なくせに、お互い一歩が踏み出せないパターンだね」
「そうなんですよ。僕、たまらんですよ」
「だけどさ明くん、人のこと言えるの?」
「そうなんですよ~。のぞみんの気持ち、わかりにくいんですよ~」
「押せばいいじゃない」
「う~ん、押しても冗談としてしか受け取ってもらえなさそうな」
「それは日頃の自分の言動のせいでしょう」
「そうなんですけどね、聖女様に聞いといてもらえないですかねぇ」
「わかった。だけど杏ってさ、そのあたり鈍感でしょ。自分の気持すらわかってんだかどうか」
「そうですよね」
「人の娘悪く言わないでくれる?」
「あ、スミマセン」
「うそよ。聞いといてあげる」
私が明くんにちょっと意地悪に言ったのは、この四人があまりにも眩しかったからだ。私は克彦さんと出会った頃のことを思い出し、この子達にも同じような幸せな未来が来るよう願わずにはいられなかった。
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