第10話 聖母様の物理学~その5

 娘と克彦さんの三人で川の字になって寝たのは何年ぶりだろう。杏の部屋にはベッドは無く、布団を二つ並べてむりやりに三人寝た。私達がきたときに困らないよう、布団の一つはダブルサイズにしてあった。

 北国に夏の朝は早く、目が覚めてもまだ四時過ぎだった。起きるのには早すぎ、杏越しに聞こえる克彦さんの軽いいびきを聞きながら、昔のことを思い出す。

 あまえんぼの杏は小学校にあがっても私達と寝たがり、気がつけば二人目をつくるタイミングを逃していた。一人っ子として私と克彦さんの愛情をすべて受け取って育った杏は、そのせいかけっこう人見知りになってしまった気がする。だから大学院を札幌にすると言い出したときは驚いたし、のぞみちゃんも札幌に行くことになったときは本当にありがたく思った。

 視線を横にすると、白い鳥、緑とピンクの河童、合計みっつのぬいぐるみがこちらを見ている。わざわざ床に置かれたぬいぐるみは、杏の一人暮らしの寂しさを紛らわせてくれているのだろうか。

 それにしても杏は、ぬいぐるみなんて小さい頃に買っただけで、中学受験をはじめた頃からは増やさなかった。女の子によっては、高校生くらいになってもぬいぐるみを買うのかもしれない。だけど杏は、ショッピングモールでぬいぐるみを目にしても全く興味を示さなかった。それが大学四年になってから急に3つも増えた。夏前に上高地に行って一つ、夏に札幌に受験に行って一つ、秋に上高地に行ってさらに一つ。

 しかも札幌に持ってきたぬいぐるみはそのみっつだけ。

 直感的には修二くんが絡んでいる気がするが、杏になにを聞いても「かわいいでしょ」しか言わないのでいよいよ怪しい。大体杏は「カワイイ」という単語をめったに使わないのだ。のぞみちゃんや修二くんに直接会ってみたら、本当のことがわかるかもしれない。

 

 布団に寝転んだまま考えていたら、いつの間にか寝ていたらしい。気がつくと杏も克彦さんもいなかった。隣室からは杏と克彦さんの話し声が聞こえる。

 

「杏、おはよう、早いのね」

「うん、おはよう。お父さんにも言ったんだけど、夜遅くまで大学で勉強したら池田先生から怒られたのよ。夜危ないって。だから早く行って早く帰るんだ」

「ふーん、気を使ってもらってるんだね」

「うん。その恩は物理で返す」

「そうだね」

 お盆休み中だから先生には会えないのが、ちょっと残念だ。

 

 杏が大学へ出ていったあと、私は洗濯機を回し、昼食作りに取り掛かる。杏の弁当を作るのは高校以来だろうか。いや、大学へもしばらくは持っていっていたが、いつの間にか学食とかで食べることが多くなっていった。

 米を四合とぐ。これはおにぎり用だ。男の子が二人もいるからたくさん食べるだろう。

 ゆで卵をつくる。ポテトサラダとサンドイッチ用なので、しっかりゆでる。

 ハンバーグは小さく一口大に作る。克彦さんに声をかけたら喜んで手伝ってくれた。

 ジャガイモの皮むきを克彦さんに頼み、私は洗濯物を干しにかかる。

 ジャガイモをゆで始めたところで、昨日買い忘れたものがあることに気づいた。

「克彦さん、わるいんだけどスーパー行って、タッパー買ってきてくれない」

「ああ、お弁当用か。そういえば無かったか。何個いるかな?」

 私は必要な個数を伝え、ハンバーグにとりかかる。

 

 しばらくしたら克彦さんが帰ってきた。

「こんなの買ってきたぞ」

 見れば赤いウィンナーである。4袋もある。

「アンが幼稚園の頃、タコさんウィンナー好きだったろ」

「さすがにもうタコさんはないんじゃない?」

「そうかな?」

「そうよ」


 料理が一品増えてしまったが、なんとかタッパーには収まった。

 

 バタバタと片付けしていたら、もう昼近い。

「少し早いけど、もう行く?」

と克彦さんに聞いたら、

「そうだな、車は入れないし、ぷらぷらと行くのもいいだろう」

というので、早速出ることにする。


 真夏の札幌は暑いことは暑いが湿度も低く、気持ち良い暑さだ。太陽は高いところから私達夫婦に陽光を送っている。杏なら南中高度が何度だとかウンチクをたれるところだろう。

「雪帆さん、何を笑っているんだ?」

「いえね、気持ちいい暑さだけど、杏だとやたら科学的に解説してくれそうだと思ってね」

「そうだねぇ、数字が多そうだねぇ」

「ふふっ」

 そんなくだらない会話がでてしまうほど、私はうかれていた。杏の研究室も見たいし、仲間たちに早く会いたい。顔見知りの子たちだけれど、この半年でどれくらい成長しているだろうか?

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