第5話 のぞみん明くんの家に行く~後編~
玄関の扉を開けると、まず、サンダルが斜めになっているのが気になった。そして明らかに消臭剤の匂いがする。
ピンクのかわいいスリッパが用意してあった。
振り返ると明くんは、
「のぞみんのために、新品買った。きれいだから大丈夫だよ」
「ありがと」
靴を脱いで上がらせてもらう。しゃがんで自分の靴の向きをそろえ、ついでにさっきのサンダルの向きもそろえる。
「もしかして2DK?」
「そう、ひろいっしょ」
「なぜ北海道弁? まあ、聖女様んとこ並みかな」
「へぇ、だから女子会聖女様んちなのか」
「そうよ、男子は?」
「修二んとこが多かったな。なんつったって大学から近いし、二人なら狭くてもね」
「へぇえ」
ずかずかと踏み込んで、冷蔵庫に買ってきたものをつめる。大きな冷蔵庫の中は殆どからで、ビールとジュース類、その他簡単に食べられるものだらけだ。空いているスペースに、私の作り置きの料理を詰め込みたい衝動に駆られる。部屋は思ったよりちらかってなくて、まず昼食を食べても大丈夫そうだ。
「もうサンドイッチ食べる? どうせ今日まだなにも食べてないんでしょ」
「そりゃそうさ、のぞみんの料理食べられるのに、朝食なんて食べるわけ無いじゃん」
「はいはい、飲み物は?」
「冷蔵庫にアイスティー無かった?」
「それでいいか。グラスどこ?」
「俺出す」
部屋の真ん中に出されたちゃぶ台の上に、持参したサンドイッチを並べる。明くんがグラスを持ってきてくれた。
「めしあがれ」
「いただきまーす」
明くんはすごい勢いで食べ始めた。
私もサンドイッチを食べながら、しばらく明くんを眺めていた。あまりに無言状態が続くので、
「明くん、落ち着いて食べなよ。いくらでも作ってあげるよ」
「あ、ごめん。夢中で食べてしまった」
「ちゃんと味わってよね」
「う、うん」
「どう、美味しい」
「あったりまえじゃん。で、いくらでも作ってくれるって、どういう意味?」
「どうだろうね」
私は本音を笑ってごまかした。
食事したら、いよいよ片付けだ。部屋の中心部こそ空いているが、周辺部に本が散乱している。
「のぞみん、お願い。俺とりあえず洗い物する」
「オッケー」
とりあえず書籍を集め、分類していく。
マンガ、文庫、新書、教科書。あと意外だったのは経済系の本が何冊かあることだった。
「明くん、経済の本とか読むのね」
「それね、例えば株価の変動がランダムにおこるとすると、ブラウン運動と数学的に同等なんだってさ」
ブラウン運動とは、例えば空気中の小さなゴミが、空気分子に叩かれてランダムに運動する現象だ。
「ブラウン運動って、アインシュタインが解決したんだっけ」
あまり語られないが、アインシュタインの重要な業績の一つで、目では見えない分子の存在を数学的に明らかにしたものだ。
「まあ株価だから一次元になっちゃうけどさ、それをフランスのバシュリエが1900年に解明してたらしいよ」
「え、アインシュタインより5年も早いの?」
「そうなんだよ。当時全く注目されなかったらしいんだけど、すごいよね」
手を止めてしまわないように気をつける。
食事をとった部屋はすぐに終わり、扉がしめられたもう一つの部屋の扉を開ける。
「あ、のぞみん、そっちの部屋は」
と明くんが止めようとするが、ニヤッと笑いを見せてかまわず突入する。
その部屋には万年床が敷かれ、周囲に着替えやら洗濯物やらが散らばっている。
ちょっと生々しいが、怯んでいられるかと手を付ける。
「明くん、この衣類、洗ってあるのよね」
「うん、洗濯済み」
どんどん畳んで重ねていく。布団から明くんの匂いがするような気がして、頭がくらくらする。もしかするとこの中に入ってしまうかもしれないと思うと、やっぱり少しでもきれいにしたい。
「明くん、乾燥機あるっけ」
「おう、あるよ」
ならばとシーツと枕カバーを引っ剥がす。それを持って、洗濯機があるだろう場所へ行く。
「明くん、電気代かかっちゃうけど、ごめんね」
「い、いや、ありがとう」
洗濯機にシーツに枕カバー、あとそこにあった洗濯かごにあったものを放り込む。男物のパンツに触るのなんて、パパのやつ以来だ。ただ、今はパパのことなんて思い出したくない。思いついて部屋に帰り、
「タオル類も交換しちゃお」
「は、はい」
洗剤を入れ、洗濯をスタートする。
部屋にもどる。シーツや枕カバーが一つずつしかないということはないだろうからスペアのありかを明くんに聞きそうになった。シーツを剥がした布団が妙に生々しく見えて、畳んで部屋のすみに置く。こちらの部屋も整理できたので、掃除機をかけていく。
途中でトイレに行きたくなったが、こちらはとてもきれいにしてあった。そう言えばキッチンもきれいだった。ちょっとお風呂も覗いてみたが、大丈夫だ。明くんは片付けが苦手だと言うだけで、そうじはちゃんとしているらしい。
「ちょっと休憩しようぜ」
「うん」
ちゃぶ台のところに座ると、明くんが冷凍庫からアイスを持ってきた。高いやつだ。
「チョコチップクッキーとストロベリー、どっちがいい?」
「明くん、わかってるねぇ。でも迷うな」
「半分こする?」
「するする!」
「どっちから食べる? おれストロベリーかな」
「じゃ、私チョコチップクッキーね」
アイスを食べたら洗濯ができた。乾燥機に移す。
「まだ明るいね」
「うん、近所案内しようか?」
「なんか面白いとこあるの?」
「ない」
「ははは」
「そろそろ夕食作るかな?」
「あ、おねがい」
「ま、のんびりしててよ」
エプロンを付け、まず米を研ぐ。研ぎながら食パンの耳を揚げたのを出すのを忘れてたのを思い出した。忘れないうちに出しておく。
「明くん、これね食パンの耳」
明くんは論文を読んでいた。
「あ、ありがと」
と言って一つつまんでくれた。
「これ、うまい!」
よかった。
食事の準備はできた。
ウニ丼、煮魚、サラダ、味噌汁と並べる。明くんは嬉しそうだ。
「そうだ、ビール冷えてたよね」
と言って冷蔵庫の方へ行くと、
「あ、今日は飲まない」
と明くんが言った。
「へ、なんで?」
「冷静でいたいから」
「わかった。じゃ、食べよ」
「いただきまーす!」
明くんは満足してくれたようだ。
流しで片付けていると、明くんが横に来て話しかけてきた。
「のぞみん、いや、ほんと今日はありがと。片付けも助かったし、夕ご飯もうまかったよ」
「どういたしまして」
答えると明くんは戻っていった。何にもしてくれないのね、と思ってしまう。
片付けが終わってお茶を出すと、なんかなごんだ。聖女様たちの噂をする。
しばらくしたら、明くんが言った。
「駅まで送るよ。いや、家まで行こうか?」
正直、私はがっかりした。
私はそんなに魅力がないのだろうか。
二十四の男女が、二人っきりで同じ部屋にいるのだ。私はその意味がわかる。明くんもわかるだろう。それとも私が間違っているのだろうか。
頭の良い明くんは、本当は聖女様が好きなんだろうか。
聖女様は物理一直線だけど、私よりずっとずっと女っぽい。
大体明くんの話しは、聖女様の噂ばっかりで、私の話なんてしない。
涙が出てきた。
涙を見せないよう、下を向いて靴を履く。
「のぞみん、あのさ」
振り向かずに返事する。
「なに?」
「あのさ、俺さ」
その先は聞きたくない。でも聞いてしまう。
「なによ」
「うん」
「だからなによ」
「あのさ、こんな食事、毎日食べたいな」
ちょっと意味がわからなかった。だからそのまんま聞いた。
「意味わかんない」
「だから毎日食べたい」
「だから?」
「だから……」
「はっきり言ってよ」
「好きだ」
「何? よく聞こえない」
「のぞみん、好きだ」
私は振り向いて明くんにだきついてしまった。
「明くん、わたし、この部屋に住んでいい? ていうか、住む」
「お、おう」
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