5-5 果物屋
桃の匂いに鉄っぽいのが混じるので鼻から血が出ていることに気づいた。
痛みは鼻というより顔ぜんたいにじんじん感じて、もしかしたらとんでもない大ケガをしたんじゃないかと思うと確かめるのがおそろしく、からだをかたまらせたまますこしも動かせなくなってしまった。
「ケンカやったらよそでやってんか。わての店まで巻き込まんとって」
容赦ない声は
その言葉で
敵わないことはすでにわかっていたが、このまま一矢も報いずに終わるのは耐えられなかった。
とっさに侑は手近の皿にあった桃をふたつ手にとって男に投げた。ひとつはあさっての方へ飛んでいき、ひとつは男に当たったがまるで効いていないようだった。
男がゆっくり歩いて近づいてくるのに侑は恐慌を起こしたみたいにやみくもに果物をつかんでは投げたが男は止まらなかった。
男が目のまえに立ったときようやく果物屋さんのしわくちゃの細い腕が侑をつかまえ動きを止めた。その瞬間男のこぶしが飛んできて、侑のこめかみを直撃した。侑はよけることも衝撃を吸収することもできず、指環だらけの男のこぶしをまともに受けた。
気をうしなう直前、お姉さんが飛んできて茫然と立つ男の首にかぶりつくのが見えた。短い青いスカートが揺れていた。いつの間にか野次馬がまわりに集まってなにやら言っているのが
つぎに侑が目覚めたときにはけたたましいサイレンの音がしていた。気の動転したお祖母ちゃんが救急車を呼んだのだ。
担ぎこまれた病院で、頬骨が折れていることがわかった。念のためその日の晩は入院することを命じられ、侑は生まれてはじめて病院で夜を越した。
幸い検査の結果は異常なしとされ、頬骨の骨折も薬をもらうほかはたいして治療できることもないので、夏休みを病院通いでつぶす事態はまぬがれた。
ただ、このことでお父さんはともかくお母さんがひどく心配したために、しばらく侑は喫茶店に行くことを禁じられ、お母さんが会社から休みをもらった一週間のあいだその監視下に置かれた。
一週間経って久しぶりに店に行くと、お姉さんは店を辞めていた。
あの事件のつぎの日、店に電話をかけてきて理由もなにも言わずにただ「辞めます」とだけ伝えて切ったのだと聞いた。
物置部屋に残されていた私物は同僚のアルバイトのお姉さんが持ってかえって外で彼女にわたした。
数カ月経って男に執行猶予つきの判決が下されたというニュースを、侑も両親も冷静に聞いたがお祖母ちゃんだけはひどく憤慨した。
侑の方から突っかかっていったことや侑の側に処罰感情がないこと、また男に前科がなかったことが考慮されたのだろうとお父さんは言った。
大立ち回りの舞台となった
事件のあと祖父母と果物屋さんとの仲はずいぶん険悪になっていたのだが、周囲にあいさつもないままとつぜん工事がはじまって、それきり果物屋さんは戻ってこなかったのだ。
この商店街に居づらくなったんだろうとお
ふつうで考えれば果物屋さんは巻き込まれた側であってむしろ被害者と言ってもよいほどだから、このことに彼女が引け目を感じる理由はないはずだった。ところがお祖父ちゃんは商店街の顔役のような立場にあったしお祖母ちゃんも商店街の店主たちと馴染みだったし、そんなふたりに敵意を向けられるとたちまち四面楚歌になってしまったのだ。
そのことを侑はずいぶんあとになって結婚し子供もできてから、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんがたてつづけに亡くなったときに悟った。
葬儀会場は商店街の店々からとどいた花で埋めつくされ、弔問客が入りきらないためにやむなく扉を開け放ちホールまで使わなければならなくなった。その筋の者らしい男たちが何人もやってきて花を置いて帰った。
終わりの見えないお坊さんの長い説法のあいだ、むかしとなりの魚屋のおばあさんが話してくれたことを侑は思い出していた。
大学生だったときのことだ。なにかといえば喫茶店に足を運ぶ子供のころからの習慣が抜けなかった侑が店に入ろうとしていたところを、ある日魚屋さんが呼び止め、あの
「やっと家族と会えるんやから、良かったなぁって言ったるんがええんかなあ」
とそのとき魚屋さんは言った。
ずっと果物屋さんは独り身だと思いこんでいた侑は、彼女の過去に興味をもった。
魚屋のおばあさんは果物屋さんとは長い付き合いだったそうだ。戦争に行ったまま帰ってくることのなかった彼女の夫のこともよく知っていた。
夫が出征したときうら若い果物屋さんのお腹のなかには一粒種の息子がいたのだったが、せやさかいお父はんは自分の子を抱くこともでけへんかったしあの子ぉも父親ってもんをついに知らんままやったんやなぁ、と魚屋さんはしみじみ言った。
配給制の食糧は子供の成長を支えるには不足がちで、その子は血色のわるい顔をふくらませてしょっちゅう泣いていた。
なんどもあったはげしい空襲からは生き延びたというのに、玉音放送の一週間後、真夏の熱波のなかで熱い息とぐずぐずの汗だらけのふとんのなかであっけなく息をひきとった。
「そんな話そこらじゅうに転がっとったさかいべつにめずらしゅうもなんもあらへんけどな」
と魚屋さんは言った。
それからなんどか煉獄のなかにいるような夏が過ぎて、そろそろ夫の帰還をあきらめるようになったころから再婚の話は一度ならず出てきたが、果物屋さんはついに首を縦に振ることなく何十年もひとりで暮らした。
「あの店の奥に仏壇があってなぁ」
もうあとかたもなくなっていた果物屋さんの跡を指さして魚屋さんは言った。
「わてもたまぁに手ぇ合わせたりしとってん」
仏壇には出征時の軍服を着た青年と、がりがりに痩せた三歳の子供の写真が飾ってあって、いつもなにか果物が供えられていたのだと魚屋さんは言った。
夏なら桃、冬ならりんご。果てることのない読経がホールいっぱいに満ちるなか、果物屋さんがあったころよくお祖母ちゃんが買ってくれた店頭の果物が目に浮かんだ。
(第5話 おわり)
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