嘘で塗り固めた愛をください

犀川 よう

嘘で塗り固めた愛をください

 ――嘘でも良かった。

 たった一言「愛している」と――。


 そこまで打つと、スマホの画面を消して、私は頭を振る。もう三十も手前。まだ子供な男子生徒に、大人で教師である私が、魂のすべてを持っていかれてどうするのだ。


 職員室の窓を向こう側を見ると、部活動に励む生徒達が、私の抱えている泥のような感情とは無縁な真剣さで、それぞれの活動に汗を流している。野球部は声を出してボールに食らいつき、陸上部の女子が後輩男子に走り方を身振りで示す。後輩は恋愛感情など存在しない澄んだ眼差しで彼女を見ている。汚れた感情など何一つ無い、スムーズな放課後が流れていて、引っかかりを覚えるのは、私が無意識に触っていた剥げた爪とあさましい心だけだ。

 そんなありふれた金曜日の放課後は、私を落ち着かせてはくれない。私だけがこの空間の異物であるかのように、疎外感を覚えてしまう。――私はここにいてはいけない――。そんな罪悪感が圧し掛かって仕方がない。


 素早く周囲に目を配り、誰にも見られていないことを何度も確認する。スマホのロックを解除して、秘密のフォルダから一枚の写真を選択して表示する。映し出されたまだあどけない少年のような君を見て、胸はいとおしさと恐ろしさで一杯になりながらも、私は君に語りかける。――私は君に嘘で塗り固めた愛を施す必要があったのだろうか。私はまだ悩んでいるんだよ。君を一人の男として愛することはできない。あの日、君に伝えたその言葉は、私なりの嘘で塗り固めた愛だった。君は私を好きであっても、愛することはできない。それはそうだろう。愛するということはすべてを投げ捨てることだ。今の君にそんなことができるわけがない。君はどこにでもいる学生であり、ただの男の子なのだから――。


 普通でないのは、君を愛してしまった私の方だ。それはわかっている。そんなことは誰に言われなくとも、十分に理解しているんだ。社会的どころか倫理的にも赦されない愛。私はそれを承知していながらも、君の好意を受け取ってしまったのだ。君の遅すぎる初恋を、同世代に向けるべき恋愛感情を、そして男としての情欲を、君という禁断の果実を、むしろ私の方から貪ってしまったのだ。


 破綻という終末は、外界からではなく、私の心の中の軋みから始まった。どんなに私が望もうとも、手に入れることのできない幻影を追い求めたのが原罪なのだ。君は私に何度も好きだと言ってくれた。先生ではなく、下の名前を添えて。だけど、それはどこまでも私を見上げての恋であって、私を包み込むんでくれる愛ではない。何を言っているのかと自分でも馬鹿馬鹿しくなるが、私はどうしても対等な「愛している」が欲しいのだ。公私にわたり君を導くべき一回りの年上の私が、君にそんな言葉を求めている。おかしいどころか異常な感情であることは承知しているのに、理性では脳に警告を放っているのに、本能という悪魔からは、”破滅へ向かえ”と囁かれているのだよ。だから、私はもう一度、君へのメッセージを書いてみることにするよ。


 ――嘘でも良かった。

 たった一言「愛している」と言ってほしかった。好きではなくて、「愛している」と言ってみてほしかったんだよ。年齢とか、立場とか、そんなものは忘れて、一人の男として、一人の女を「愛している」と言ってみてほしかった。君はまだ私を対等に見られないとは思う。だから、嘘で塗り固めた言葉でいい。私は君に、「嘘で塗り固めた愛をください」と何度も言いたかったんだ。おかしいだろう。君から見れば大人である私も、理性という制服を脱げばこんなものさ。ただの女として、一度でいいから、君から本物の愛が欲しいだけの、浅ましい女だったんだよ。

 今、私には勇気が何よりも必要なんだ。だから、嘘で塗り固めてくれてもいい。いや、嘘で塗り固めた愛をください。その言葉を今すぐほしい。嘘で塗り固めるには、君の想いの核がなければ、塗り固めていくことはできないだろう? 君が私に愛していると言葉にできなくても、嘘で塗り固めることができる土台があるのならば、それは本物の愛だと、私には思えるんだ。だからお願い。嘘で塗り固めた愛でいいから、今すぐ、私にくれないか――。

 送信してスマホの電源を切る。机の引き出しから退職願を取り出し、副校長の机の上に置く。いつの間にか、私以外誰も居なくなっていた職員室。私は一礼をして後にする。


 校門を出て、少し歩いてから、流しのタクシーに向かって手をあげる。車内に入り運転手に行き先を訊かれ、私は自宅から一番近い産婦人科の名前を告げる。運転手の声は途端に柔らかくなり、そっと車を加速させてくれた。私は電源を切ったスマホを眺める。君は今頃、嘘で塗り固めた愛を叫んでくれているだろうか。病院を出たら答えを見ようと思う。だけど、私の結論はきっとかわらない。君が嘘で塗り固めた愛をくれてもくれなくても、私ともう一人の身は、君の傍には居られないのだから。

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