(後半)結束の理由とその末路
③結束の背景
前半部で姉妹の結束の強さについて触れましたが、そこまで関係を強くした理由は何だったのでしょうか。
その理由はざっくり二つにまとめられるように思います。つまり、病弱な次期皇帝であるアレクセイ(1904年生)を守るという目的があったことと、両親(皇帝夫婦)による子育て・教育の結果ということです。
第一に、アレクセイを守ることについてです。
ニコライ二世の五番目の子供にして、待望の男児だったアレクセイ。帝政ロシアでは1797年以降、帝位継承権は事実上、男性のみにあると定められていたため、彼には次期皇帝としての強い期待が家族だけでなくロシア社会全体から寄せられました。
しかし、その大切な世継ぎが、血が凝固しない病である血友病を発症し、幾度となく生死の境を彷徨うこととなります。
当時、この病気を完治させる治療方法はありませんでした。宮廷医師も役に立たなかったため、最終的に皇后アレクサンドラが頼ったのが、謎の方法でアレクセイの症状を和らげたラスプーチンだった、というのは有名な話ですね。
当初、アレクセイの病気は国民はおろか宮廷の中でも極秘事項だったので、家族総出で病に苦しむ跡取の面倒を見る必要がありました。
そんな中で、姉妹たちには、アレクセイが不治の病である事実を外部に漏らさず、弟が瀕死の状態に陥ったときには全力で看病をする役目が与えられたのです。そして、彼女たちはその役目を忠実に果たしたのでした。
例えば、アレクセイが階段で転んで内部出血を起こし、苦しんでいる時は姉妹たちが夜通し交代で看病にあたりました。アレクセイが寝付けない時は、子守唄を歌ってあげたわけです。
さらに、姉妹は日常的な面倒も見ました。
外界から遮断されたアレクセイは外界の人間と友達を作ることができなかったので、アナスタシアやマリアが遊び相手となりました。アレクセイが落ち込んだり、将来への不安を漏らすことがあれば、勉強が得意なオリガが登場し、病弱で将来を悲観する次期皇帝の相談役を担いました。そして、アレクセイが悪ふざけがすぎた時、彼を注意するのはタチアナです。
そんな感じで、姉妹の中でアレクセイに対応する役割が決まっていました。
帝政ロシアという専制君主制国家にあって、絶対権力者の世継ぎであるアレクセイを中心に家庭は回っていたわけです。そういえば、OTMAの中にアレクセイのAはありません。それだけ彼は特別だったのでしょう。
第二に、両親(皇帝夫婦)の子育て・教育についてです。
両親と言っても、娘たちの子育てや教育には、敬虔なキリスト教徒で、生真面目だったアレクサンドラの性格が強く影響しました。
アレクサンドラは、娘たちを人間の醜さや社会の闇を知らない、純粋無垢な聖女として育てようとしたと言います(1)。
娘たちの育児においても、貴族社会では一般的だった乳母を雇わずに、アレクサンドラが自分で授乳を行ったという有名な話からも、意気込みが分かります。そして姉妹は、その行動や人的交流を全て母親の管理下に置かれ、宮殿の外部から隔絶された生活を送らされました。
姉妹たちのその日の予定や服は全て母親が決定していました。オリガやタチアナが舞踏会に出席したとしても、踊る相手はやはり母親が選定したほどです(2)。
さらに、四姉妹が上二人と下二人に区分され、どこへ行くにも一緒に行動し、お互いに部屋やベッドを共有させられたのも、アレクサンドラが姉妹同士の協同性を高めるために施した教育でした。
加えて、皇帝夫婦が失策を重ねるごとに宮廷社会や政界で孤立し、追い詰められていったことも、子育てと子供たちの教育に影響を与えていきます。
ニコライ二世統治下のロシアは、日露戦争に敗れ、近代化政策も思うように進められず、国内では暴動やストライキが激化し、政府高官を狙うテロも頻発していきます。外交でも強国ドイツとの関係が悪化の一途をだどっていました。
しかも、皇后アレクサンドラの存在も事態を悪化させる要因でした。
彼女はドイツ出身の元プロテスタントで、ロシア正教に改宗した過去を持ち、宗派が異なるロシア人からするとそもそもイメージが悪かったのです。それに加えて、アレクサンドラは正義感が強く、冗談が通じない性格でしたので、権謀術数の宮廷社会にも馴染めません。挙句の果てに、ラスプーチンとのスキャンダルが取りざたされたことで、アレクサンドラは貴族からも民衆からもとことん嫌われたのでした。
そうして皇帝と皇后は精神的に消耗していき、夫婦は宮殿に閉じこもりがちとなっていきました。
宮殿には可愛い子供たちがいます。
そんな子供たちと一緒にニコライは散歩やテニス、アレクサンドラは聖書を読んだり、ボードゲームなんかをすることで、束の間の安らぎを得ることができたのです。
こうした事情も、子供たちへの外部から隔離した教育に拍車がかかったのでした。
当然、こうした家族団欒にのめり込む皇帝や皇后の姿勢は、公務怠慢につながっているとして批判されることとなりました。特にニコライ二世の母マリア皇太后は、ニコライ一家の在り方を厳しく非難しています。
しかし、皇帝夫婦が批判を受け入れ、改善を図ることはありませんでした...
こうした二つの理由から、宮殿という極めて閉鎖的な環境も影響して、自ずと姉妹同士は連帯し、異様なまでに強い絆を築くことができたのでした。
前半部でも書いた通り、外国王室に嫁ぐことを嫌がるようになったのも、こうした環境の結果、皇室と家族に強い忠誠心を持ったためだったと言えます。
また、四皇女は非常に純粋で親に従順となった一方、極度の世間知らずにもなりました。
皇女たちは買い物の仕方も分からず、お金の価値も理解することが無かったと言います(3)。また、とあるロシア皇族は「彼女たちは人生の醜さを何も知らない」(4)と四皇女を評しており、同じ皇族からしても皇女たちの人生経験が乏しかったことが分かります。
④完全奉仕の生活に対する娘たちの反応
ここで気になるのは、家族に完全奉仕するという制限された生活を強いられる中で、姉妹は現状に対して何の不満や疑問を持たなかったのか、ということです。
調べたところ、姉妹の中で、唯一オリガは家族が置かれている深刻な状態を理解していたとよく言われます。
オリガは探求心が強かったので、両親が窮地に陥っていることに気付いていました。あるロシア貴族は「皇帝夫婦よりも家族に危険が迫っていることを知っていた」(5)と証言していたり、オリガが「ラスプーチンは殺す必要があった」(6)と発言した記録も残っていたりします。
とは言え、現状の深刻さが分かっても、オリガが父親やロマノフ家を批判することはしませんでした。家族に対する忠誠心が邪魔をしたためか、「どうしてお父様は嫌われなくてはならないの?」という疑念に駆られても、それ以上思考することはできなかったのです。
しかし、問題意識を持つことは無かった一方で、姉妹全員がストレスを溜めたのは間違いないように思います。
その証拠の一つはオリガとタチアナの男関係に表れています。最初は護衛隊の将校たちに恋をし、次に偶然出会った英国海軍の士官に急接近し、戦時中では彼女たちが手当をした何人もの負傷兵に夢中になったのです。しかも、彼女たちが好いた相手は、皇女にとって身分も家柄も見合わない男ばかりでした(7)。
筆者からすると、ちょっと男癖が悪い気がします。
恐らく、疲労困憊した両親や瀕死の弟に縛られた生活から現実逃避しようとしたのでしょう。自分たちより身分が低い相手を選んだのは、皇女という立場を利用して簡単に言い寄れるためだったのだと思います。
結局、どの関係も進展することは無く、遂に彼女たちが愛する人から愛撫を受けることもありませんでした。
マリアとアナスタシアについても、暇なときは勉強もせずに暴れるようにはしゃぎまわったと、多くの文献に記述されています。それは、彼女たちがただのお転婆娘だったというより、抑圧された生活で溜めたストレスの発露だったと言えなくもありません。
⑤末路
しかしながら、皇女たちが父親やロマノフ体制の問題点を把握できたとしても、どうしようもないことではありました。
ロマノフ家の皇女には権威はあっても、権力はありませんし、外部との交流が希薄だった四人姉妹には、事態に立ち向かう知識も経験も無かったのです。なので、彼女たちが歩むことができた道は、両親を信じて付き従い続けることだけでした。
しかし、容赦なく破滅が襲い掛かります。
第一次世界大戦での度重なる敗北によってロシアの国力が限界に達した1917年2月。飢餓と戦争に耐えられなくなった兵士と民衆は暴動を起こし、官僚も軍の司令官も皇帝夫妻を見限ったことで、ロシア革命が始まります。
軍の部隊が次々と離反していく中、危機感を募らせたアレクサンドラは、夜な夜な娘たちを連れ出し、宮殿を守備するコサック兵たちを激励して回りました。愛らしい娘たちと共に兵士たちの忠誠心に訴えかけることで、革命勢力に対する徹底抗戦を求めたのかもしれません。
しかし、夜が明けると宮殿の守備隊は革命勢力に降伏してしまったのでした。
もはや皇女たちの純粋さも権威もここまでだったのです。
そして、1917年3月、ニコライ二世は退位し、元皇帝の家族は全員逮捕。それから数か月後の1918年7月17日(グレゴリオ暦の日付)に、内戦による混乱の最中、裁判も無く、家族全員が銃と銃剣で残虐に処刑されたのでした。
政治的にだけではなく、家族として破滅したのです。
⑥まとめ
結婚どころか、自分の人生に専念することもできず、狭い宮殿の世界でひっそりと生きて、ロシア革命という一大歴史イベントの渦に呑まれて人知れず死ぬ。
そんな彼女たちの人生はあまりにも儚いです。
しかも、もう一つ残酷な話があります。
アレクセイが罹患した血友病は遺伝病で、皇女たちも血友病の遺伝子を保持していたことが十分に指摘できます。アレクセイの病気は世界大戦の直前に公表されたので、その時点で、もはや彼女たちを花嫁として迎えたがる王族や貴族はいなかったとも考えられるのです。
結婚によって家族から離れられないと知った時、もしかしたら彼女たちは皇帝や弟と運命を共にするという覚悟を決めていたのかもしれません。
仲睦まじく尊い姉妹、そうエッセイの冒頭で筆者は書きましたが、その絆は残酷な運命と表裏一体だったのです。
何というか、家族の不運を背負わされたのだと思います。
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出典
(1)『The Romanov Sisters: The Lost Lives of the Daughters of Nicholas and Alexandra』(2014)出版社:St.Martin's Press 著者:Helen Rappaport.p135.
(2)同上,p159.
(3)https://www.alexanderpalace.org/palace/olgabuchannan.php
(4)再掲(2014)Helen Rappaport.p105.
※これはニコライ二世の妹オリガ大公女の証言です。翻訳は筆者です。
(5)『The Fate of the Romanovs』(2003)出版社:Wiley 著者 Penny Wilson,他.p46.
(6)再掲(2014)Helen Rappaport.p279.
(7)再掲(2014)Helen Rappaport.
※この皇女たちの恋愛模様については、本書の内容を参照しました。
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