歴史上最も悲運な姉妹の絆について
島木
(前半)アナスタシア姉妹について
皆さんはアナスタシアという王女をご存じでしょうか。
映画や漫画ではよく題材にされる人物なので、名前だけは聞いたことがあるという人も多いと思います。
アナスタシアは帝政ロシアを治めたロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ二世の娘で、第一次世界大戦とそれに続くロシア革命で家族と共に無残に殺されるも、その後、生存説が広まって有名になった人物です。
今回、筆者が注目したのは、アナスタシアだけでなく、アナスタシアの姉妹についてです。
アナスタシアには三人の姉がいました。このアナスタシア姉妹は当時のヨーロッパ諸王家の中で最も仲が良く、結束が強い姉妹だったと言われます。
確かに、この姉妹についてネットで検索してみると、四人で楽しそうに遊んだりしている画像がたくさん出てくるので、とても仲睦まじい姉妹であったことが伝わってきます。しかも全員結婚をせず、処刑される時まで四人一緒だったんですよね。
筆者は何気なくアナスタシアについて調べていた時に、この姉妹を知りまして、お姫様で仲が良い姉妹だなんて、百合っぽくてずいぶん尊いなぁと、興味を持ったのと同時に、この姉妹の結束とはどんな関係で、なぜ仲良くできたのか、という疑問も持ちました。
何といっても、ヨーロッパ諸侯の中で最も歴史が古く、世界最大の領土を持つ帝政ロシアを治めたロマノフ家の皇女です。しかも、世界大戦と革命を経験しているので、普通の姉妹とは違う特別な絆があったのだろうと期待したわけです。
そいういう他愛の興味ながら、好奇心を掻き立てられて、皇帝家族やアナスタシア姉妹それぞれの日記、手紙、彼女たちに関する書籍を何冊か買ったり、海外のサイトを読み込んだりして、約一年程、ちょこちょこ自分なりに調べてきました。
ちなみに、ロシア史なのに英語情報が意外と豊富で、調べやすかったことには驚きでした。さすが、ニコライ家族は注目度が高いです。
いずれにせよ、そうして調べて分かったことは、この姉妹は非常に悲運な運命を背負わされ、過酷な状態に置かれていたからこそ強い絆を持つことができたのだ、という事です。
その中身について簡潔ながら、深くお話していこうと思います。
エッセイは前半と後半に別れています。前半は姉妹の紹介、後半は姉妹が結束した理由のお話です。
歴史の知識は不要です。
① 四人姉妹(OTMA姉妹)について
まず、アナスタシア姉妹についてですが、四人姉妹でした。上から長女オリガ(1895年生)、次女タチアナ(1897年生)、三女マリア(1899年生)、そして末娘アナスタシア(1901年生)です。
彼女たちは自分たち各々の頭文字を取ってOTMAと名乗り、贈り物や手紙を出す時にも、この名前を記したと言います。
それでは、四人がどんな皇女だったのか、簡単に紹介したいと思います。
長女のオリガは、父ニコライ二世に性格的に似て、マイペースながら思慮深い皇女だったと言います。
例えば、日露戦争では、当時8歳と幼いながらも敵国であった日本に興味を持ち、日本について家庭教師に色々な質問を投げかけました。そして、日本にもロシアと同じように皇室があり、天皇がいることを知ると、日本に親近感を持ったというエピソードがあります(1)。勉強も四人の中で一番できました。
しかし、長女らしかったかと聞かれると微妙です。
考え込む性格であったがために、父ニコライ二世やロマノフ体制そのものが苦境に陥っていくのを両親よりも敏感に感じ取り、思い悩むことが多かったそうです。
さらに、世界大戦が始まって、姉二人の皇女が看護婦として医療活動に従事した時。ここで、オリガは人間関係での苦労や仕事の過酷さからノイローゼにかかり、情緒不安定となってしまったのです。
このため、長女としてリーダーシップを発揮できるような皇女ではなかったんですね。
そんなオリガに対し、次女のタチアナは母親似でした。
誰もが指摘する通り、タチアナは非の打ち所がない、正に皇帝の娘に相応しい皇女だったのは間違いないと思います。
タチアナはクール系美人で、名誉連隊長の軍服もよく似合いました。
見た目だけでなく中身もしっかりしており、並外れた意思の強さと統率力を持ち、悩み多き姉オリガに代わって姉妹のまとめ役を担っていました。事実、母アレクサンドラ皇后も娘の中で一番頼りにしたほどです。
そんなタチアナが活躍したのは戦時中の医療活動です。医者からも「冷静かつ利口で卓越した看護婦」(2)と絶賛される程の手先の器用さと要領の良さを発揮し、約三年間、手術の助手や傷の縫合、負傷兵の看護をやってのけました。
戦時中のタチアナの活動は世界中で報道されたので、当時から現在に至るまで四姉妹の中で一番人気が高いです。
正直言って、長女よりタチアナの方が高く評価されます。しかし、彼女たちの日記を読むと、オリガもタチアナも互いの評価にあまり気にせず、支え合って生活していたことが分かります。
三女のマリアは、もし大人になっていれば、良い母親になっただろうと、マリアを紹介する色々な文献に書いてあります。
非常に母性的な性格で、結婚や子供の話を好み、孤児院での福祉活動にも熱心に取り組んだためです。
最初は姉と妹に挟まれたために引込思案な性格でしたが、戦争と革命を経験して以降は、かなり大人びた性格になり、両親を積極的に支えるようになりました。
そして一番有名なアナスタシアです。
創作物によく出てくるような淑女ではなく、かなりのお転婆娘でした。悪ふざけが好きな少女だったことと、次期皇帝である弟アレクセイとは仲が良く、一緒に遊んだり悪戯をしていたことは有名な話です。
アナスタシアには多くの悪ふざけの逸話がありますが、得意なモノマネ芸を披露することで周囲の笑いを起こすことが多かったと言います。
ただし、アナスタシアはあまりにも落ち着きが無かったことから、姉たちからはシュピプジック(“Shvybzik”:独語で“千鳥足の”“酔っぱらいの”等の意味)というニックネームで呼ばれていました。
マリアとアナスタシアについて忘れてはいけないのが、男児として生まれてこなかったたために、家族とロシア世論から、ひどく失望された背景があることです。
アナスタシアが活発な性格になったのも、陽気に振る舞い、家族のムードメーカーとなることで、自分の存在意義を見出し、自己防衛を図っていたためだという話がありますが、的を得ているでしょう(3)。
このようにして各々個性はありましたが、全員に共通していたのは”やさしさ”だったと思います。
初めて知り合う人がいれば、身分に関わらず、必ず友達になろうとし、慈善活動で貧しい人を見ると、躊躇なく自分たちの小遣いを寄付したのでした。
四姉妹で一番頑固だと言われたオリガも、負傷兵を見ると、たとえ彼が赤軍兵士であったとしても駆け寄って助けようとしました(4)。
この姉妹、そういう心温まるエピソードは沢山あります。
まぁ、あなたたちの父親(皇帝)は、反体制派や異民族を大勢殺してるんですけどね......
立っている女性では左から、マリア、アナスタシア、オリガ。
座っているのがタチアナ。
②姉妹の結束
さて、最初に結束が強い姉妹だったと書きましたが、その結束の強さを象徴するエピソードとして、姉妹全員でオリガと外国王子との縁談に抵抗した話があります。
時は1914年。ルーマニア王国の王子とオリガとの間で縁談が持ち上がり、姉妹全員でルーマニア王室へお見合に出向くこととなりました。しかし、オリガは愛国心と皇室への忠誠心を理由に、外国王室に嫁ぐことを嫌がります。
しかし、縁談は進んでいきました。
そこで姉妹はどうしたかというと、皆で肌が浅黒くなるまで日焼けをして、髪をぼさぼさにした酷い格好で見合の場へ出向いたのです。つまりオリガだけでなく、姉妹全員で、ロシア皇女は外国の王室に嫁がない、という抵抗の意を示したわけです(5)。
この姉妹の態度を受けて、ルーマニア王室のロシア皇女たちへの心象は最悪となり、皇女たちの望んだ通り、オリガの婚姻は御破算となったのでした。
ちなみに、オリガだけでなく、他の皇女たちにも外国王族との縁談は何度も持ち上がっていますが、進展したものはありませんでした。
しかしながら、筆者が思うに、ここでオリガは嫁ぐべきだったでしょう。
姉妹たちが見合を蹴った1914年はちょうど第一次世界大戦が勃発する年で、ロマノフ王朝の終末が本格的に始まる時期でもありました。要するに、オリガたちが自分たちの運命を変えられたかもしれない、最後のチャンスだったと言えたのですから。
では、どうしてこの姉妹はここまで強い絆で結ばれていたのでしょうか。
姉妹の紹介が一段落付いたので、前半部はここまでにして、後半では、姉妹の絆の強さの背景事情と、それがどのように破滅につながったのかについてお話したいと思います。
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出典
(1)『The Diary of Olga Romanov: Royal Witness to the Russian Revolution』(2013)出版社:Westholme Publishing 著者:Helen Rappaport.p26
(2)『Tatiana Romanov, Daughter of the Last Tsar: Diaries and Letters, 1913–1918』(2017)出版社:Westholme Publishing 著者 Helen Rappaport.p16,17.
(3)『The Romanov Sisters: The Lost Lives of the Daughters of Nicholas and Alexandra』(2014)出版社:St.Martin's Press 著者:Helen Rappaport.p349.
※ちなみに、このアナスタシアに関する分析は、ニコライ二世の主治医の息子グレブ・ボトキンによるものです。
(4)『The Fate of the Romanovs』(2003)出版社:Wiley 著者 Penny Wilson,他.p47.
(5)再掲(2014)Helen Rappaport.p220.
※なお、オリガの縁談が破談になった理由の一つには、アレクサンドラがオリガの意思を尊重したことも影響しています。
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