第11話

 校庭の端に、いくつかの遊具が並んでいる。すべり台、シーソー、ブランコ、雲梯、登り棒。ヒロトは駆け出すようにして、ジャングルジムに向かった。そして金属棒に手をかけてから、わずか数秒で最上段に腰掛けてみせた。

「速くない?」

 瑠華はまだ二段目に脚を掛けたままだ。

「毎日登ってたから」

 ヒロトは少しだけ得意げな表情をみせた。

「好きなんだ?」

「うーん。俺、高いところが苦手だったんだ」

「そうなの?」

 ようやくたどり着いた瑠華が、ヒロトと同じ高さに顔を出す。

「うん。なんか足元に地面見えるし、怖いじゃん。だから三段目くらいで体が動かなくなっちゃってさ。いつも」

「うん」

 瑠華はヒロトの隣に腰掛けると、足をぶらぶらさせた。

「そしたら姉ちゃんがさ、特訓しようって言うんだよ。俺と姉ちゃんは六歳違うから、俺が小一のとき、姉ちゃん小六なわけ。で、いったん家に帰ってさ、誰もいなくなったころにまた来てさ。毎日毎日登ってた」

「すごいね。お姉さん」

「うん。すごいっていうか。強引なんだよ」

 ヒロトは棒を蹴る。軽い金属音がした。

「それで、いまは得意になったんだ?」

「そりゃなるよ。毎日だよ。毎日。俺、めちゃくちゃイヤだったんだから。観たいテレビあるしさ」

「そりゃあイヤになるねぇ。でも、苦手がひとつ消えて、気持ちがラクになったんじゃない?」

「まあ……ね。友達にからかわれてたからね。そういうのがなくなって、よかったよ。確かに」

 ヒロトは不貞腐れたような表情を維持しているが、もちろん瑠華はその複雑な感情を見抜いているだろう。

 人は大きな喪失に見舞われたとき、防衛本能が起動し、心が鈍麻する。脳は知っているのだ。現実をそのまま受け止めてしまえば精神が耐えられないと。少年の場合も同じだ。リビングに大穴が空き、家族の姿は見えなくなった。それでいてなお、家族はどこかで安全に生きているという可能性を捨てていない。それは本能による作用だ。


「ねぇ、巽ちゃん」

 突然呼ばれたせいで反応が遅れた。間抜けな面をしていたかもしれない。

「なんだ?」

「ちょっとゆっくりお喋りしすぎた……かも」

 瑠華の視線を辿ると、川向こうの県道を二台のバイクが走っている。あの濃緑色は陸自の偵察用バイクKLX250だ。あの位置から向かう先は、この小学校くらいしかない。

「見つかっちゃったね」

「ふたりとも、とりあえず降りてこい」

 降りるときはさらに早かった。ヒロトは猫のように美しい着地を決め、瑠華は左手をついた。その手の土を払っているとき、自衛隊のバイクが校庭に乗り入れてきた。砂埃が、俺たちの前で止まる。

「やあやあ。相変わらず神出鬼没ですね。あなたがたは」

 車体を跨いだ中年男が、口元だけで笑いながら言った。

「へぇ。これは珍しいものを見た。みずからバイクに騎乗とは」

 こいつは俺に対して悪印象を持っている。だからそれに拍車をかけるべく、俺は出来るだけ無礼でいることにした。

「バイクは嫌いじゃないですよ。あなたのトラディショナルなフランス車も悪くありませんがね」

 片頬で笑う中年男の隣で、もうひとりの若い自衛官が、ヒロトの姿を認めるなり拳銃を抜いた。上官が手のひらで制したため、それはすぐホルスターに収まった。

「どうせなら群長と話したいな。ゴリラ一佐は元気か?」

「もう彼は群長じゃありませんよ」

 現場の自衛官とは思えない、デスクワーカーのような銀縁メガネが光っている。スポーツグラスを選択する自衛官が多いなかで、異質だ。

「ほう。そうなのか」

「転属になりました。まぁ、左遷ですね。あなたがたが余りにも邪魔をするもんですから」

「一応聞いてやるが、後任は誰だ」

「一応答えて差し上げますが、私ですよ。一佐になりました」

「昇進おめでとう。名取一佐」

「どうも。社交辞令が言える良識が残っていて安心しました」

「ところで質問なんだが、あんたの左遷先はどこになる予定だ?」

 名取一佐の視線は俺の顔に固定された。瞳孔の奥で、色が変わっていくのがわかる。となりで表情を凍らせた部下が上官の横顔を見つめている。

たつみ……天外てんがい

 名取一佐は銀縁メガネを両手でゆっくりと外した。

「おまえ、今夜中に死ぬぞ」

「ほう。自衛官が国民を殺すのか。そりゃ左遷じゃすまないな」

「我々が殺すわけないだろ。媒介者ベクターに喰われると言っているんだ」

「俺の知るかぎり、いままで媒介者ばいかいしゃに喰われたのはお前の部下だけだろ。なぁ」

 ちょっとした嗜虐心で、俺は部下のほうに視線を向けてみた。そいつは迂闊にもぎょっとした表情を隠すのに失敗し、上官に睨まれた。

「巽。媒介者ベクターを見つけるところまでは、目的は一緒だな。それまでは共闘してやる。集落内の移動を許可してやるから、情報は共有しようじゃないか」

「それはつまり、俺たちに探させようってことだろ。昇進早々、手を抜くんじゃないよ」

 名取一佐は口元だけで笑いながら、銀縁メガネを戻した。

「いずれにしろ本番は日没からです。それまではお互い頑張りましょう」

 ふたりの自衛官は、それぞれバイクに跨った。

「食事に事欠くようなら、戦闘糧食に予備がありますから、取りに来てください。提供しますよ」

 ふたつの後輪が砂埃を立てると、彼らの姿は遠ざかっていった。

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