第5話

 瑠華の右手は巨大だ。いや、その表現には語弊がある。

 俺からは、いまの瑠華の右手が巨大に見えるということだ。

 彼女は車から降りるとき、すでにそれを身につけていた。後部座席に積んだ仕事道具だ。恵子さんがドイツ遊学中に胡散臭い男と作り出した武器。娘のためにしつらえた特別な爪。

 瑠華の手からは三本の巨大な鉤爪が伸びている。存在感を際立たせているのは中央の一本で、それは彼女の前腕とほぼ同じ長さと太さを持っていた。直立している彼女のふくらはぎまでゆうにある。両隣の二本はやや短く、補うように寄り添っている。


 古代の鉤爪アルタートゥム・クラレ


 白亜紀後期に生息した恐竜、テリジノサウルス「鎌をもつ爬虫類」に由来する爪が、街灯とヘッドライトを浴びて白銀色に輝いていた。瑠華はそれを無造作にぶらさげまま、ただ立っている。

 穴は、振り返りの動作を終えた。あらゆる明かりを飲み込んで、瑠華の正面を向いた。

 風が吹き、杉の葉がこすれる。

 小さな枝が折れて、ヒビの入ったアスファルトに落下した。

 突如として穴が、その支配領域を広げた。よく見れば、支柱に当たる部分は紫紺の繊維の集合体だった。その繊維が蠢き、巨大化する頭部を支えるために太くなろうとする。穴はたちまち倍に膨らみ、瑠華を飲み込もうとした。

 だが、遅い。

 すでに瑠華はそこにいない。

 彼女が横を通過したとき、もう支柱の繊維は寸断されていた。支えを失った穴が路面へ触れるよりもはやく、アルタートゥム・クラレの鉤爪が背後から切り裂く。振り抜いた彼女の腕が穴の先をゆき、短くなった髪と長い衣服の裾がたなびいた。

 三本の鉤爪が通過したそれは、もう現世に止まることができなかった。

 積み上げた箱をうっかり崩してしまったときのように、分割された紫紺の塊は路面に散らばる。たちまち砂状になり、そして粉末になり、粒子になり、地面に染み込んでいった。


「お見事」

 俺の言葉が耳に届いたのか、瑠華はこちらに視線を送り、少しだけ口角を上げた。それが終了の合図だ。彼女はその場にしゃがみ込むと、路面を指先で撫でる。さっき粒子が染み込んだあたりだ。

「ゆっくりおやすみ……」

 つぶやく瑠華の背中を街灯が照らしている。

 その街灯の様子がおかしい。

 俺は慌てて後部座席の仕事道具に手を伸ばした。

 街灯の光の裏側。カサの部分になにかが凭れている。よく見ればでかい。なぜ気づかなかったのだろうか。紫紺の繊維で結ったような、巨大な蚯蚓だ。俺は車を降りた。

 瑠華も気づいたようだ。彼女が視線を上げたとき、蚯蚓は体を波打たせ、カサから飛び降りた。

 俺は右腕を振るう。上腕で運び、肘を起点に前腕で加速する。手首をひねって意思を先端に送ると、それは自分の身体よりも素直に動いた。


 九尾の鞭ノインシュヴァンツ・パイチェ


 特別なファイバーを編んだ白銀色の鞭。先端が九つに岐れ、それぞれが刃を成している。そして刃のぶんだけ長さが異なる。つまり、こいつは俺の意思によって、一本の長尺な刃物にもなれば、九つの細かいナイフにもなってくれる。

 もちろん、こいつを生み出したのも俺の師匠だ。

 瑠華にのしかかる直前、ノインシュヴァンツ・パイチェは紫紺の蚯蚓を刻んだ。細かく寸断され、十個のパーツに分かれた蚯蚓は、弾け飛ぶように空中に散らばった。

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