第33話
五月二十五日、木曜日。
俺がこの世界に来て、初めての雨が降った。
この世界に傘はなく、ローブのフードを被ることで雨を凌ぐ。
ローブに付与されている魔法で雨が中まで浸透することはなく、元の世界で言うなら撥水加工が十分にされたレインコートを着ているようなものだ。
放課後、遠矢が魔法生物棟に入ったことを確認し、フードを被った俺は魔法生物棟の前に立っていた。
魔法紙が隠されている場所の見当は付いている。
ドラゴンの部屋の中にある、物置小屋だ。
この世界の俺が遠矢から魔法紙を取り返したと考えられる理由が、ここにもう一つある。
昨日、今田と一緒にペガサスの部屋に入って、確認したかったのは部屋の構造。
事件翌日の身体検査、部屋の捜索でも魔法紙が見つからなかったのは、遠矢が人目に付かない特定の場所に隠していたからだ。それぞれの魔法生物の部屋には鍵は付いていないことから、部屋の中に隠せる場所があるかどうかの確認をする必要があった。
結果として、それぞれの部屋には施錠された物置小屋が設置されていた。
魔法生物の餌や、拘束具、薬などの備品があるため施錠がされているようだ。
物置小屋を開ける鍵は一つの部屋につき、一つ与えられている。
ならば当然、ドラゴンの部屋の鍵を持つのは遠矢一人となり、他の生徒が物置小屋に無断で入るのは難しい。
この世界の俺は恐らく、そのことも分かった上で、魔法生物棟の清掃の日に二人きりの状況を作り出した。
そして物置小屋の鍵を奪い、魔法紙を取り返した。
「受け取って来たよ。遠矢くんは?」
「中にいる。何も疑われなかったか?」
「うん。日頃の行いがいいと、こういう時に何かと融通が利くね」
小走りしてきた桃乃は、フードの中から柔らかい笑顔を覗かせる。
「桃乃が言うと、何故か嫌味が全くないな」
「でしょ? 臨時とはいえ、立派な生徒会長ですから」
桃乃の話では、物置小屋をはじめ、部室、寮の自室など、生徒自身が管理している鍵を紛失した場合は、生徒会長を通して校長に報告することが校則で定められているとのことだった。
校長がスペアキーを持っており、それを生徒会長が受け取って、紛失した生徒へ渡すという手順を取っているらしい。
桃乃は、遠矢が物置小屋の鍵を紛失した、と校長に虚偽の報告をしスペアキーを受け取った。
「それじゃ、行ってくる」
「うん、気を付けてね」
俺は魔法生物棟のエントランスで、ローブの表面に微かに残った水滴を払いながら、目的の部屋へと足を進める。
犯人である遠矢は俺が転生者であることを知っている。
だからこそ、自分の正体がバレているとは思っていない。
ここでは俺が遠矢を疑っているという事実を少しでも隠すことが重要だ。
俺は平静を保ったまま、ドラゴンの部屋の扉を三回ノックした。
「また君か。何?」
扉を僅かに開けて、遠矢はいつもの怪訝な表情を見せる。
「俺の用事じゃない。新飼さんに言われて来たんだ。遠矢に事件の話が聞きたいらしい」
「事件の話……?」
「ああ。詳しくは知らないが、事件現場を最初に見たのは遠矢なんだろ?」
明らかな動揺を見せた遠矢は、こちらへ一歩踏み込んでくる。
そのまま勢いよく扉を閉め、俺を激しく睨んだ。
「何でそれを知ってる」
「言っただろ。新飼さんから聞いたって」
「あの人とは一度話した。今更、僕が話すことはもうないはずだ」
「俺も今さっきまで呼び出されていたんだ。来週の月曜日に新飼さんは政府に戻るらしい。まだ何の手掛かりもないのか、一度話を聞いた人から改めて事件について知っていることを聞きたいそうだ」
遠矢は俺から少しだけ距離を取り、語気を強める。
「それなら、あの人が直接来ればいいだろ。どうして君をよこすんだ」
「逆に聞きたいんだが、行きたくない理由でもあるのか?」
「それは……どういう意味だ」
「これは学校で起きた事件、在校生が新飼さんに協力するのは当たり前のことだろ」
遠矢をこの建物外に出すために、俺は嘘をついた。
新飼の呼び出しを断れば、怪しまれる可能性が高まる。
犯人である遠矢が、そのリスクを鑑みないことはないだろう。
「記憶が戻ったのかい?」
数秒前とは一転し、遠矢は妙に落ち着いた声で問う。
「戻りつつあるかもしれないな」
遠矢は俺が記憶喪失ではなく、転生者だと知っている。
質問の意図は分からなかったが、俺は設定上の掛橋渉として答えた。
「分かった」
俺に肩をぶつけ、遠矢は魔法生物棟の出口へと歩き出す。
「新飼さんは食堂にいるそうだ」
俺はここから距離のある食堂を指定した。
嘘がバレるのは時間の問題だが、それまでに魔法紙を取り返すことが出来れば問題はない。取り返した魔法紙を使い、俺はすぐに元の世界に戻る。その後、桃乃が魔法紙を元の位置に戻し、新飼に隠し場所を教えれば遠矢がやったという事実は明るみに出るだろう。
遠矢が外に出たことを確認し、俺はドラゴンの部屋に入った。ペガサスの部屋と構造は同じだが、この空間を一頭だけで使っていると考えれば広く感じる。
物珍しい顔でこちらを見るリュクスと目が合う。
図書館の見回りをすることから、そこまでの大きさはないと思っていたが、想像より一回り小さい。
体長は二メートルくらいだろうか。真っ白な皮膚はごつごつとしているが、目は綺麗な翡翠色をしている。
容姿に関して、思うところはそれだけではないが、今はそこに考えを割く時間はない。
「大丈夫だった?」
桃乃が扉を開けて入ってくる。
「ああ、現状はな」
「遠矢くん、本当に出て行ったね」
桃乃は被っていたフードを下ろして、息をついた。
外で待機していたため、毛先が雨で濡れている。
「いつ遠矢が戻ってくるか分からない。今の内に魔法紙を探そう」
「うん、そうだね……」
桃乃は憂いを帯びた表情でリュクスを見つめる。
「痛かったよね。ごめんね。リュクスが守ってた魔法紙は私達が取り返すから」
自分にも言い聞かせるように、桃乃は力強く言った。
遠矢が出入りしていることから、桃乃はリュクスの様子を初めて確認したのだろう。
リュクスは特にこちらを敵対視することもなく、その場にうずくまった。
俺は桃乃からスペアキーを受け取り、物置小屋の鍵を開ける。
扉が開くと、中からは生臭い匂いがした。
覗いてみると、リュクスの餌と思われる生肉が鉄製の容器に入っている。
ペガサスの部屋の物置小屋と同じように収納棚が部屋の隅にいくつか置かれており、桃乃と手分けして隠された魔法紙を探す。
棚の中だけではなく、物置小屋の中を整理しながら、十数分ほど念入りに探したが、魔法紙は出てこない。
床や壁も調べてみたが、魔法紙が隠されていそうな場所は見当たらなかった。
「ここじゃなかったのかな? それか遠矢くんが外に持ち出したとか……」
「遠矢は俺が来ることを知らなかった。見つかることを恐れて、魔法紙を持ち出したという可能性はないだろう。最初から隠し場所を別の場所に変えていたのか……」
漠然とした違和感が頭の中で渦を巻く。
「どうする? もうちょっとだけ探してみる?」
「いや……そろそろ遠矢が戻ってくるかもしれない。桃乃だけ先に部屋に戻ってくれ」
「掛橋くんは?」
「状況が変わった。今ここで魔法紙を取り返せないなら、遠矢に俺達が疑っていることを知られるわけにはいかない。俺は遠矢を待って、さっきの嘘を上手く誤魔化しておく」
「そっか……ありがとう。じゃあ、よろしくね。私は部屋に戻る前に校長室に行って鍵を返してくる」
「ああ、頼んだ。俺も後で桃乃の部屋に行く。そこでまた話し合おう」
「うん。分かった」
桃乃は急いで部屋を出て行き、俺は物置小屋に入った痕跡を極力消してから、魔法生物棟の外へ出た。
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