第3話

「リゴネイロ」

「…………」

「お水です。飲んでください」

「あ、ありがとう」


 桃乃が手をかざすと、何も入ってなかったグラスが、瞬時に水で一杯になる。タネや仕掛けは勿論ない。これはマジックではなく魔法。言語の違いだけでここまで受ける印象が違うのか、とどうでもいい知見を得る。目が覚めた俺は、桃乃に座るよう促され、部屋の中央にあったテーブルの前で正座をしている。

 部屋の中に浮遊している奇妙な時計を見ると時刻は十七時を指していた。

 一時間も意識を失っていたようだ。


「気分はどうです? まだ気持ち悪いですか? 顔色が良くないですけど……」

「体の方は平気だ。色々と頭が追いつかないだけで」


 前に座る桃乃が心配そうな顔で俺を覗き込む。なんとなく気まずくなり、俺が先程倒れた場所に目をやると、血だらけだった玄関は何事もなかったかのように綺麗になっていた。俺が寝ている間に桃乃が処理したのだろう。


「魔法の存在は信じてくれましたか?」

「こうやって目の当たりにすると嫌でも信じるしかない……。それより、こんなに落ち着いて話していてもいいのか?」

「はい。掛橋くんがここにいるということは、会長はまだ生きていますから」

「その会長っていうのは……この世界の俺って言ってたよな? 俺がいた世界ではない、っていうのはどういうことだ?」


 魔法という事象は目で見て納得が出来た。問題なのは、何故俺が魔法の存在する世界にいるのか、ということだ。


「そうですよね。さっきは、ちゃんと説明が出来ずにすみませんでした」


 桃乃は背筋を正し、落ち着いた声で続ける。


「簡単に言うと、私達がいる世界というのは一つではなく、いくつかの世界に分かれています。ここは掛橋くんがいた世界とは別の世界です」

「パラレルワールドってやつか?」

「掛橋くんの世界ではそう呼ばれているんですか?」

「いや……いい。続けてくれ」

「分かりました。別の世界というのを劇で例えるなら演者は同じで設定背景や役が違う、というような感じでしょうか。私と掛橋くんはここにいる二人だけではなく、別の世界では別の私達がその世界のルールに則ってそれぞれ生活をしています。実際、私達は同じ修楠学院高等学校に通っていますが、見て分かるように私はベージュのローブを羽織っていて、掛橋くんの制服とは異なります」


 最初に疑問を持った桃乃の服装はこの学校の制服だったようだ。俺は一つ確かめたいことがあり、胸ポケットからスマホを取り出し、待ち受けを起動してから桃乃に見せた。


「これが何か分かるか?」

「いえ、初めて見ました。持ち運び出来る時計……とかですか?」

「やっぱり分からないのか。これは俺たちの世界にある文明の利器だ」


 この世界の「魔法」という概念を俺が知らないように、桃乃も俺達の世界に存在するものを知らないらしい。桃乃は説明を聞いても不思議そうな顔をしていたので続きを促す。


「この世界に掛橋くんが来たのは、ある禁術魔法が使われてしまったからです」

「禁術魔法?」


 桃乃は部屋の本棚から一冊を手に取り、テーブルの上にその「魔法史学」と書かれた本を置いた。


「この世界には使ってはいけない魔法がいくつかあります。今回使われたのはそのうちの一つ『転生魔法』です」

「転生──」


 自分の後頭部を触ってみると、屋上で倒れた時に出来た腫れがまだ残っている。紛れもない俺自身の体だ。この部屋で目が覚めてから、頭の中に散らばっていた考えが一つに集約されていく。桃乃が口を開くよりも前に、俺は独り言のように自分の考えを口にした。

 

「俺がいるってことは、この世界にいた生徒会長の俺はもういないのか」

 

「え……」


 桃乃は目を見開き、小さく声をこぼす。


「どうして知っているんですか? 魔法のことは何も知らないんですよね?」


 確証のない考えを人に話すのは気が引けたが、そもそも魔法に確証なんて持てるわけがない。それに答えを知っている桃乃に言ったところで、話を混乱させることはないと思い改め、しっかりと向き直る。


「桃乃の発言と態度からさっきの血がこの世界の俺のものであることは分かる。あの血を見ても、すぐに探しに行かないということは、それが意味のない行為だと分かっているからだろ?」

「それだけでこの世界からいなくなったって分かったんですか?」

「いや、部屋に入った時は俺も気が動転して気付かなかったが、思い出してみるとおかしい。桃乃が破れたローブを持ち上げた時、その下には制服の白シャツと黒のスラックスが落ちていた。怪我をした人間が服をその場で全部脱ぐとは考えられないし、そもそも廊下にもこの部屋にも血は続いてなかった。部屋に誰もいないということはその場から消えたって考えるのが普通だろ?」

「普通って……掛橋くんの世界では人がその場から消えるのは普通のことなんですか?」

「いや、そんなことはありえない」


 不可解な顔をする桃乃に、俺は言葉を選びながら補足する。


「大前提として俺は魔法がどういうものなのかよく分かっていない。ただ『転生』という言葉の意味なら分かる」

「言葉の意味?」

「転生というのは、別の存在に生まれ変わることだろ? だが、生まれ変わる以前に俺はそもそも死んでいない。桃乃が言うには、この世界の俺もまだ生きている。だったら、転生したのは誰か──」


 桃乃はテーブル上に置いた本の上にそっと手を乗せ、俺の目を見る。

 

「それは、この世界の『掛橋渉』という存在そのものなんじゃないか? 先程の桃乃の話を引用するなら、『掛橋渉』という役が、この世界の俺から失われ、新たに俺に与えられた。それがここで指す『転生』だ。だから、俺がここに存在しているということは、この世界の俺が存在していない理由になると思ったんだ。同じ状況でこの世界に元々いた俺は、俺が元いた世界にいるんじゃないかと考えた」

 

 破れていた制服や流れていた血に関しては謎が残る。

 俺は、転生魔法がきっかけでこの世界に来たという事実から考えたことだけを伝えた。


「……この世界に来たばかりなのに、そこまで考えが及ぶんですね」

「俺は生徒会長をするほど意欲的でもないし、成績だって普通だ。ただ、自分の置かれている状況くらいは誰だって真剣に考えるだろ」


 感心している様子の桃乃に俺はしっかりと訂正を入れる。

 この世界の俺がどんな人間だったかは分からないが、生徒会長を務めていたのなら真っ当な人間だったのだろう。

 罰ゲームで告白しようとしていたような奴を買い被られるのは困る。


「俺は今置かれている状況が少し掴めただけで、この後どうすればいいのかは分かっていない。何をすれば元の世界に戻れる?」

「そうですよね……。まずは、転生魔法というものを一度説明させて下さい。先程、掛橋くんが言っていたように転生魔法は言葉の通り、人の存在を消し、新しい存在にする魔法です。ただ一つ訂正するところがあります」


 桃乃はテーブルの上に置いていた魔法史学と書かれた本を手に取った。


「転生魔法使用者の世界に、別世界の人間を転生者として召喚するのが転生魔法の効力です。転生者が世界を移動するだけで、使用者が別世界へ行くことはないんです。今の状況で言うなら使用者が会長、転生者が掛橋くんになります。つまり、会長は掛橋くんの世界には存在していません」

「でも生きているんだろ? それなら、この世界の俺はどこへ行ったんだ?」


 桃乃は手に取った教科書をめくり、目当てのページをこちらに差し出す。

 見ると、そこには『禁術魔法紙一覧』とあり、独特な模様が描かれた紙のようなものがいくつか載っていた。


「これは?」

「このページに載っているのは禁術魔法が封印されている『魔法紙』というものです。禁術魔法を使うには、この魔法紙が必要で使用方法はそれぞれ違います。転生魔法の魔法紙は『使用者の血を含ませる』ことで発動します」


 嫌な光景が蘇る。

 あの血が魔法紙に触れて、転生魔法が発動したということだろうか。


「そして、血を含んだ魔法紙は、そのまま一緒に肉体を紙の中に取り込むんです」

「……そういうことか」


 俺が理解したのを確認すると、桃乃はページ内の「転生魔法」と書かれた魔法紙の箇所を指差した。


「はい、会長は魔法紙の中にいます。そして、転生魔法を解除するには、その魔法紙に転生者である掛橋くんの血を含ませることが必要です。そうすれば、掛橋くんは元の世界、会長はこの世界に戻ることが出来ます」

「同じように俺の血で魔法を発動させればいいのか。その魔法紙は今どこにある?」

「それは……分かりません」


 桃乃は少し悔しさを滲ませたような表情をして俯く。


「……ちょっといいか? 俺が先生を呼びに行こうとした時、何で止めたんだ? こういう状況だからこそ、学校に報告して解決してもらった方がいいんじゃないか?」


 魔法の存在する別世界といっても、ここが学校である以上、先生という存在は生徒にとって身近な存在なはずだ。先生に言ってはいけない、という桃乃の言葉が引っかかっていた。


「禁術魔法を許可なく使った場合、この世界では『死罪』となります。先生に知られれば、会長はこの世界に戻ることが出来たとしても、その後罪を問われて命を失うことになるんです」


 桃乃は本の上で両手を重ね、重々しい口調で話した。


「それは──」

「すみません。この世界の事情は掛橋くんに関係ないですよね……」


 俺はこの世界の俺と面識がなく、勿論特別な感情もない。

 元の世界に戻ることが出来ないというのは向こうの世界で俺が死ぬことと同意義だ。

 自分の命と、他人であるこの世界の俺の命、俺が優先させるべきは言うまでもない。

 その俺の考えが伝わったのか、桃乃は申し訳なさそうに謝った。


「俺が転生者だと周囲にバレることで、俺自身にも何か不都合なことは起きるのか?」

「……分かりません。そもそも、転生者の人が存在した話を聞いたことがないので」


 会話に沈黙が訪れ、奇妙な時計の秒針の音だけが際立って聞こえる。

 俺は今一度、考えをまとめて口を開いた。


「分かった。それなら誰かに話すことはやめておく」

「え?」

「前例や決まりがないなら、転生者である俺にも何かしらの処置がされるかもしれない」


 禁術魔法を使ったら死罪というほど規制が厳しいのなら、転生者である俺にも情報漏洩を防ぐといった意味で記憶を奪う魔法なんてものを使われる可能性だって0じゃないだろう。それに、俺が無事元の世界に戻ることが最優先事項であることに変わりはない。


「すみません……ありがとうございます」

「それで結局のところ俺は何をすればいいんだ?」


 桃乃はしばらく逡巡した後、立ち上がり、俺に手を差し出した。


「掛橋くん、私に協力してくれませんか?」

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