第8話「レイニー・シーズン (1)」
学生カバンを手に取り、玄関に向かう。窓から見える灰色の空と、じめっとした空気は時間感覚を狂わせて、まるで朝じゃないみたい。
「行ってきます」
ドアを開くと、こもっていた水音が弾けるように近くなる。いつもだったら目を刺してくるような眩しい太陽は雲に隠れていて、代わりに雨特有の臭いが辺りに滞留していた。
たくさん雨が降っている。冷たい空気が肌に触れて、すこし寒い。
傘をさして玄関から出ると、ヘリポートになった対面の敷地が目に入った。今日はヘリが無い。だから寂しい空き地が雨に晒されていて、なんだか可哀想だな。と思った。
あやちゃんはしばらくお休みらしい。入学そうそう五月病にかかってしまって、ベッドから出られない状況が続いているとか。
住所は教えてもらってるから、時間があったらお見舞いにいこうと思う。でも、あの大豪邸に足を踏み入れる自分を想像すると少し身震いした。同じお嬢様学校に通っているというのに、未だに現実感が無いのだ。
(入学してもう2ヶ月かあ)
入学初めに受けた身体測定では「お嬢様ランク」を決定され、私は「お嬢様」ランク。あやちゃんはなんと「スーパーお嬢様」の判定を受けた。クラス内は騒然としてて、前代未聞だって噂立っていた。でもそもそもお嬢様ランクってどうやって決まるんだろう?学園のことはまだまだわからないことだらけだ。
(いつもあやちゃんのヘリに乗せてもらってるから、歩くとちょっと遠いな……)
いつもであればものの数分で着いてしまう空の通学路に慣れてしまっているからか、そんなことを歩きながら考えてしまった。あやちゃんには感謝しないと。
濡れた地面を踏む度に、びしゃりと小気味良い音が鳴った。傘の下から辺りを見回すと、景色の遥か向こうを、弾けた雨が霧となって覆い隠している。
こんな雨の日を歩く時には、大きな水溜まりを踏み抜かないように少し目線を下げて歩くようにしている。すると、そんな細かな注意が功を奏したのか、電柱の脇に置かれたダンボールがふと目に入った。
「にゃー」
鳴き声が聞こえたので立ち止まって覗いてみると、雨に晒されながら震えている小さな猫がいた。
「かわいそうに」
傘を渡そう。と思った。
家に帰って二本目の傘を取ってくる時間もないので、持っている傘を電柱に立てかけて猫の入ったダンボールを守らせる。
身体が容赦なく雨に濡れていくが、特に気にならなかった。助けたいと思ったら助ける。そう生きると決めているからだ。
「本当は保護してあげたいけど……ごめんね。これだけしか出来なくて」
とはいえ、干渉しすぎるのも良くない。子猫も一つの命だ。自分に軽々しく背負えるものではない。
近くの保健所に連絡をして、私は雨に濡れながら学校へ向かった。
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『どうして見捨てようと?』
雨が強く降り注いでいた帰り道。わたしはあの時、確か十歳ほどだった。
怪我をした猫が、道の端でうずくまっているのを見つけて――
正直、最初は助けようなんて思わなかった。いきなり近付いたら噛まれるかもしれなかったし、助けられる自信もない。
でも、猫の目は明らかに助けを求めていた。それでもわたしは、裏切られるのがどうしても怖くて……目を逸らして、その場から立ち去ろうとした。
その時、話しかけてきたのが”あの子”だった。
「誰……?」
振り返ると、フリルの付いた立派なワンピースを着たお嬢様が傘をさして立っていた。背丈からして、自分よりも5つほど上だろうか。
傘の影に隠れて、穏やかに微笑む口元以外の表情はよく見えない。髪はロングで、色はたしか銀色だった。
彼女は言う。
『私は通りすがりのお嬢様、すごいお嬢様よ』
「えっ?……通りすがり……?すごい……?」
そんな突拍子も無い自己紹介の内容に、わたしは思わず困惑した。
「……なんの用ですか。みすてたって……私が?」
『ごめんなさい、言い方が悪かったわね。でも、あなたはその子を助けたいと思っていたでしょう?』
図星ではあったものの、彼女のまるで自分のことを全て見透かしているような言い方にはむっとした。
今会ったばかりの人間に、わたしの何が分かるというんだろう。
「他人のあなたに何が分かるんですか?みんなわたしを怖がります。笑わない子だって、ひとを信じない子だって、それでもですか?」
『いえ』
令嬢は否定した。
『あなたは優しい人ですもの。じゃなきゃ、そんな目で猫を見たりしませんわ』
「目……?」
予想だにしない答えに、わたしは動揺して口ごもってしまった。
……幼少期のわたしの目は、周りの人が言うには「氷」のようだったらしい。
人を信じられなかった。かろうじて口をきくのは両親ぐらいで、友達なんてひとりもいない。
そんなわたしを見て、「優しい」なんて感想を持つ人がいるとは夢にも思わなかったのである。
『おいで』
令嬢は傘を閉じて壁に立てかけ、濡れたアスファルトに横たわる猫に手を伸ばす。
猫は突然触れてきた体温に驚き、令嬢の腕へと噛みついた。
『ッ』令嬢は苦痛に顔を歪ませた。
「や、やっぱり裏切られる……!助けたって、じぶんが傷付くだけ……」
わたしは言った。猫を助けようと思った時に恐れていたことが、やはり起きたのだ。何かを信じるなんて、だれかをたすけるなんて、やっぱり無駄なんだ!
『……だとしても』
令嬢はわたしを見る。
『自分のやりたいことを曲げていては、強くはなれませんわ』
そして彼女は噛まれた腕から流れる血や痛みに一切動じることなく、汚い子猫をぎゅっと抱きしめた。しとどに濡れた身体から、血の混ざった雨がアスファルトへ流れていく。
「血が……!」
わたしは思わず心配になって声を上げた。傘を捨てて駆け寄り、ハンカチを令嬢に差し出す。
『ありがとう、でもご心配なく。……あら、どうやら信じてくれたようね』
「!」
ハンカチで止血する令嬢の腕の中を見ると、子猫は不思議なほど大人しくなっていた。怯えて唸る事を辞め、まるで母親の腕の中にいるように警戒を解いて、すやすやと寝息を立てている。
わたしはすっかり目の前の出来事に面食らってしまって、しばし言葉を失ってしまった。
「……どうして、そこまで?」
かろうじて絞り出した疑問に、”彼女”は答えた。
『これは”我儘”。私がそうしたかったからにすぎません。何を我慢する必要があるのかしら』
「わが、まま……?」
『それに私は』
『すごいお嬢様ですもの』
雨に打たれながら、私は無意識のうちに”彼女”を見上げていた。
私と同じく雨に濡れ、水分を含んだ髪が形を崩しながらも、令嬢の威厳はいっさい傷つけられていない。実際の背丈以上に、彼女はとてつもなく大きな存在に見えた。
そしてその姿は同時に、私の憧れとして脳裏にずっと、ずっと焼き付いているのだ。……
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何分歩いたんだろう。雨で髪が濡れて視界がおぼつかなくなりながらも、心を無にして学園へ向かっていた私は、ようやく視界に現れた大きな校門の姿に思わず息を漏らした。
(やっと辿り着いた……!お願い……風邪とか引かないで私の身体……)
寒さに震える身体を頑張って動かす。
遅刻してないか時刻を確認したいけど、こんな大きな校舎なのに外付けの時計が何故か一つも無い。昔は大きな時計塔があったなんて話を聞いたけど、今はその存在がとっても惜しかった。
(うぅ、とにかく校門をくぐろう……)
長距離走を走りきったような達成感に満ち溢れながら門をくぐったが、まだ朝である。
そのままふらふらと歩いていると、突然目の前に白いタオルが差し出された。
「えっ?」
私はびっくりして立ち止まる。
「ええっ?」
伸びた腕を目で追っていくと、「風紀」の腕章が目に入った。
「ええッ!?」
ぎょっとして顔を覗き見ると、感情の無い目と深く入った隈、そして眼鏡をかけた真面目な顔がそこにあった。
”紀律 さだめ”だ。
「さ、さだめさんッ!?!?」
「朝から校門前で騒がない。風紀が乱れます……どうしたのその格好は」
「あっいやーっこれは、なんというか、猫に傘あげちゃって!あはは!はは、ごめんなさい……」
さだめさんへの恐怖をいまだ拭いきれない私は、うわずった声で一応朝のことを説明しようとした。理解はされないだろうが、なにも言わないよりマシだ。
「?……とにかく、風邪をひいてウイルスをばら撒かれても困ります。疫病は風紀を乱しますから」
「あ……はい」
怒られると覚悟していたが、さだめさんは意外にも優しく諭すような口調であったため、私は拍子抜けしてしまった。
(((あれ?こんな人だったっけ……?)))
「早く拭いて、更衣室で着替えなさい」
「ありがとうございます……」
私はどこか唖然としたまま、受け取った柔らかいタオルを頭にかぶせながら校舎へと歩く。
ちらと振り返ると、既にさだめさんは”風紀委員”として校門へと目を光らせる冷たい秩序の体現者に戻っていた。
「……」
私は彼女のことを、少し勘違いしていたのかもしれない。
_____
私は教室へ入る前に、一旦女子更衣室に立ち寄った。替えの制服に着替えるためだ。
ドアにはめ込まれた黒い画面にカードキーをかざし、ロックを解除する。学園内の施錠はほとんどが電子制御なのだ。さすがお嬢様学校。
「失礼っ」
そして室内に足を踏み入れたとき、不幸にも部屋からちょうど出ようとしていた生徒が飛び出してきた。
「わっ」
急だったので避けきれず、私たちはぶつかってしまう。
「「きゃっ!」」
ぶつかった相手は短い悲鳴と共に黒い髪がぶわっと浮き上がり、長い脚を曲げて姿勢を崩して尻もちをついた。
顔を見ると、彼女は同級生の西園寺 瑠美(さいおんじ るみ)さんであることが分かった。ドアの取手を握っていたため転けずに済んだ私は、慌ててしゃがみこんで手を伸ばす。
「ごめんなさい!!大丈夫で
「ッ」
西園寺さんが私を睨みつけた。差し出した手は鋭く弾かれ、じんとした痛みが手の甲を覆う。
(――えっ)
突然の事に私の思考は一瞬止まってしまった。よく見ると、私の服が濡れていたため、ぶつかった拍子にあちらの服もかなり濡らしてしまったらしい。
だから怒っているのだろうと分かったが、しかし、なんだろう。違和感があった。
その疑問は、西園寺さんの瞳を見た瞬間に明瞭な理解と共に霧散する。
それは侮蔑や見下し、軽視を内包した――暴力的とも言える一般人への偏見そのものであると気付いた時には、私はただ立ち尽くし、瑠美さんの罵声を正面から浴びせられていた。
「触らないでッ!」
「あ……」
何か言おうと口を開いたが、無力感と突き落とされるような衝撃が身体を痺れさせていて、言葉は出なかった。
謝るべきだろうか、弁償するべきだろうか、どうしてたら許してもらえるだろう?しかし、問題の本質はきっと、そんなことではなく。
「失礼しますわ」
西園寺さんはそう言って、私を器用に避けて更衣室を後にする。
残された私は真っ白になった頭のまま、自分のロッカーを開ける。中身が荒らされていて、何着か服が消えていた。
なぜだろう。
……。
……どうでもいいか。
_____
つづく。
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