魅惑のひと

木春

魅惑のひと

 ここはどこだろう。気がつくと廊下の真ん中に自分はつっ立っていた。辺りは真っ暗で、手に持った灯りのお陰でかろうじて自分の周りがほんのり見えるくらいだった。こんな場所は知らない。けれど何故か不安も恐怖もなくて、しんと心は凪いでいた。ふとどこからか優しい香りが流れてきてこの鼻の奥を擽る。どこかで聞いたことのある香りのはずなのだが思い出せない。無意識にまるで花の蜜に惹き寄せられる蝶のようにその方へ歩み出していた。


 次に自分が見た景色はまたどことも分からない部屋の中だった。ここはまだ灯りがほんのり灯されていて部屋の中が深い橙色に包まれている。目の前にあるのは寝台。これにも見覚えはない。けれど天蓋もそこから垂らされている帷もふわりとした桜色をしていて実に好ましい。それに、私の好きな香りがするのもこの中からだ。そんなことを思っていたら、自分の手がいつの間にかその帷の端に伸びているのに気が付かなかった。

 目に入ってきたのは寝台に横たわり眠る一人の女性。あぁ、何がどうなっているのか。急に頭の奥がぎゅっと絞り上げられたような感覚がした。こんなのは歳を無駄に食ってしまった私には無用のもの。目を背けたい。今すぐ立ち去りたい。だというのにこの身体は言うことを聞かず、ただそこで立ちすくんでいるだけだった。その気配を感じたのだろうか、女性は上体を起こし目を擦りながら私に目を向けた。

「あぁ………」

「……媛」

 その女性は間違いなく自分の妻。私と共に長い長い年月を重ねたというのに今なお麗しい最愛の女性の姿をしている。君ならば何も心配は要らない。寧ろ夢にまで出てきてくれるなんて幸せな限りだ。背筋に走っていた寒気も立ち消え胸を撫で下ろしていると、ふとなめらかで暖かい何かが手に触れた気がした。何かと思い目を向けると妻は真下から自分を見上げてその頬に自分の手をあてがって恍惚としている。よく見れば妻は上等な絹一枚だけを羽織った姿で、灯りがそっとそのふくよかで張り艶の衰えぬ素肌を舐めるように照らしていた。

「安宿媛……」

 自分は何を呑気に愛しい女性の名を呼んでいるのか!今私が見えているものに対してあまりに自分は冷静すぎた。久方振りに見る愛しい人の素肌はあまりに扇情的で私の心には猛毒だ。だと言うのに自分は寝台に膝をかけて妻に導かれるように覆い被さる。あぁ、もう片付けたはずだったのに。妻の両手を床に縫い付け、首筋に鼻先を沿わす。鼻の奥が痺れるこの香り。応えるように妻の下肢が絡むのが堪らない。少し埃の被った情に再び火が灯る。目の前の桜唇を食んだ。幾度も幾度も。

「あなた………あいしてる」

 夢だとしても、私の無自覚な願望が生み出した幻想だったとしても、妻の言葉は甘美に私の頭に響いて離れない。

「あ……あすかべ……」

「あなた。あいしてほしい」

「あっ……あぁっ…」







「だ、だめだ!」

 そこでやっと私は目を覚ました。首の周りから胸の辺りまで汗で濡れて冷たい。それなのに身体の熱は冷めることを知らずに夢の続きを求めている。

「あ、あぁ………」

 私は思わず両手で顔を覆い先ほどまでの記憶に一人悶えた。一体妻にどんな顔をして今日また逢えば良いのか。すっかりそんな欲は枯れ果てたと思っていたのに。未だに私は彼女を……。



 夫婦の閨に再び深い睦言が蘇ったのはこの晩のことであった。












「あ、安宿媛……その……」

「あら!あなた。いかがなさいましたの?そんな、かしこまって」

「ぼ、僕のお願い、聞いてくれないだろうか……」

「あなたのお願いならなんだって」

「じゃあ、えっと、き、君さえ良ければ、その………」

「はい」

「ま、まま、枕を、交わしたい、というか……」

「…………」

「…………………だめ?」

「い、いや……。だめ、というか……」

「嫌…?」

「わた、私でいいんですの…?」

「君じゃなきゃ嫌……」

「私もう結構歳…………」

「君じゃなきゃ駄目……」

「あなたなら若い子選び放題じゃない」

「君じゃなきゃ無理なの!君が夢に出て来るくらいなの!」

「えっ」

「あっ」

「夢に…?」

「何でもないよ!」

「夢の中の私ともしかして」

「やってない!やってない!ちゅ、ちゅーくらいはしたけど」

「あなた」

「は、はい!」

「今晩は腹括っといてくださいませ。夢より夢見心地にして差し上げますわ」

「媛ちゃん……!」


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魅惑のひと 木春 @tsubakinohana12

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