トミィって呼んでね




 いつしか、生きる意味を探す毎日だった。

 物心ついたころから、当たり前のように生きる事ということが、解らなかった。

 何にでも疑問を抱いた。それを大人には疎ましがられた。

 毎日、誰かがどこかで泣いて苦しんでいる。

 毎日毎日、誰かがどこかで亡くなっている。

 毎日毎日毎日、誰かがどこかで誰かを傷つけ略奪している。

 どうして、そんな世界を見なければいけないのか解らなかった。

 『生きていても良い』って肯定感がなかった。

 そんな中、やっと『答え』を見つけたのに、それは否定された。

 やっと自分の中で納得できる答えを見つけたのに、完膚なきまでにそれは否定された。

 なら、きっと生きている意味もないのだろう。

 



 ***




 松野は廃墟の外に出ると寒い外気を感じていた。日差しは弱く、浴びていてもあまり温もりを感じない。

 午後2時程だ。厚手の服を着ているものの、腕の『さいぎしん』には包帯を巻いて更に念入りに隠していた。こんなダサい刺青を見られるわけにはいかない。チラリと包帯をずらしてそれを見ると、達筆な字で書かれている。


「……ダサい刺青…………」


 口に出すものの、あまり現実味がない。

 世の中の全てを信じ切ってしまうなんて、おそらく自分が今感じている世界は、以前の世界より何もかもが違うのだろう。

 何もかもが輝いて、何もかもがどん底に最悪な世界。

 松野が廃墟から出てからしばらく歩いて大分離れた際に、歩き疲れて少しその辺のバス停用の雨ざらしのベンチを発見し、そこに座った。

 そしてぼんやり辺りを見ていると、本当にこの辺りは何もないということをしみじみと感じる。今は冬で虫の泣き声もしないが、夏になれば蝉が大音響のスピーカーでも使っているのかと感じるほどうるさいのだろう。

 ふと隣を見ても、誰もいない。

 しばらく自分の隣りの空間を見ていると、遠くから「ガサリ……」と物陰から、ありきたりな物音がする。

 松野はそれを聞いて鼓動が早くなる。


 ――またイノシシか? クマはまさか出ないだろう。今は丸腰だ。これじゃ戦えない


 松野が音の下方向から後ずさり、警戒をしてそこを注視すると茂みから人影が出てきた。


「相変わらず、勘の鋭い方だ」


 その声を聞いて松野は硬直した。

 分厚い眼鏡にトレンチコート、大きな一眼レフカメラ。痩せていて無精ひげが生えている中年男性。髪の毛はべったりとしていて清潔感がない。


「お前……!」


 その不潔そうな男――――寺口てらぐちつとむは松野を見るとニヤリと不敵な笑みを浮かべる。


「いやぁ、もうから随分経ちますね。度々拝見しておりますが、すっかりお綺麗になられまして」


 わざとらしい作り笑いに、松野は恐怖を掻きたてられた。

 怖い。今すぐ逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。松野の顔が明らかに引きつる。


「何の用だ……」


 恐怖を振り払うように言葉を発するが、どうしても声が震えてしまって凄味がない。


「いやぁ、松野さん。そろそろ取材させてもらえますか?」

「ふざけるな! 俺の前から消えろ!」

「そうおっしゃらずに……」


 ヘラヘラと笑いながら、じりじりと距離をつめてくる寺口に、松野は呼吸が浅くなる。

 心臓が握りつぶされそうなほどに痛い。視点が定まらない。


 ――嫌だ、怖い……


「ちょっとあなた! なにしているの!」


 松野がその声にハッとすると、後ろに嫌に色っぽい男性が仁王立ちしていた。

 睫毛が長く、あっさりした顔をしているが、キチンと手入れされた金色の少し長めな髪が印象的だ。

 松野と同じくらい痩せているが、身長は裕に180センチは超えているだろう。シャツにジャケットを着ているのに、妙にそれすら色っぽく見えるのが不思議だ。

 確か、赤城組にいた人だったと松野は思い出す。目立つ見た目だったので松野は覚えていた。


「松野ちゃんが嫌がっているじゃない。あなた誰なの?」


 オネエ口調というやつだろうか。なんだか優しい、女性のような口調だった。


「これはこれは失礼しました。わたくし、ジャーナリストの寺口勤と申します」


 寺口が名刺を出し、渡そうとするが受け取らず、その手を弾き名刺を落とした。


「そういうことを聞いているんじゃないの。松野ちゃんにとってあなたは誰なの? って聞いているのよ」


 寺口はニヤニヤしながら自分の頭を掻いた。ガリガリと掻くと、フケのようなものが零れ落ちる。松野は、様々な嫌悪感で寺口を見ていることはできずに視線を逸らし、硬直する。

 息はまだ浅く、冬であるにもかかわらず、嫌な汗がじっとりと出てくる。


「いやぁ、まいったなぁ。そんな嫌わないでくださいよ。わたしは――――」

「ヘラヘラしてんじゃねぇよ。嗅ぎまわるな。犬風情が」


 物凄く低い声だった。松野の声じゃない。寺口の声を遮って言ったのは、先ほどまでオネエ口調で話していた男、戒能かいのうあたるだ。

 その大柄な体躯で見降ろされ、松野よりも小柄な寺口は完全に委縮した。


「あはははは、すみませんでした。出直します……」


 笑いながら逃げるように、寺口はどこかに消えていった。叩き落とされた名刺だけ残して。

 寺口の姿が言えなくなると、松野は無意識に止めていた息を吐きだした。


「はぁ……ありがとうございました……戒能さん……でしたよね?」


 嫌に具合の悪そうな松野を見て、戒能は心配そうな顔をした。それを見て松野は平常心を保つように無理して笑顔を作った。


「そうよ。トミィって呼んでね」


 戒能當かいのうあたるの「當」が「とみ」という字に似ているからそう言っているのかもしれないが、名前のどこにも「トミィ」は含まれていない。


「あぁ……えーと……慣れるまで戒能さんと呼ばせてもらいます」


 苦笑い気味にそう言うと、松野は落ちていた名刺を拾い上げ、険しい顔をしてそれを見つめた。


 ――寺口勤……名前を見るだけで吐き気がしてくる


「誰にでも強気な松野ちゃんが、こんなに動揺するなんて。相当嫌な奴なのね?」

「……ちょっと……その……昔、すごく嫌な想いをしたことに対して……しつこく聞いてくるんです。ここしばらく見なかったんですけど……」


 松野はそれ以上口を開こうとしなかった。戒能も、その様子を見てそれ以上は聞かなかった。




 ***




 何かの役に立つことがあるだろうかと、松野は寺口の名刺を拾って持ち帰った。

 部屋の中でその名刺をその辺に投げてベッドに倒れこむが、その名刺の存在が脳裏に焼き付いて落ち着かない。


「あぁもう……」


 松野は投げた名刺を疎ましく見つめた。思いついたように、白紙の紙をマジックで真っ黒に塗り始めた。裏表真っ黒に塗り終わったら、それをヒラヒラ振って乾かす。 黒く塗ったその紙に、寺口の名刺を包み、画鋲で壁に縫い付けた。


「……うん。封印完了」


 こんなことをしても、全く意味がないことくらい松野は解っていたけれど、松野は無理やり心の安寧を図ろうとした。



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