Kはカリウム、 Znは亜鉛、Nは窒素、Cは炭素




「で、でも、今までの話で疑問があるんだけど、松野に私が『遅刻しなかった』って言った嘘を松野は信じなかったよね」


 場の喧嘩の空気を変えるために前田はそう言った。


「俺が事実として記憶していることは、疑う余地もなく間違いだと判断できるからじゃねぇか? 何か一般常識の範囲でやってみてくれ」


 松野が前田の方を向いた。前田は一般常識の範囲内と言われてもピンとこなかったが、ひとまず問題を出すことにした。


「1+1=3だよ」

「……お前、バカにしすぎだろ。んなもん間違いだ」

「んー、算数、国語……じゃあ、社会の問題。社会……って難しいな。黒船で来航したのはルソーだよ」

「へぇ。そうなんだ」


 前田はそこで止まる。

 確か松野は歴史が大の苦手だったはず。これは純粋に知らないというか、解らないというか、判断材料として適切でないような気がした。松野は不思議そうに前田を見つめた。


「いや、松野。黒船で来航したのはルソーじゃなくてペリーだから」

「そうなの。ごめんごめん」


 興味なさそうに手をヒラヒラと振る。


「じゃあ……次は理科。植物が光合成によって生産するものは二酸化炭素なんだよ」

「んなわけねぇだろ。そしたら世の中二酸化炭素だらけで生き物死滅するわ」


 理科は得意だったことを思い出し、少し難しい問題を前田は出そうと思った。携帯電話で理科の問題を調べる。


「原子の問題。Kはカルシウム、Znはヒ素、Nはナトリウム、Cはホウ素です」

「Kはカリウム、 Znは亜鉛、Nは窒素、Cは炭素」

「見事! 全部正解」

「おう、もっとこい」


 赤城は煙草を吸い終わり、松野と前田の会話を黙って聞いていた。

 自分の隠れ家に呼んでしまったものの、これからこの女どもをどうするか、と考えていた。危険は犯せない。組の人間の命全てと、人生そのものがかかっている。


 ――殺して安パイをとるかどうか……


 赤城は見極めなければならない。無論、無益な殺生はしたくはなかった。


「松野、実は私、男なんだ」

「まじかよ!? ……まぁでも、お前が男でも女でも、俺ら友達だから」


 急に騙されて動揺する松野を見て、からかおうと思っていた前田は罪悪感に駆られ、すぐさま訂正した。


「……嘘だよ。女だよ」

「はぁ!? なんだよ嘘か。お前焦らせるなよな」


 松野は自分の手で顔を覆って安堵した態度を見せた。


「それって、松野が私のこと絶対男じゃないって思ってないってことだよね?」


 前田が少しむくれながら松野に言うと、真顔で松野は反論した。


「だってお前、今性転換手術って凄いんだろ? それにお前の性別なんて友達なんだからどっちでもいい」


 投げやりに言うと、前田は少し考えた、松野にとってどうでもいいことは簡単に騙されてしまうのだということか。


「実は持っているだけで幸せになる壺があるんだけど、どう? 買わない?」

「へぇ……そうなんだ。いくら? 値段による。……でも、『幸せ』って個人の感覚に依存するだろ? 具体的にどうなるんだ? お前の場合は」


 具体的な話を聞かれ、前田は戸惑う。

 自分の幸せというものをよく考えたことがなかった。幸せってなんだろう。自分の幸せについて考え始める。


「日々、安穏と暮らせている感じ?」


 前田は思いついた適当な答えを松野に伝えた。


「え? 今えらいことに巻き込まれてるじゃん」

「そうだったー!」


 いわれてみれば確かにそうだと前田は驚愕の表情を浮かべ、手を叩き松野を見つめた。


「おい! 俺に変な壺買わせようとするんじゃねぇよ! そういうの詐欺っていうんだぞ!」

「どちらかというと、この場合は準詐欺罪になるんじゃないかな」


 準詐欺罪とは、頑是ない十九歳以下の子供を誘惑、あるいは精神的な障害で判断能力が低下している人に働きかけることによって、財物を手渡させる罪。


「確かに……ってお前! 俺のことを精神的な障害で判断能力が低下している人間扱いするんじゃねぇ!」


 あまりに具体的な喧嘩の内容に、赤城は殺す気も失せて笑い出した。


「はっはっはっはっは!」


 笑っている赤城に、松野は怒りをぶつける。


「なに笑ってんだよ! こうなったのはあんたのせいだろうが! 絶対にその液剤を手に入れるんだよ! あんたは当然それを手伝うんだ!!」


 ひとしきり笑い終わった赤城は、覚悟を決めた。元々、そのつもりであったことだ。


「面白ぇ嬢ちゃんたちだ。わしの命の恩人でもあるしな……もう痺れを切らしてたところじゃ。国へ喧嘩売ったろうじゃないか」


 その言葉を聞いて、松野はホッとする。それと同時に松野は前田を巻き込むわけにはいかないと感じた。

 国に喧嘩を売るなんて、犯罪に手を染める可能性が高いということだ。松野は前田に向き合う。


「やべえことになっちまったから、お前を巻き込むわけにはいかない。だから家に帰った方がいい」


 心配しているのを、あまり感じさせないように、できるだけ軽く松野はそう言った。


「そうさせてもらいたいけど、私がいないと松野が大変じゃないの?」


 なんでも私はお見通しよ。という顔をして松野の顔を見る。


「まぁ俺、疑う心ないからな。騙されて大変な目に遭うような気もする」

「じゃあ私が松野の目となり、耳となるよ」


 前田は自信満々に自分の胸を叩く。松野は不安げに思いながらも、前田の申し出を受け入れた。


「地獄の果てまで引きずり回してやるからな、覚悟しとけよ」

「引きずるときは、ちゃんとにしてね」

「任せとけ!」


 訳の分からない会話をしている松野と前田を見ていて、赤城は疑問に思っていることを問いかけた。


「そういや、てめぇら。法律に詳しいみてぇだが、法学部か?」

「いや、法律を時には武器にして、時には盾として使う為に少し勉強しただけ」


 素っ気ない返事に赤城は呆れる。


「可愛げのない……」

「松野は中学と高校のときに何件か裁判を起こして勝っているんですよ」


 赤城はあんぐりと口をあけて松野を見た。到底この粗暴な女にそんな素養があるように見えない。


「大したことはしてない。周りの何人か違法行為してたから、それをシメただけだ」

「でも、他にも示談で何十万かもらったんでしょ?」

「おう、俺の小遣いにしてやったぜ」


 法律を盾にしたヤクザのようなやり口に、赤城は恐ろしさを感じた。無論、法を犯す人間が悪いのだが、それを逆手にとっている。

 そんな人間が、今から国へ盾突こうなどというのは本当にわけが解らない。


「国が恐れていた化物クリーチャーか……」

「クリーチャー? 俺を化け物扱いするな。今のところ人間だ」


 怪訝そうな顔をして、松野は赤城の顔を見る。「今のところは」という部分に引っかかりつつも、赤城は思い出す様に顎に手を触れた。


「『無印』を国が異常に恐れるのは、制御ができず重大なエラーをおこすからだ。それはいつか自分たちに仇成す存在になりえる。無印が『暴走』し、手に負えなくなった者をあいつらは化物クリーチャーと呼んでいるんだ」

「ふうん。まぁ、化け物だっていうなら、それはあながち間違ってないかもな」

「松野、『魔王様』って呼ばれて恐れられているもんね」

「下々の者が、頭が高いぞ」


 松野が『魔王』になりきってわざとらしくそう言う。


「ははーっ」


 前田がそれに合わせて拝み始めるさまを見て、赤城はこの先のことを不安に思う。いくら法律が解ったところで、中身はまだ子供だ。赤城はそのあどけない松野と前田の表情を見ていた。



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