『猜疑心』の漢字が解らなかった




「あんた、自分の立場解っているのか?」


 男の恫喝に怯まなかった松野は冷たく男に言い放つ。


「てめぇこそ、こんなことして自分の立場をまったく解っていな――――」


 松野は耳に携帯電話を当てて、男に背中を向けた。そして警察に電話するふりをして話し始める。


「あー、事件? 場所ははっきりしませんが、どっかの山にいるんですけど――――」

「解った! 話す! やめろ!!」


 男が焦りだしたのを確認すると、松野は満足げに携帯電話をしまった。男の傍にしゃがみ、顔を覗き込む。


「わしは……赤城あかぎ龍彦たつひこ。赤城組、2代目組長だ。国から追われている」


 言われなくても、松野と前田は解っていた。絶対にカタギの人間ではないということくらいは。


「それって、刑法的な意味で追われているって意味?」

「…………そんなチンケなもんじゃねぇ」


 赤城は大切に持っていた黒い物々しい箱に何やら操作をして開け始めた。

 見たところ、指紋認証や角膜認証や、かなり高性能なセキュリティを備えた箱だ。そしてその厳重なセキュリティを解除し、1本のペンを取りだした。

 そのペンはファンシーなデザインで、ペンの上部には赤いチープな林檎の飾りがついている。持ち手は木製、枝と葉がついていて、まるで女子高生が使っていそうな、少しダサいペンだった。

 松野と前田の2人は同時に「うわぁ、似合わない」と思った。

 和彫りの刺青を身体にびっしり入れている強面こわもての男が、そんなものを持っているのは異様な光景だった。松野は少し笑いそうになる。


「これを……奪って逃げたから国から追われている」


 真面目な顔をして、赤城がそう言った瞬間……――――


「はっ……くくくくく……」


 堪えきれずに松野は失笑し、声をあまり出さないように笑う。

 赤城に対して悪いという気持ちもあったが、面白すぎて松野は堪えきれずに笑ってしまっていた。いい歳であろうヤクザの組長がそんなファンシーなペンを万引きして警察に追われているなんて、何をしているんだ。

 と、松野は面白すぎて堪える事ができなかった。


「笑うんじゃねぇ! これは普通のペンとは違うんじゃ!」

「くくくくく……」


 松野は面白すぎて返事ができない。腹部を抱えて震えながら笑っている。前田は「松野、相当ツボに入っているな」と思いながら、話ができない赤城に声をかける。


「そのペン、他とどう違うんですか?」

「……いいのか、聞いたらもうお前たちは戻れなくなるぞ……?」


 真剣にファンシーなペンを持って話している赤城の声を聴いて、松野はまだ笑いが止まらない。震えながら笑っている。


「はははははは、どう戻れなくなるのか……あはははははは…………ははは、ちょっと……待って……苦し………はははははは……言ってくれないか」


 松野は息を切らし笑いながら言う。赤城はイライラしながらも説明を続けた。


「これで身体に文字を書くと、その書かれた文字に付随する感情や、概念が本人から消える恐ろしいペンなんじゃ!」


 笑い転げていた松野は、急に真顔になり赤城の顔を見つめた。

 赤城も突然真顔になった松野に恐怖感すら覚え、凝視する。


「…………なぁ、あんた。ヤバいヤクでもやっているなら辞めた方がいい。脳委縮するし、やっているヤクの種類によっては――――」


 真面目に赤城をさとし始める松野が、赤城を更にイラつかせた。


「馬鹿にしやがって……国家機密事項だぞ!!」


 まるで子供が意地を張るときのように、ムキになって声を荒げる。


「そんなふざけたペンがそんなもんである訳ねぇだろ! この科学が発展したご時世にそんな非現実的なことがあるか!」


 科学を信じている松野は、そんなもの信じられようもなかった。


「じゃあ、俺の腕にそれで何か書いてみろよ。それで本当にあんたの言う通りになったら信じるわ。嘘だったら精神病院にあんたを連れていくからな」


 前田は、松野の発言に「そこはまず普通の病院に行くべきだろう」と冷静に心の中でツッコミを入れていた。


「そもそも、てめぇらはなんて書いてあるんじゃ…………」


 赤城が胸のポケットから、これまたダサい3D眼鏡のようなサングラスのようなものを取り出した。

 松野はもう、精神疾患者を見る目で見つめているので笑う事はない。そしてそれを赤城がつけると、ますます滑稽こっけいな姿となる。

 松野がもう笑わないのを見て、前田は松野が赤城をどう思っているのか悟る。完全に松野は真剣に精神疾患患者を見る目で見ているのを、前田も笑うことなく見つめていた。

 異様な光景だ。

 厳つい刺青の負傷している組長が、ファンシーなペンを持ち、ふざけた眼鏡をかけている。それを真顔で見つめる2人。

 2人を見た赤城が驚いた声を出した。


「なんだと……お前ら……『無印むじるし』か!?」


 ますます異様な光景だ。異様な光景というのは、生きていれば何度もみる機会があるかもしれないが、これはもう、まるで絵画だ。シュールレアリスム。

 松野の頭の中はシュールレアリスムの定義や成り立ちが説明されていた。シュールレアリスムは、思想的にはフロイトの精神分析の強い影響下に、視覚的にはジョルジョ・デ・キリコの形而上絵画作品の影響下にあり、個人の意識よりも、無意識や集団の意識、夢、偶然などを重視し――――


「なんてこった……無印事件の遺児がこんなところに……」

「……?」


 2人は怪訝そうな顔をして、見合わせた。アイコンタクトを計る。


「(おいさち子、こいつをさっさと精神病院に連れていこうぜ)」

「(解っているよ、松野。焼肉が食べたいんだね。帰りは焼き肉屋に行こう)」


 お互い、全く意思の疎通が謀れていないのにも関わらず、顔を見合わせて頷く。


「さっき、何か腕に書けって言っていたよな? 腕を出せ」

「いいけど……あんた、本当に……まぁ、いいけど……」


 松野は「病院行けよ」と言う言葉を飲み込み、右腕を赤城に向かって差し出した。赤城は何を書くか決まっていた。


「てめぇは人のことを信じなさ過ぎる。疑う心をなくした方が良いな」


 赤城はリンゴのペンのキャップを外し、松野の右腕に『猜疑心さいぎしん』と書こうとする。しかし、赤城は『猜疑心』の漢字が解らなかった。

 仕方がないので赤城はひらがなで『さいぎしん』と松野の右腕に、達筆な文字で書きこんだ。

 白い肌に目立つはっきりとした黒い文字。それを無言で見つめる松野。

 文字と赤城の顔を交互に見つめる。明らかに「なんで平仮名なんだよ」という顔をしている。


「これでてめぇは疑う心を失った」


 前田と松野はアイコンタクトをする。


「(いよいよやべぇぜさち子、さっさとずらかるか?)」

「(分かってるよ松野。焼肉だったらタン塩が好きなんだよね。あとピートロ)」


 相変わらず2人のアイコンタクトはまったく意味を成さなかった。



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