短編その五
「あ、あすかべ!」
「はーい。どうしましたの?」
真新しい平城の宮のすぐ隣。時の大臣の大きな屋敷の隅っこで二人の子供が隣同士仲良く庭に座りながら話し込んでいた。いや、話し込むと言うよりかは、何やら神妙な面持ちで少年の方が娘に語りかけていた。
「あ、安宿は……その、す、すす……」
「す?」
「す、すき…な、人………とか……いるの?」
「えっ!?」
娘は目をぱちくりさせて二、三度瞬きすると、頬に手を当て眉間に皺を寄せる。
「好きな人………。父様や母様とかでは無く?」
「ち、ちがう!……その、うーん。君の……、三千代にとっての、不比等………みたいな人……?」
「あー。んんー………」
娘はまた考えこんだが、少ししてひとつ笑みを漏らすと少年にこう返した。
「ふふ、居ますわよ?」
「ええっ…!?」
少年はその返答に大変驚いたようで、身体を動かさぬように努めていてもその瞳は左右上下に忙しなく動いていた。
「どうしてそんな顔をされるの?」
「だ、だって!」
少年の狼狽えように娘はおかしくなって、笑いを堪える為に口をすぼめる。そんな娘を見て、少年はムスッと顔を強ばらせながらも、その眦は緩んでいた。
「じゃあじゃあ、皇子様はいらっしゃいますの?私の父上にとっての、母上みたいなお方」
今度は娘が少年に訊ねる。少年は顔にぽっと朱を咲かせると、そっと絞り出すように呟く。
「…………い、い…る……よ?」
「……あらっ!」
少女はその言葉を聞いて目を輝かせた。
「君も変な顔になってるじゃないか」
「気になります!誰ですの?」
「いいいい言わないよ!」
「じゃあいつになったら教えて下さいますの?」
「ぼ、僕が………相応しくなったら」
「相応しく?」
「うん。相応しくなったら」
そこまで言って、少年は口を噤んだ。
「安宿媛」
「はい、なんでしょう?」
時は流れ、あの時の二人の子供は大きく成長を遂げていた。昔は同じ屋敷で育った二人も、今は別々の場所で暮らしている。まぁ、そう言ってもお隣同士。こうして今でも顔を合わせる事もしばしばあった。毎日では無くなってしまったが。
「………昔、ここで話をしたっけか」
「何をです?」
「好きな人」
「………あっ!」
「よかった、覚えてた?」
青年は安心したように笑う。娘はちょっぴり照れたように目を細めて青年に笑みを返す。
「うっすら……。でもどうして今、そんな、恥ずかしい思い出話を?」
「うーん」
青年は娘の隣に立って空をゆっくり見上げた。爽やかな顔をしている裏で、その手のひらにはじんわりと汗が。娘は青年の顔を何を言い出すのやらと眺める。
「僕が相応しくなったから、かな」
「相応しく?」
娘が繰り返すと、青年はハッとして娘の瞳を見つめて言い直す。
「いや、正確には、相応しくなりつつ…ある…?だけど」
そう言って娘の前に跪き、彼女が焦ってそれを止めさせようとするのも制止して、彼女の手を取り、下からその瞳を見つめた。
「安宿媛」
「はい」
「僕の好きな人は、年月が流れる程に思いが溢れる人は、君だ」
青年はひとつ深呼吸をし、射抜くような目で、汗ばみ少し震えた手で、娘を眼前に捕えながら思いを絞り出した。
「どうか、僕の妻になって欲しい。唯一無二の妻に。僕は、待ってる」
「皇太子様……」
娘は青年の言葉に、狼狽えることも、たじろぐ事もせず、ただただその眼に雫を溜め、それを落とさぬように微笑んだ。
「ねぇ、ちなみになんだけどさ、すっごく怖いんだけどさ、君の好きな人って………」
青年は娘のそんな表情を見て途端に不安になったのか、先程までの威勢は何処へやら、急に目を泳がせ娘の手を握った。娘はそんな青年の姿にどこか安堵した表情になってこう返した。
「こう答えたら、正解になるかしら」
「えっ?」
「私、今も昔も変わらず一人を思い続けておりますの」
娘は青年の隣に屈み、目線を同じ高さにしてその瞳の奥を覗く。だが何故か青年は更に自信を失ったように顔を白くして視線を落とす。
「そ、そうなの……」
「真面目で良い子なんですけれど、ほんっと心配で、世話が焼けて、可愛くて、優しい」
「………」
「だから私、その方の妻になります」
「えっ?」
「あら。私、今しがた求婚されましたのよ?その御方に」
「えっえっ?も、もしかして、ぼ、僕より先客が………」
「もーーーーう!今、何時だと思っていらっしゃいますの?朝ですのよ?ほんと仕方がないんだから」
予想もしえなかったであろう負の方向へ妄想を膨らませる悪い青年に、娘は灸を据えるようにその両頬を両手で捕まえてこう言い聞かせた。
「私が、貴方様の、唯一無二の妻に、なります」
「ひめ…っ…!」
途端に青年は泣き出して娘に飛びついた。かと思うと直ぐに顔を離して娘の表情を伺うように訊ねる。
「あっ……あっ………じゃ、じゃあ…、ず、ずっと」
「はい」
「安宿っ!」
今度こそ青年は娘を強く抱擁し、何度も何度も顔をその肩に擦り付けた。娘はやっと己の言いたいことが伝わったと安堵し青年の背をとんとんと叩いて優しくあやす。
「はいはい。もう、私に相応しくなる〜だなんて思わなくても、良いのに」
「えっ」
「あら?そういう意味なのでしょう?」
「う、うーんどうかな〜」
「どちらかと言うと私の方が、皇太子様に相応しい女にならなくちゃ」
「君はこれ以上なく素晴らしい人だよ」
「それ、誰彼構わず言ってませんわよね」
「言ってないよ!君だけ!君だからだよ!」
「んんかわいい」
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