短編その三

「ほら、見てご覧。外はもうすっかり春だよ」

 そう言って彼は手の中の花弁をパッと空へ放った。ハラハラと舞い散る淡いその色が彼女の目に微かに映る。

「そう……ですか。なんの御用です?」

「君に逢いたかったから逢いに来た。それだけだよ?」

「また、無用な事を……」

 彼女は気だるげに返事をするとつまらなさそうに目線を下げた。そんな彼女に、ははは…と困ったような笑みで返した彼は彼女の向かいに立て膝をして彼女の手を取る。

「もう、そんな事を言わないで。………体調は変わりないかい?」

「……はい」

「うんうん。良かった」

 彼は満足そうに頷くと、相変わらず表情の変わらない彼女に戸惑いながらもやんわりと問いかけた。

「ねぇ、そろそろ……さ、会ってみないかい?」

「誰に…です?」

「君の子にだよ」

 彼女は眉を顰めた。その話はもう良い。と言わんばかりに彼の手をそっと払った。されども彼はお構い無しに彼女へ語りかける。

「可愛いよ〜?そりゃもうほんと可愛い。小さくて、暖かくて、もちもちしてて、ふわふわしてて、可愛い。最近じゃもう良く喋るようになってね。母上も姉上も猫可愛がりしてるし、いや〜分かるわ〜って……」

 幸せそうな彼の顔には嘘も偽りも一切無く、ただありのままに語られている。少なくともそう彼女は思った。されど彼女の顔が晴れることは無く、むしろより悲愴的になって行くばかり。そんな彼女を横目に見て、彼の語りは段々と弱々しくなって行った。

「………やっぱり、嫌?」

 彼の問いかけに彼女は一度頷く。

「そうかぁ……。でももうあの子、三つだよ?もうそろそろ、ほら、色々分かってくる頃だろう?だから一度でも良いから、会ってみない?」

 彼女は二度首を横に振る。彼は肩を落とすと寂しそうに笑いながら彼女の横に並んで座った。そんな彼の横顔を見て、彼女は何を思ったのか、それとも気が変わったのか、声をゆっくり吐き出した。

「私は………」

「うん」

「私は、怖いのです。あの子が………」

 息が詰まる。上手く言葉に出来ない。眉を眉間に寄せ、床をじっと見つめる彼女の手を彼は優しくさすった。彼女は彼に目を合わせ、また俯く。

「あの子が道具のように扱われるのでは……と」

 触れていた彼の手に力が籠るのを感じる。隣にある表情が今どんなであるか、恐ろしくて見られない。されど彼女はそのままに続けた。

「私は怖い。父も兄も、弟も怖い。産んでおきながら、きっと何も守れぬ私が、怖い。だから、会えぬのです」

 重たい静寂が流れる。彼も彼女も互いに目を合わせず、ひんやりとした春風がゆっくり通っていく。彼女の気持ちが分からない彼では無かった。彼の心を知らぬ彼女では無かった。だからこそ、彼は言葉を選び、そして紡いだ。

「……大丈夫。きっとそうはならないよ。僕だって居るじゃない。それにそういうのは……ほら、僕の方だろう     ?きっとあの子にそんな思いはさせないよ」

 彼は彼女のその手を一番強く握って言った。観念したように彼女は苦笑いをして、また俯く。

「じゃあ、あと少し、あと少しだけ、待ってみる?」

「あの子が大きくなって、貴方様が連れてきて下さったのなら、その時は」

「うん。分かった。約束だよ?」

 彼女が頷くのを見て、彼は笑顔を浮かべて彼女の背を撫でた。

「その時は、桜と一緒に……」



 されど、その日が本当に訪れるまでには、長い長い冬の果てを待たねばならなかった。

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