短編その二

「………は…は…うえ」

 口から零れるように小さく漏れたその言葉は確かに言葉の形をしていただろうか。立ち竦み、そこから一歩も動かない彼の人はじっと目の前の老女を見つめている。穴があきそうなほど見つめられた老女は介添えしてきた僧の手を払うとそのまま口元へ運び、訝しげに顔を袖で隠して見つめ返す。

「大御祖様………姉上。かの御方は貴方様の産みし御子。大君にございます」

 静寂に耐えかねてか、彼の人の隣に控えていた妻が口火を切った。姉と呼ばれ怪訝な顔をした老女は何やら考え込むように外へ目を移す。彼の人は不安げに目を伏せ妻へ視線を送るが、妻は微笑み頷き返すだけだった。彼の人が妻から老女へ再び視線を移すと、同じように老女もまた彼の人へ視線を戻していた。今度は顔も隠さず真っ直ぐ向けている。どこか恐ろしいような心地がして脚が震える。されど繋がった瞳を振り払う事も出来ない。老女はそんな彼の人を見透かすように目を細める。

「おびと」

そして老女はハッキリとそう言った。


 その場にいた誰もが息を飲んだ音がした。彼の人はその音を聞いて目を見開き、一歩、また一歩と老女に近づいて、そして崩れた。へたりと座り込んだ彼の人に老女もゆっくりと近付き、かの人を見下ろす。

「……おびと」

「…はい」

 老女は右手でそっと確かめるようにかの人の頬を撫でうっすらとはにかんだ。彼の人の左手が触れ返そうと頬に近付く。されどその手は空中で静止し、それ以上は何もしなかった。させなかった。出来なかった。老女はまた冷たい顔に光の無い瞳でその手を下ろし彼の人から離れ、そのまま奥へと一人で去って行った。付き添ってきた僧は急いで老女を追い、その足音が消えると重たい静寂の耳鳴りが二人の耳に響いた。


 ずっと彼の人の傍で邂逅を見守っていた妻が近付きその顔をそっと覗き込む。不安そうな、苦しそうな表情を浮かべて彼の人の背にそっと触れる。何も無い床の上を虚ろな目で眺めていた彼の人はふと顔を上げ、困ったように眉を震わせながら妻に微笑んだ。力無く垂れていた右腕を重そうに上げて、彼女に向けた右手の指先を二度小さく折り曲げ合図する。妻は大きく頷くと彼の人を向かい側から強く強く抱き締めた。その背を、髪を、何度も何度も優しく擦った。そうしてやっと、彼の人は涙を流せた。そうしてやっと、彼は欲しかった温もりが手に入らない事を、欲しかった温もりは既に手にしていた事を、知った。

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