第20話

「神野くん」

 

 無愛想な顔をしている若い女性の数学教師に名を呼ばれた俺は、1時間目が始まってもまだ消えてくれそうにない眠気を抱えたまま椅子を鳴らして立ち上がり、教師が待つ教卓へと向かっていく。


 二つ折りにされ中身が見えなくなっている答案用紙を教師から受け取り席に戻る。そして机の上でその用紙をゆっくりと開いた。受け取った用紙には赤いペンで「3」と書かれていた。その数字を見て俺は脳に電撃が走り、悪夢から目覚めたかのような感覚が走る。


 ちょっと待て。なんだこの状況は。


 いや3点はいくら何でも低すぎると思うのだが、問題はそれじゃない。なぜ俺は今こんな場所にいて、試験の答案なんてものを受け取っているんだ?


「平均点は68点でした」


 教師が他の生徒にも答案を返し終えるとそう言ったが一旦待ってくれ。俺は立ち上がり、廊下へと繋がるドアへと走る。


「え!? 神野くん!?」

「急にどうしたんだろう」

「トイレじゃない?」

「そういやあいつ、誰だっけ?」

「誰ってそりゃ……あれ?」

「いたっけあんなの……?」


 俺は動揺する教師と生徒を無視してドアを開け、全く見覚えのないリノリウムの廊下を走りながら考える。自分の服装を確認すると、ワイシャツ、ブレザー、スラックス、そして赤いネクタイ。自分でも一体どうしてこんな格好をしているのかがわからない。


 今の状況は何だ? 俺は昨日先輩と一緒にホテルで寝てたはずだ。それなのにどうして全く知らない場所に、しかも学校にいるんだ? そもそも俺は今学校に行っていないし意味がわからない。それより先輩はどこだ。とにかく今はそれを優先しよう。俺は先輩を見つけようと手当たり次第に廊下から教室の中を覗いていった。しかし俺が学生ということなら6歳年上である先輩は留年でもしてなければとっくに卒業しているはずであり、やはりと言うべきか先輩らしき姿はどの教室にも一切見当たらなかった。見えたのは、教室の中にある知らない顔が俺を怪訝な目で見つめている光景だけであり、それを目の当たりにして焦りだけが募っていく。


「めいあ先輩! いたら返事――ッ!?」


 堪らず大声で先輩の名前を呼んだ瞬間、頭に金槌で打たれたかのような強い衝撃を感じ、視界が黒く染まった。


 *


「ん……?」


 頭と体に強い痛みを感じながら目を覚ます。頭からは生温い感触がし、体は紐のようなもので固く縛られているようだった。ここはどこだ。


 咄嗟に周りを見回してみたが、照明や窓の類が一切見つからず、暗闇に包まれて一体どこなのかも何もわからなかった。それに埃っぽく、しばらく咳が止まらくなった。


 一体何があったか考えてみたが、やっぱりホテルで先輩と過ごしたあたりからの記憶が無く、なぜこのような状況になっているか全くわからなかった。


「ここがどこかわからない。なぜこんな状況になっているのか。そう思っているんだろう」


 突如、暗闇の中から聞いた無い、よく耳に通る低めの女性の声が耳に入った。


「貴様が知る必要は無い」

「どういう――」

「黙れ」

「がはあ!」


 混乱する頭の中、必死に口を開いた途端、金属で殴られたような強い痛みが全身を走った。口の中に金属のような味が染みわたる。堪らず溜まった液体を床に吐くと、かすかに花のように散った赤色が見えた。花……?


「貴様のせいで、彼女は苦しんでいるんだ」

「が、は……」

「彼女を選ばなかった、お前のせいで」

「一体、何、を……」

「何も知らない。何もできない。する気もない。そんな貴様が我は嫌いだ」


 何を言っているんだ。こいつは何者なんだ。確かめようとしたが、暗闇のせいで姿も何もわからなかった。それどころかなぜ自分は殴られているのか、何もかもが理解できない。


「死ね」


 姿が見えない声の持ち主のそんな声と同時に強い痛みが何度も何度も襲う。理不尽な痛みの中で、意識が薄れていくのを感じる。


 ここで訳もわからないまま死ぬのか俺は?


『ねぇナポリ、ハンバーグ作ってみたけどどうかな……?』

『この漫画面白いから、ナポリも読んでみて!』

『ずっと寝てちゃダメだよ』

『どうせあたしは落ちこぼれだけど……でもそうじゃかったらナポリと会うこともなかったからこれはこれで――』


 脳裏に記憶が蘇る。優しくて、可愛くて、守らなきゃならないと強く想う、大切な人の顔が、声が、温もりが、俺に力を与えてくれた。


 死ねない。


 あの人を守り抜くまでは、死ぬわけにはいかない。俺は更に高まっていく頭痛に耐えながら、口をこう動かす。


天体作りアストロメイク


 無から生まれた有であり、数多の有を生み出した絶対なる生みの親。それが天体。俺はその天体の中でも、自らを燃やし惑星に生命を与える悠久の星――恒星の誕生を願った。


「な、なんだこれは!? 貴様何をやった!?」


 聞こえる声は、明らかに動揺していた。俺はそれを聞いて微笑し、燃える球体を頭上に浮かべた。電球なんかよりもずっと燦々と周囲を照らすその星は、今の状況を鮮明に教えてくれた。ここは体育用具が置かれた倉庫、俺はパイプ椅子に太い蔓のようなもので縛り付けられている。正面にいるのは赤い色の着物の女――これで俺は確信した。


風刃刹ふうじんせつ!」


 空気を引き裂く超速の旋風は、俺を縛る蔓を瞬時に切断した。そして俺は立ち上がり、女へと近づいていく。


「お前が、椿の魔怪か」

「な、なんなんだお前は!? お前は人間なのか!? それとも――」

「電雷衝!」


 奴の腹に、電撃を込めた強烈な右拳を食らわせる。奴は反応もできずに奥に置かれていた跳び箱に全身を打ち付けた。跳び箱が激しい音を立ててバラバラに崩れ、奴の背部を痛打する。


「ああああああああっ!」


 奴は起き上がると這いずりながら必死に叫び声を上げながら扉を開け、俺を残して倉庫から逃げ出していった。後を追いかけたかったのはやまやまだったが、全身に走る痛みがそれを許してくれなかった。でも、これではっきりと理解できた。深呼吸をし、痛みが引いていくのを感じながら俺は自答する。


「古椿の霊――椿の魔怪の仕業か……」


 頭上を煌々と照らす恒星を消すと、俺も倉庫を後にした。するとそこには広々とした体育館が広がっており、体操服姿の生徒がそこかしこで球技をしていた。


「ボール来たよ!」

「へぶごっ!?」


 倉庫近くのスペースでは、女子生徒がバレーボールをやっていた。そしてアタックをレシーブできずにボールの衝撃に負けた生徒が俺の足元に転がってきた。一体誰だと顔を覗くと、驚愕した。いやまさか。でもこれは。


「先輩!?」

「ふぇ?」


 その生徒の顔は、紛れもなくめいあ先輩の顔をしていた。顔だけじゃない。とても年上には見えない体も、透き通るような声も、全部が先輩だった。


「どうして呑気にバレーやってるんですか! つーか留年してんのかよ!?」

「だ、だって授業中だし……あの……誰ですか……知り合いじゃない、ですよね……それなのに……どうして……」

「どう考えても知り合いだろうが馬鹿!」


 先輩が俺を見て誰だと言ったのを聞いて、俺はたまらず先輩の手を握った。全く、魔怪に操られてるとはいえ今更知り合いじゃないとか言うんじゃねえよ。


「ひゃあ!? ……え?」


 すると先輩は悲鳴を上げた後、目をぱちぱちさせて俺を再度見た。


「な、ナポリ!? ていうかこれどういう状況!? あたし何も覚えてないんだけど!」

「ああ戻った……良かったです」

「良くないよ! なんであたし体操服着てんの!?」


 先輩がいつものように慌てふためいているのを見て一安心した。これで戻らなかったらどうしようかと思った。


「椿の魔怪の仕業です。先程交戦しましたが逃して――」


 俺がそこまで言ってから、体育館の出入り口に向かって走る着物の女が目に映った。着物だから動きは鈍いか。好都合だ。


「あいつです! 行きますよ先輩!」

「う、うん!」

「え、ちょっと! どこ行くの!?」

「まだ試合中だよ!?」

「ご、ごめん!」


 先輩は周囲が呼び止める声に戸惑い律儀に謝りながらも、試合を放棄した。


「待てっ!」

「な、なぜだ!?」


 俺と先輩は、出入り口前まで辿り着いていた赤い着物の女の元へと走り出す。


 着物の女は、不気味な色をした目を大きく見開き立ち止まっていた。

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