第23話 記憶の残り香

 誕生日当日。ジュリアが今日を含め二日間の休日申請をすると、あっさり認められた。

 その日は着替えをバックに詰め、彼の元へ向かった。


 ギルフォードに、誕生日は別荘で過ごすと言われたのだ。

 別荘なんてはじめてと言ったら、ギルフォードに眉をしかめられた。

 仕方がない。仕方がない。ゼリス家には訓練施設というものはあっても、別荘なんて洒落たものはないのだから。


 今日も軍服で出ようとしたが、セバスに止められ、ドレスを着ることになった。

 鮮やかな紫色の、大人びたドレス。

 これもこの屋敷にある、なぜかジュリアにぴったりサイズのドレスだ。

 ただこの間のベヒモス騒動の時の反省を活かし、ドレスでも剣はしっかり持参することにした。


 魔導士との旅はテレポートで済んでしまうのは便利な一方、少し味気ない気もしたが、休みを取っているとはいえ、いつ何時、緊急の呼び出しがあるかも分からないジュリアたちの立場を考えるとテレポートでの移動はやむをえない。


「用意はできたか?」

「ばっちり」

「……そのドレス」

「あ、うん。セバスが……。今度は破らないように気を付けるから」

「別に破っても構わない」

「私が構うのよ」

「……行くぞ」


 ギルフォードが手を差し出してくる。捕まれという意味だろうが、この間のことを思い出してジュリアの鼓動は不自然なほどに高鳴ってしまう。


「何をしてる。早く掴まれ」

「う、うん」


 ギルの手を握る。そこから伝わる温もりに、唾を飲み込んでしまう。


 ――ギルは魅了魔法のせいだと思って割り切れるんだろうけど……!


 クリシィール家の別荘は、山の中腹にひっそりとたたずんでいる。

 事前に管理人に命じていたのだろう。部屋は綺麗に整えられ、食糧や水などの必要な物資もしっかり揃っている。


「気持ちいい……!」


 ジュリアは山の新鮮な空気を胸いっぱいに吸いこみ、子どものようにはしゃいでしまう。

 街中とは空気の綺麗さが違う。

 深呼吸しているだけでリラックス効果があるようで、落ち着く。


 バルコニーからの見晴らしも最高で、眩しい新緑に、鳥の囀りも耳に馴染む。

 このあたりに民家もないせいで、本当に静かだ。

 それに、肌がひりつくような夏の日射しも、ここでは控え目で、暑気とも無縁。

 涼しげで柔らかな風が、肌に心地いい。


「このあたりは何があるの?」

「少し歩くと湖がある」

「あとで行ってみない?」


 ジュリアは目をキラキラさせながらはしゃがずにはいられなかった。


「……そうだな」


 ギルフォードは来慣れているということもあるのだろうが、いつも通り。

 日が少し傾きはじめた頃、ギルフォードと一緒に湖を目指して歩く。

 この時間帯が一番、湖が美しく見えるらしい。


 道はしっかり整備されているから歩きにくいということもない。

 もちろん山中の強行軍は訓練で何度も経験しているから、道なき道を進むのは何の苦もないけれど。

 ただ歩いているだけなのに楽しい。


「見てよ、ギル。鹿がいる」

「……そうだな」

「もー。テンション低くない? そりゃ見馴れてるんだろうけど」

「そりゃ」

「静かに」


 ジュリアは木の根っこでこちらをじっと見つめるリスを指さす。リスは木の実を抱えながら、黒目がちな目でじっとジュリアたちのことを見つめる。

 これなら触らせてくれるのかなと手を伸ばしてみるが、指が届く寸前に、リスに逃げられてしまう。


「あぁ、惜しかった。じゃ、行こっ」

 木々の向こうに見える雪をかぶった雄大な山々を目の当たりにすると同時に、ジュリアは既視感を覚えて立ち止まった。


 ――あ、れ?


 何か頭の奥で何かが引っかかる。しかしあともう少しでそれが何なのか分かりそうなのに、その感覚は呆気なく手をすり抜けていく。

 不思議そうに振り返るギルフォードに「ごめん、ちょっとぼーっとしちゃった」と笑って歩き出す。

 木々がなくなり、視界が広がって、湖が見えた。


 東の空が夕日で真っ赤にそまっている。

 空の色が湖面に反射して、辺り一面が真っ赤に染まる。

 まるで燃えているみたいに。


「すごい……」

「運が良かったな。天気が良くないとここまで綺麗に染まらない」


 ギルフォードの声には、かすかに昂奮が滲む。


 ――ギルも楽しんでくれているのかな。


 もしそうだったら嬉しい。今日の主役はギルフォードだ。

 彼がつまらないのなら意味がない。湖面が風に揺れると、キラキラと赤いきらめきが乱反射しながら微妙に色を変え、グラデーションを帯びる。


 その刹那、ジュリアの頭に、既視感のような曖昧なものではなく、はっきりとした光景が浮かんだ。

 二人の子どもが湖のほとりで一緒においかけっこをしている。

 男の子がおいかけ、女の子が逃げる。

 女の子はあっさり男の子に捕まる。

 二人は何が面白いのか、無邪気に笑いながら、ハァハァと息を切らせていた。


『捕まえら!』

『も~、また捕まっちゃった~。ギル、足はやすぎだよぉ。魔法つかった?』


 少女は、幼いジュリア。


『使ってないよ』


 そう言って微笑むのは、幼いギルフォード。


「ジュリア?」


 肩を掴まれ、はっと我に返った。


「お前、さっきから大丈夫か?」

「ギル。私たち、ここに来たことある……?」


 ギルフォードは目を見開く。


「……お前、本当に覚えてなかったのか?」

「やっぱりあるんだ」


 いつか公園で見た既視感。茜色に染まった池。

 きっとこの湖のことを思い出しかけたのだろう。


「他には……」

「他?」

「いや……。ここでの何を思いだしたんだ?」

「私たち、おいかけっこをしてた?」

「お前が足が速いのを自慢したから、どっちが早いかを決めようっていうことになったんだ。そしたらお前が、おいかけっこにしようって言い出した」


 どうしてそんな大切な思い出を忘れていたのだろう。昔のことだから覚えてないのはおかしくはないけど、でも子どもの頃の記憶だって覚えているものもある。


「私、この別荘に遊びに来たことがあったんだね。どうしてこんな大切な思い出を忘れちゃってたんだろ」


 思い出した時、胸に灯火がともったような温かさを感じた。大切な思い出だ。

 なにより、山荘に出かけた素敵な思い出を忘れるのはおかしい。胸が締め付けられてしまう。

 ギルフォードと子どもの頃のように話したいと思っていたくせに、彼との大切な想い出を忘れていたなんて恥ずかしい。もしかしたらギルフォードと疎遠になったのも、ジュリアが大切な思い出を忘れてしまったからだろうか。


「他にも何か思い出せることもあるだろう。時間ならある」

「ギル……。そうだね」


 今は彼の優しい声が、すごく嬉しい。

 日が西の山脈の向こうに消えると、風が出てきた。

 昼間はこの涼しさが心地良かったが、夜はまるで真冬のように冷える。

 山荘に戻ると、ギルフォードに呼ばれた。


「これは覚えてるか?」


 柱には、切れ込みが何本か入っていた。


「背を測ったの?」

「俺たちで」

「私たちで……」

「右が俺で、左がジュリアだ」


 しゃがんだジュリアは背比べの痕跡に触れる。たしかに、右側には『G』、左には『J』と少し不格好な文字が彫られていた。


「……ごめん。思い出せない」

「そうか。仕方ないな」


 ギルフォードは目を伏せたが、すぐに気分を取り直して「メシにしよう」と言う。


「手伝うよ」

「俺が誘ったんだ。お前は座ってろ」

「でも今日はギルの誕生日なんだから」


 どちらも譲らないので折衷案として、二人で作ることにした。

 ギルフォードが肉を焼き、ジュリアが野菜スープを作る。作る、と言っても野菜をざく切りにして鍋に放り込んで、味付けをすれば完成。

 完成した料理を食べていると、ギルフォードは口を開く。


「子どもの頃、頭を打ったり、事故に遭ったりはしたりはなかったか? お前のあのオヤジからとんでもないスパルタ指導を受けてただろ」

「私もそれを考えてたんだけど思い当たることは……」

「なくなっている記憶はここでのことだけなのか? 他の記憶は?」

「もちろん子どものことだから何もかも覚えてるってわけじゃないから、忘れてることもたくさんあると思う。でもこんな素敵な場所に来た記憶をなくすなんて」

「ジュリア、頭に触っていいか」

「い、いいけど」


 ジュリアが頭を下げると、ギルフォードは優しく頭に触れた。彼の手から熱が伝わるが、すぐに手を離す。


「……魔法で記憶を操作してるわけじゃないのか」

「魔法の力で記憶を呼び起こすことはできない?」

「やってやれないことはないが、失敗する確率が高い。無理矢理記憶を思い出させると負荷が大きすぎて、人体がそれに耐えられない場合もあって、記憶が吹き飛ぶこともある」

「そっか……」


 重たくなりかけた空気に、ジュリアは声をあげた。


「ギル、誕生日おめでとう」

「なんだよ、いきなり」

「誕生日を祝うためにここにきたんだから。これ、プレゼント」


 ジュリアは青い石の嵌まった耳飾りを渡す。


「あの耳飾りの代わりにはとてもなれないけど、見よう見まねで作ってみたの。不格好なのは許して欲しいんだけど……。本当は既製品がいいかもと思ったんだけど、似たようなデザインがなかったから」


 ギルフォードは、耳飾りを手にする。


「気に入らなかったら捨てちゃっても」

「そんなことするわけないだろ」


 静かなのに、意思のこもった声。


「そんなわけないだろ。あれは元々、お前からもらったものだ。ここに、遊びに来た時に、お前が似合うと言って……」


 ギルフォードはうっすらと頬を染めながら、右耳に耳飾りをつけた。


「……そうだったんだ」


 どうしてそんな大切な記憶を思い出せないのだろう。他のどうでもいい記憶は覚えてるのに、山荘に来た時の記憶が丸々ぽっかりなくなっているなんて。

 さっきのギルフォードが魔法による操作を疑ったが、作為を感じる。

 もっと思い出さなければいけない大切な記憶があるのかもしれないのに。


「ギル。私たち、ここで何か大切な約束を、したことはある?」


 今のギルの反応を見ると、彼にとってもここでの思い出はとても大切で、かけがえのないものだと分かる。

 ギルフォードは目を伏せる。そこに浮かんだ表情は寂しさ。


「気にするな。俺のためでなく、自分のために思い出せ。焦れば、思い出せることも思い出せなくなるかもしれない。さっきの湖だって不意に記憶が蘇ったんだろう。だったらそれを待て」

「……ギルはそれで構わないの? なにも思い出せないもしれないのに……」

「お前が……意図せず、覚えていないと分かっただけで十分だ」

「それってどういう……」

「少し休む。自由に過ごせ」


 ギルフォードは部屋へ入っていく。


 ――今の言葉、どういうこと?


 まるでこれまではそうではなかったと思っていたのだろうか。だとしたらやっぱり、ギルフォードにとって大切な約束をここでしたということだろう。


 ――違う。ギルフォードにとってだけじゃない。きっとそれは私にとっても大切な……。


 まったく思い出せなかったが、そんな気がした。

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