第10話 胸の高鳴り
「セバスが心配していたから、お前を探しに来た」
パメラとの食事会が嬉しすぎて舞い上がっていたせいで、外食することを伝えるのをうっかり忘れてしまっていた。
「わざわざ手間をかけさせてごめん。もう帰るから、先に帰って」
「お前を探しに来たと言ったはずだ。俺が先に帰っても意味がないだろう」
「今は歩きたい気分だから。大丈夫。ここからだったら十分くらいで到着するし」
ギルフォードは小さく息を吐いたかと思うと、歩き出すジュリアの後を追いかけてくる。
「ギル? 何してるの?」
「付き合う。何かあっても困るからな」
「私が男に襲われるとでも?」
「セバスにお前を連れて帰ると約束したからな」
「分かった」
ギルフォードの融通のきかなさがおかしくって笑ってしまう。
ただ魅了の魔法のことを考えると視界に入らないほうがいいだろうと、ギルフォードの後ろをついていく。
パメラとの会話があったせいか、少し気にしてしまう。
「なんだ。言いたいことがあるならはっきり言え」
ギルフォードは背中を向けたまま言ってくる。
「別になんでも」
「さっきからじっと見てるだろ」
「それじゃ、一つだけ聞いてもいい?」
「本当にどうでもいい内容だったら、答えない」
「ギルは結婚しないの」
溜息をつかれた。
「本当にくだらない質問……」
不意にギルバードは不自然に黙る。
明らかに異変に、ジュリアは慌てて前に回り込んだ。
ギルフォードはかすかに脂汗を額に滲ませ、口元を抑えている。
「まさか魅了魔法のせい!?」
「問題、ない」
「とてもそうには見えないけどっ。ね、どうしたらいい?」
「どうもしなくていい。とにかく、お前は後ろに下がっていろ。視界に入るなっ」
ギロリ、と射竦めるような視線で睨まれてしまう。
魔法の素養のないジュリアにできることはない。ただ心配しながら、ギルフォードの後ろに戻るしかなかった。
ギルフォードの屋敷に帰り着く。
「おかえりなさいませ、お坊ちゃま。ジュリア様」
「ああ」
ギルフォードは早足で二階へ消えていく。
「お坊ちゃま、いかがしましたかっ」
「セバス、大丈夫。ただ魅了魔法の効果が強く出てるみたいだからそっとしといてあげて」
「そ、そうでしたか……」
「それから今日は連絡しなくてごめんなさい。明日からは気を付けるわ」
「いいえ。ジュリア様にもお付き合いというものがございますでしょうから。気は遣わずに結構でございます。それにお坊ちゃまにお願いしたというより、私が今ごろ、ジュリア様はどうされているのでしょうと呟いたのを、坊ちゃまに聞かれてしまったというだけで……」
「そ、そうだったのね。ギルも早とちりね」
「………………………左様でございますね」
「セバス、冷たい水を一杯用意してくれる? ギルに届けたいから」
「かしこまりました」
すぐに持ってきてくれた氷水の水差しとグラスを手に、二階へ上がっていく。
――行儀が悪いけど、誰も見ていないし。
ジュリアは足で扉を軽く蹴る。
「……なんだ」
「私だけど、水を持って来たわ」
「入っていい」
「いいの?」
「今ならな」
恐る恐る部屋に入る。
ギルフォードはソファーに寝そべり、右腕で両目を隠していた。
「平気?」
「もう、大丈夫だ。さっきより落ち着いてきた」
「良かった」
ローテーブルに氷水の水差しとグラスを置く。それからぐるっと部屋を見回す。
ここは書斎で、奥の扉が寝室に通じているのだろう。
作り付けの書棚には軍事に関するもの以外に文学や自然科学に関する蔵書がぎっしりと詰め込まれている。
ギルフォードの部屋は簡素というより、効率さや機能美を重視した結果のように思える。
「見て楽しい部屋じゃないだろ」
「あ、ごめんっ」
「別に構わない。見られて困るようなものはないからな」
「本当に平気? 無理は……」
「どうしてお前相手に強がらなきゃならない」
それはもっともである。
「もし辛いようだったら、いいよ」
「……何が」
「だ、だから……よ、欲求の解消……」
今朝の馬車での一件を思い出して耳が熱を帯びた。
「そんな顔を真っ赤にしながら言うことでもないだろ……無理するな」
「してない……わけじゃない」
嫌というより、自分のように色気のない人間しかいなくて申し訳ないという気持ちのほうが強い。もっと自分に女性らしい柔らかさやたおやかさのようなものがあれば、ギルフォードも魔法の効果を発散しやすいだろう。
「何の為に私がここにいると思ってるの。結局ギルが我慢した挙げ句、他の女性たちに手を出すようなことになったら私、後悔してもしきれないから。とんだ無能じゃない」
ギルフォードが腕を外す。じんわりと目元が紅潮し、満月のように美しい瞳が潤んでいる。
立ち上がると、あらためてその体格差を思い知らされる。別に臆したりはしないが、でも、そんな熱心に見つめられると思わず後退ってしまいそうになる。
嫌なのではなく、今のギルフォードに馴れていないせいだ。
ジュリアが仲良くしていたのは幼い頃の彼であって、成長した彼には嫌悪の視線を向けられたことはあっても、見つめられることなんてなかったから。
もう子どもではないことを強く意識してしまう。
「もちろん、キスは駄目、だけど」
ドクンドクン、と鼓動が早鐘を打つ。
こんなに緊張することなど人生でそうそうない。
なのに、ここ数日の間に心臓がまるで自分のものでないみたいに忙しなく高鳴る。
戦場でさえこんな取り乱したりはしないのに。
「……ど、どうぞ」
「声が震えているぞ」
目をぎゅっと閉じているせいで聴覚が敏感だ。ギルフォードの声は不思議と柔らかく聞こえた。緊張しすぎているジュリアを多少、気遣ってくれているのだろうか。それとももうすで魅了のスイッチが入っているのだろうか。
「……なんで笑うのよっ。それに緊張してるんだから、しょうがないでしょっ」
「緊張、か……」
その笑みは馬鹿にしたような笑いというよりも、自嘲に近いかもしれない。
「後ろを向け」
「なんで」
「……キスは駄目なんだろう。早くしろ」
――……するつもりだったんだ。
ジュリアは回れ右をした直後、背後から抱きしめられた。
「!」
逞しい腕が、ウエストに回され、ぎゅっと抱きしめられる。
背中に、彼の体の硬さや熱が押しつけられた。
並の男あいてではでかすぎると言われるジュリアがすっぽりと腕の中に収まってしまう。
「ジュリア」
「……ん」
彼の小刻みに震える息遣いが汗ばんだ首筋をかすめる。
耳まで熱い。このまま全身の血液が沸騰してしまいそうなくらい体が熱い。
ギルフォードからは絶えずいい香りがしていた。
まるで花だ。何の種類かは疎いジュリアには分からないが、とてもいい香りだ。
心にじんわり染み渡るというか、安心するというか。自分もその香りに包まれたいと思えてしまうような抗いがたい魅力があった。
口の中が緊張で乾く。
「も、もう、いいでしょ……」
「駄目だ。もっと……感じさせてくれ」
艶のある声のせいで、全身の鳥肌が立つ。
抱きしめる力を強くしながら、そんな切実な声で言わないで欲しい。
「……分かった」
それからどれくらいそうしていただろう。
「心臓がすごい高鳴ってるな」
「そ、そう?」
精一杯平静を保とうとするが、ギルフォードにはすべてお見通しだろう。
「まだ緊張してるのか。もう何度もこうして抱きしめてるだろ」
その声はどこからからかうような響きがあった。
「馴れるほどしてないから……」
「……もう、大丈夫だ」
腕から力を抜き、ジュリアを解放する。
同時に、それまで熱を帯びていた声音が、しん、と冷えたように聞こえた。
「え」
ギルフォードはこちらに背を向け、扉の奧に消えていく。
「なによ、いきなり」
いくら魅了魔法の衝動が収まったとはいえ、唐突に一線を引かれたような気がした。
――私、何か変なことを言った……?
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