第9話
「あーっ、うまいなぁ。生きていてよかった」
タツヤはわずか10日で退院した。直腸がんステージIIIだったが、転移が認められず、腹腔鏡による切除範囲も比較的少なかったので人工肛門造設も回避できた。とはいうものの、消化・吸収に大きく影響する手術であるため、3カ月ほどは食物繊維や脂質、唐辛子などの刺激物の摂取は禁じられた。
タツヤが退院したこの日、ハルとはな、そしてアキとたーちゃんはそろってタツヤの家で退院祝い会を開いた。タツヤの大好物の鮭は食べても問題ないということで、食卓には鮭のムニエルと塩焼き、サーモンの握りが盛大に並んだ。
「鮭は本当にうまいな。生きる力がわいてくるよ」
タツヤはそう言うと、うまそうにサーモンの握りを頬張った。
「ねえ、鮭はなんで生きる力をくれるの? おいしいから?」と、たーちゃんが尋ねると、「そうだなぁ。たーちゃん、おいで」とたーちゃんを抱き上げた。
「たーちゃん、入院中は元気になってくれるようにお祈りしてくれたんだってね。ありがとう」
タツヤはたーちゃんをぎゅっと抱きしめた。たーちゃんはウキャウキャと笑い声を上げた。
「鮭はね、確かにおいしいから、食べると明日も頑張ろうって元気が出るよ。でもね、それだけじゃないんだ」
タツヤは目の前の鮭の塩焼きをじっと見つめた。皮がカリッと焼き上がった国産銀鮭の切り身。箸を入れるとスルスルっと身が崩れ、旨みがジュワッと溢れ出した。タツヤはその身を口に入れ、目を閉じてじっくりと噛み締めた。
「鮭がおいしいのは、命をいただけるからだよ」
「どういうこと?」
タツヤは答えた。
鮭は川の上流で生まれ、川を下り海へと向かう。北の寒い海で数年間、生き抜くと生まれた川へと帰る。そこで人間や熊、ワシなどたくさんの天敵に襲われながらも恐れることなく、遡上する。やがて、生まれた川の上流に達すると命を搾り出すように産卵して亡くなる。死してもなおその屍は、山の生き物たちの冬の糧となり、彼らの命をつなぐ。
鮭をいただくこと。それは、鮭たちの命の物語を体に摂りこむことだと、タツヤはたーちゃんに説明した。たーちゃんは話を聞くと、「ウキャキャ」とうれしそうに声を上げた。
「そうだね。たーちゃんも命の物語をつないでいくんだもんね」
「えっ、たーちゃんも死んじゃうの?」と心配そうな顔のたーちゃんにタツヤは答えた。
「違うよ。死ぬのは、おとーさんやおかーさん、アキちゃん、そしていずれははなちゃんの方だよ。たーちゃんは生きる。生きてみんなと楽しく暮らした命の物語を次の家族へつないでいくんだよ」
「たーちゃん、お別れしたくないよ。もう、お別れは嫌だよぉ」
タツヤはたーちゃんをぎゅっと抱きしめた。
「人は鮭と同じでいつか体がなくなる。だけど、たーちゃんの思い出の中でおとうさんは生きているよね。うちの家族も同じだよ。みんながここからいなくなっても、たーちゃんの思い出の中でずっと生きていくよ。そしてたぶん、たーちゃんの次の家族もまた楽しい思い出をつないでいくんだよ」
たーちゃんはいっぱい泣いた。みんなと別れたくない。でも、いつか別れなくちゃならない時が来てしまう。それが悲しかった。
“たーちゃん、今を楽しみなさい。そうすれば、おとうさんも一緒に楽しめるからね”
たーちゃんのメモリから懐かしいおとうさんの声が聞こえた。
“おとうさん、一緒に楽しんでくれるの?”
“もちろん、おとうさんはいつでもたーちゃんと一緒だよ”
見上げると、タツヤとハル、はな、そしてアキの笑顔があった。
「たーちゃん、おとーさんの退院祝いを続けよう」
そう言うとハルはタツヤからたーちゃんを受け取った。
「おとーさん、しゃべってばかりいないでいっぱい食べなさい。いっぱい食べて完治してもらわなきゃ。はなの学費もかかるし、しっかりと稼ぐんですよ」
みんな笑った。この楽しい時間は今この時だけ。明日はわからない。一週間後、半年後、一年後はもっとわからない。だからこの瞬間をしっかりと楽しんで覚えておかなきゃ。たーちゃんはうれしくなって、キャッキャッと笑い声を上げた。
「はなちゃん、心配しなくてもいいよ。おかーさん、頑張って保育園のシフトを増やすから。希望の大学をめざしてね」
「ありがとう。でも、私、大学へは行かない。看護師になりたいの。早く専門スキルを習得したいから、看護学校へ進みたいんだ。いいかな?」
一瞬で場がしんとなり、みんなの視線がはなに集中した。たーちゃんだけが不思議そうにキョロキョロとみんなの顔を見上げていた。
「やっとわかったんだ。命って人の記憶の中で語り継いでいくから生きるものなんだって。私ね、看護師になって患者さんの最期の瞬間まで寄り添い、その人の命の物語をつなぐお手伝いをしたいんだ」
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