第8話

オフホワイトのカーテンを通して、晩秋のやさしい差し込む午後の病室。手術後のタツヤは元気だった。ベッドの上に起き上がり、見舞いに来たハルとはなに笑顔を見せていた。

「腹腔鏡手術っていってね、お腹から内視鏡を入れて腫瘍を切除したんだってさ。転移していなかったので化学療法も必要ないって。それにしてもお腹が減ったな」

「そりゃあ昨日の手術の後だもんね。食べられなくても仕方ないか」

「いや、食べるには食べたんだよ」

「えっ、どういうこと?」

「今朝、飲み込みのテストをして問題なかったのでバニラ味の栄養剤が一本出たよ。甘かったけど、空腹だったから全部飲んだ」

「そう、それはよかった。でも、それ一本じゃお腹へっちゃうね」

「今日の昼はお粥が出た。手術の前日から何も食べてなかったからうまかったなぁ。でも、茶碗一杯だけのお粥だから物足りなくてね」

「おとーさん、食いしん坊だもんね」

 明るい日差しの中、三人は笑った。タツヤとこんな風に笑い合うのは、はなにとって久しぶりだった。笑いながら、はなの目にうっすらと涙が滲んだ。

「あなた、家に帰ったらおいしいものを作りますよ。何がいいかしら」

「そうだなぁ。いろいろ食べたいけど、繊維のあるものや脂っぽいものはよくないそうだからな。やっぱり、焼き鮭に炊き立てのご飯だなぁ」

「やっぱり、鮭!」

 ハルとはなは笑った。いつまでも笑いが止まらなかった。

「そうだ。退院したらたーちゃんに会いたいな。今、家にいるんだっけ?」

「そう。アキちゃんがみんなを元気にしてあげてって、たーちゃんを出向させてくれたのよ。たーちゃん、あなたが元気になるようにいっぱい祈ってくれたみたい」

「そうか。たーちゃんにたくさんありがとうって言わなきゃな。また、みんなでご飯を食べたいなぁ。この病院はよくしてくれるけど、お粥と栄養剤じゃ、おいしいって思えないんだよな」

「明日は普通のご飯になるみたいよ。5日後には退院できるみたい。それにしてもあなた、食べることばかりね」と言って、ハルは笑った。

「おかーさん、ちょっとトイレに行ってくる」

 そう言うとはなは、一人で病室を出た。明るい病室とは異なり、誰もいない病棟の廊下はうす暗く、肌寒かった。コツン、コツンとはなの足音が空虚に響く。

「トイレって、この方向で間違いないよね……」

 心細くなりながら、トイレを探している時だった。細く開いたある病室のドアから、か細い歌声が漏れ聞こえてきた。よく聞くとそれは、はなが子どもの頃によく聞いていた子守唄のようだった。

“ねんねんころりよ、おころりよ。坊やはよい子だ、ねんねしな……”

「いったいなぜ、病室から子守唄が?」

 はなは歌声が漏れるドアの隙間からそっと中を覗った。すると、ベッドに仰臥する痩せ細った老婆が枯れ木のような手を差し伸べ、彼女の息子と思われる男性の手を握って、子守唄を歌っている光景が見えた。

 その男性は泣いていた。肩を震わせて、子どものように泣きじゃくっていた。そんな男性を見ながら、老婆は子守唄を口ずさみ続けていた。

「医療でね、助けられる命もあるけど、残念ながら助けられない命もあるの。でも、最期の瞬間まで消えゆく命に寄り添ってあげることはできるのです」

 はなが振り返るとそこには、背の高い看護師が寂しげな目をして立っていた。

「祈ってあげてください。あの方の命が苦しむことなく、天に召されますように……」

 そう言うと看護師は病室へ入り、老婆の肩にそっと手を置き、一緒に子守唄を口ずさみ始めた。

“坊やのお守りはどこへ行った。あの山越えて里へ行った……”

 子守唄は続いた。陽はすっかり西へと傾き、廊下は深い暗がりに閉ざされていた。

「おとーさん……」

 心細くなってつぶやくと、廊下の電灯がパッと灯った。そして、子守唄は終わった。ドアの隙間から男性の嗚咽がいつまでも続いていた。

 この時、はなの心の中にある決意の光が差し込んだ。それははなの未来を照らし出していた。

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