第4話

「帰る前にメールしたけど、晩ご飯はアキちゃんのところで済ませたからね。じゃあ私、宿題があるから……」

 そう言うとはなは、そのまま2階の自室に入って鍵を閉めた。居間からハルが「はな……」と声をかけるも、取り付く島がなかった。

「はぁ……」

 カバンをドサリと床に落とすと、はなはそのままベッドへバタンとうつ伏せに倒れ込んだ。

「なんで何だろう……」

 布団に顔を埋めてはなはつぶやいた。

 はなはタツヤと話すのが辛かった。タツヤはこのところ、ひどく疲れていた。顔色が土気色で悪く、体を動かすのも辛そうだった。それでもタツヤは、はなと話そうとしていた。それがはなには辛かった。

「なんで何だろう? あんなに辛そうにしているのなら、無理に話そうとしないでゆっくりと横になっていればいいのに……」

 本当は、はなもわかっていた。タツヤがはなに何かを一生懸命伝えようとしているのだと。でも、はなはそれを聞くことが怖かった。

「これからどうしよう……」

 タツヤが運送の仕事で懸命に頑張ってきたことは知っている。日が昇る前に出勤し、夜は日付の変わる頃まで働いている。いつもボロボロに疲れ切って帰宅していた。そんなハードな仕事だが、タツヤはいつも「人の幸せを届ける仕事だから」と、誇りを持って頑張っていた。

でも、タツヤはもうそんなに若くない。無理が効かなくなっているのは、人生経験の浅いはなにもわかることだった。

「おとーさんには無理しないでほしい」と思うはなだったが、自分の今後の進路を考えると不安だった。

「大学に行きたいって言いにくいなぁ……」

 大学で特に学びたいものがあるわけではなかった。卒業後、就きたい仕事があるわけでもなかった。ただ、高校の同じクラスの級友たちが楽しそうに大学進学について話しているのを聞くうちに何となく大学に行きたいと思うようになっていたのだった。

しかし、タツヤの辛そうな様子を見ていると、ちょっと言い出す勇気はなかった。

「親子喧嘩ができるうちが華かもね。気づけば、喧嘩したくとも親はなし、っと……」

 はなの脳裏に先ほどのアキの言葉が蘇った。

「アキちゃんはおとうさんを亡くして悲しい中で頑張ってお店を持つって夢を叶えたんだもんなぁ。すごいなぁ」

 アキの母はアキが幼少の頃に亡くなっていた。アキの父が一人で慣れない家事をこなしながら、一人娘のアキを育て上げた。そして父の70歳の誕生日、アキは育ててくれた父への感謝の気持ちを込めて、たーちゃんをプレゼントしたのだった。

アキとその父とたーちゃんの三人で過ごす幸せな時間。でも、それはあまり長くは続かなかった。

「アキちゃんは勤めていた会社を辞めて、亡くなったおとうさんが大好きだったそばを打つって決心したんだもんなぁ。勇気あるよな」


 アキからの招待状を持ってアキの部屋を訪ねたあの日、アキが初めて打ったそばをご馳走になったのは、はなだった。

 両親に連れられて、アキとたーちゃんが住むマンションの一室を訪れた時、ご馳走になったそばは、まだ3歳のはなにとっておいしいものではなかった。

「ハンバーグが食べたい!」と駄々をこねるはなを笑って抱き上げたアキは、「はなちゃん、ごめんね。私、まだまだ下手なのよ。いつかはなちゃんが笑顔でおいしいって食べてくれるそばを打てるように頑張るからね」と、アキはキラキラした目で語った。

「アキちゃん、夢が叶ったんだもんなぁ。すごいや。私も見習いたいけど、実現したい夢なんて思い浮かばないや」

 そんなことを思い悩んでいた時、部屋のドアがコンコンとノックされた。

「はなちゃん、ちょっといい?」

 ハルの声だった。はなは少し戸惑った。

「何の用だろう? 何も怒られるようなことはしていないはずだけど……」

 返事に迷っていると、「温かいお茶を飲まない? ミルクティを淹れたよ」とドアの向こうから声をかけられた。

「はい……」

 そっとドアを開けると、そこには湯気の立つ紅茶カップのお盆を手にしたハルがいた。

「今夜は寒いね。一緒に飲もうよ」

「うん」

 ハルがお盆を手に部屋に入ると、シナモンの香りがフワッと広がった。紅茶カップの中には、シナモンパウダーを浮かべたミルクティが並々と注がれていた。

「おかーさん、ありがとう。ちょうど飲みたかったの」

「そうでしょ。こんな夜はミルクティが一番よ。シナモンの香りって、心を少し元気にしてくれるのよね」

「いただきます」

 二人は床に置かれたお盆を前に向き合い、黙ってミルクティを飲んだ。静かな夜だった。ガラス越しに街路樹の落葉が風に吹かれるカサカサという音が聞こえていた。

「静かね……」

 窓の外は夜。はなは、この世界に母子二人だけぽつんと取り残されているような軽い錯覚に陥った。それは決して、嫌ではない。ちょっとだけ寂しく、でも妙に心休まる感覚だった。

「こんな夜は、たーちゃんがいてくれるといいのにね」

 ハルがボソッとつぶやいた。

「何かあったの?」と、はなは不安を覚えながら聞いた。

「そうね。それを話に来たのよ。おとーさんね、がんかもしれないの」

 はなは何も言わず、ハルの顔を見つめた。

「あのね。おとーさん、がんかもしれないの」

 ハルは繰り返した。はなは、母の言葉が理解できなかった。気がつくと、はなの目から二筋の涙が流れていた。

 ハルははなを包み込むように腕を広げ、そっとはなを抱きしめた。

「はな、辛いことを話してごめんね。でも、一番辛いのはおとーさんなの。私たち二人でおとーさんを支えてあげなくちゃいけないの。わかってね」

 はなは、黙ってうなずいた。2つのカップの中のミルクティは、すっかりと冷め切っていた。はなは心の中で何度も、「おとーさん、ごめんね」と繰り返していた。

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