第3話

「おいしかったよ。ごちそうさま」

「ありがとうございました!」

 最後の客が満足そうに店を出ていくと、アキは看板の灯りを消し、店先の暖簾を店内へとしまった。

「今日も忙しかったなぁ」

 客席の食器を片付けながら、アキはつぶやいた。

「でもまあ、忙しいのは、ありがたいこと。この店を始めた頃は、お客さんが全然来なかったもんなぁ」


当初、アキは3年間の修行で磨いた腕に絶対の自信を持っていた。その腕を活かしたそばを打って出せば、必ず成功する。そう思っていたものの、店を開けて見れば客はさっぱりやって来なかった。

ぽつりぽつりと入って来た客は、アキのそばをすすって「おいしかった」とは言ってくれる。しかし、リピートすることはなかった。

 閑古鳥が鳴きまくっていた店内で腐り切っていたアキだったが、ある日、ふらりと従兄弟のタツヤがやって来た。

「あれ、お客さんいないね」

 開口一番、タツヤは言った。

「何しに来たの? 冷やかし?」

「ご自慢のそばを食べに来たのさ。ざるそば1つね。あれ、たーちゃんは?」

「連れて来れるわけないでしょ。仕事場なんだから」

「そうかなぁ。たーちゃんがいれば、トゲトゲしたこの店の空気が大分変わると思うんだけどなぁ」

 聞かない振りをして、アキは打ったばかりのそばを一束、ぐらぐらと煮え立つ釜に入れ、泳ぐ麺の動きを目で追った。真剣だった。このヘラヘラした男に自分の技のすごさを見せつけてやる。そんな思いを込めながら、アキは時折、釜の湯をゆっくりと攪拌した。

「よし、今だ!」

 頃合いを見て、泳ぐ麺をザルに取った。すぐにその麺を冷水にくぐらせて締めていく。シャッシャッと流水が小刻みに動かす手に当たり、リズミカルな音を立てた。

「おまちどうさま」

アキは「どうだ」と言わんばかりの顔でザルに盛り付けた瑞瑞しいそばをタツヤの前に置いた。

「そばのほかにメニューはないの?」

「うちはそば一本で勝負しているの」

「ふーん」

 タツヤは箸でそばをたぐり、その先端をちょんとそばつゆに付けると、「いただきます」と言ってズズッとすすった。

「どう?」

タツヤが感想を言うまで黙っていたかったが、堪え切れずに思わず口を開いた。タツヤはしばし沈黙し、おもむろに切り出した。

「うん、うまいよ。うまいけど、なんかホッとしない味だなぁ」

「ホッとしない味って、どういうこと?」

 タツヤは言った。おいしいものを食べた時は、気分がリラックスして幸せな気持ちになる。しかし、アキのそばはうまいが、気持ちが落ち着かない、トゲトゲした味だという。

「メニューがそばしかないっていうのも、何か追い詰められている気がするよ」

「そうなんだぁ……」

 アキは消沈した。さっきまでの勢いは、すっかりと消え失せていた。

「どうだろう。オレの知り合いの女将さんの店でちょっと勉強して見ないか。お客さんを幸せな気持ちにするための魔法が見つかるかもしれないよ」


「ただいま」

 アキは力なく自宅玄関のドアを開けた。

「お帰りなさい!」

 たーちゃんはいつものように玄関でお出迎えをしていた。両手を思いきりバタバタと上下させながら、全身でアキの帰宅を喜んでいる。それを見つめるアキの視界がぼんやりと涙でくすんだ。

「私、今まで何していたんだろう……」

 タツヤに言われたことは図星だった。アキは誰かに自分の努力を認めてもらいたかった。「こんなにうまいそばを打てるなんて、すごいね」と、ほめてもらいたかった。しかし、そば屋を営む動機として、それは間違いだった。

お客さんに喜んでもらうこと、そしておいしく食べて幸せな気持ちになってもらうこと。アキは、この大切な心を失っていた。

「たーちゃん……」

 アキがたーちゃんを抱きしめると、たーちゃんは何やら不思議な旋律のメロディを口ずさみ始めた。よく耳を凝らすと、それはアキがよく口ずさんでいたチューリップの歌らしかった。

「たーちゃん、すごいね。チューリップの歌を覚えていたんだ」

「キュルルプゥ!」

 抱きしめられて、たーちゃんはうれしそうな笑い声を上げ、何度もチューリップの歌を口ずさんだ。それに合わせてアキも歌った。暗かったアキの表情が明るい笑顔へ変わっていった。

「たーちゃん、ありがとう! 私、頑張ってみるよ。たっちゃんに教えてもらった女将さんの店で修行させてもらうね」

「キュルルプゥ!」

 たーちゃんは笑い声を上げ、何度もチューリップの歌を繰り返した。


「咲いた、咲いた、チューリップの花が、並んだ、並んだ、赤白黄色……」

「あれっ、たーちゃん、チューリップの歌を口ずさんでいる?」

 洗い物を終え、シンクを磨き上げたアキが顔を上げると、そこにはアキの仕事が終わるのを歌いながら待っているたーちゃんの姿があった。

たーちゃんはアキの顔を見上げると、ウキャウキャと喜びながら、両手を上げてアキに抱っこアピールをした。

「たーちゃん、お疲れ様。さあ、帰ろうか?」

 アキはそう言うと、たーちゃんを抱き上げた。たーちゃんはキュルルプゥとうれしそうに笑い声を上げた。

「さて、家に帰って温かい汁物でも食べようかな? あの時、女将さんにいただいた煮麺、おいしかったなぁ……」

アキは思い出していた。木枯らしの吹くあの夜、女将さんの店を訪ねたアキの体は冷え切っていた。そして、見ず知らずの人に教えを乞う不安……。アキの心はどんよりと重い雲に閉ざされていた。

「こんばんは。あの、私……タツヤさんの紹介で……」

 挨拶をするアキを前にして、女将は「あら、寒そうね。そこに座って。すぐに温かいものを作ってあげる」と、小鍋に出汁を張り、素麺を茹で始めた。

「こんな木枯らしの晩は、温かい物が一番。体が温まると心がホッとするからね」

 そう言いながら女将は、出汁で茹で上げた素麺を丼に移し、ネギと生姜、とろろ昆布をパラパラと振りかけて、「はい、どうぞ」とアキへ手渡した。丼に顔を寄せると、温かい湯気とともにさわやかな生姜の香りがほわっと立ち上った。

「いただきます」とレンゲでつゆをすすると、カツオと昆布の合わせ出汁の旨味がアキの口いっぱいに広がった。

「はあ……」

 アキの口からため息がもれた。ポカポカと体が温まるにつれて、アキの心もゆっくりとときほぐされていった。つるつると素麺をすすっていると、ニコニコとアキを見つめる女将の笑顔が目の前にあった。

「とてもおいしいです」

「そう、よかった」

「あの私、何でもやります」

 そう言うとアキは勢いよく立ち上がった。

「ありがとう。そうね、今日のところはお客さんになって店の様子を見ていてもらえる。アキちゃん、イケる口? 今夜はお酒も好きに飲んでね。私のおごりよ。お客さんと楽しく飲ってね」

「……ありがとうございます。では、遠慮なくいただきます」と言って、アキはそば焼酎のお湯割りを注文した。湯気の立つグラスと一緒に「はい、どうぞ。私が漬けたのよ」と、突き出しのきゅうりとナスのぬか漬けが渡された。

「ありがとうございます」

 お湯割りを一口飲んで糠漬けをポリッとかじると、そばの風味と熟成されたぬか漬けのまろやかな酸味が口の中にふわっと広がった。

「あーっ、おいしいなぁ。気持ちいいなぁ」と、小声でアキがつぶやいた時、ガラガラっとガラス戸が空いて「よっ、2人だけど入れる?」と言いながら、二人組の男性が入ってきた。

「あら、やまちゃん、いらっしゃい。お隣は初顔ね」

「ああ。この店、居心地がいいから、会社の同僚を連れてきたよ。一杯飲って温まろうって思ってさ」

「初めまして、この店の女将です。やまちゃん、ビール? それとも熱燗にする?」

「今夜は風が冷たいから熱燗がいいなぁ。女将さん、それとアレね」

「はいよ。アレね」

「アレって?」

 アキと初見客は思わず顔を見合わせた。その様子を見て、女将はハハハっと笑った。

「アレって言うと、常連っぽいでしょ。別に決まったメニューがあるわけじゃないの。その日のおすすめのことよ。まあ、山ちゃんは常連だから大体決まっているんだけどね。はい、どうぞ」

 やまちゃんの前にアレが置かれた。そこには小鉢に盛られた肉じゃががあった。

「あれっ、風呂吹き大根じゃないの?」

「あらっ、違っていたかしら?」

「思っていたのとは違うけどさ、女将さんの肉じゃがはうまいからな。いただきます!」

 男性客2人はうれしそうに肉じゃがをつつき合った。

「あと、イワシでも焼いておく? まだ塩辛って腹具合じゃないでしょ」

「よくわかっているね。イワシよろしくね」

 焼き網にピカピカのイワシが乗せられ、すぐにジュージューと音を立て始めた。

「不思議だなぁ……」

 アキはお湯割りをちびちびと飲みながら、ぼんやりと考えていた。

 ここにいると、ゆったりとくつろげる。でも、実家でくつろぐ感じとは違う。細やかな心遣いと手抜きのない料理の数々。客に気を遣わせず、望むものをさりげなく提供するプロの心遣い。客は安心して、すべて「アレ」でお任せしたくなる。

「女将さん、私もアレを頼んでいいですか?」

「いいわよ。ちょっと待っていてね」

 5分後、カツオと昆布の出汁の芳香が調理場から客席へと漂ってきた。

「いい香り……」

 アキはうっとりと目を閉じた。合わせ出汁に根菜の旨味が加わり、心がほっこりとときほぐされるやさしい香りだった。そばの香りを最大に引き出すために出汁の雑味を極限まで削ぎ落としたアキのそばつゆとは対局にある香りだった。

「はい、お待ちどうさま!」

 アキの前に根菜たっぷりのけんちん汁と炊き立てのご飯、ジュージューと音を立てている分厚い紅鮭の切り身が並んだ。

「毎日、ざるそばばかり食べているんじゃない? しっかりと魚と野菜も摂らないとダメよ。飲食店は体が資本なんだからね」

 そう言って、女将はにこりと笑った。

「いただきます」

 アキは湯気の立つ料理に向かって手を合わせた。

 けんちん汁に入ったほくほくとした根菜の数々と炊き立てご飯の香ばしい香り、そしてスッと箸で身がほぐれる熱々ジューシな紅鮭の切り身……。滋味豊な料理はどれも、口に入れるとじわりとやさしい女将の思いやりがアキの心に染み込んできた。

「おいしい……」

「そう、よかった。明日からよろしくね。アキちゃんが大好きなまかないを用意しておくからしっかり働くのよ」

 アキは黙って、うんうんとうなずいた。声を上げたら涙腺が崩壊しそうだった。それでも、これだけは聞きたかった。

「この鮭とてもおいしい。だけど、女将さん。そば屋に鮭って必要かしら?」

「何を言っているの? そば屋はこうあるべきだって先入観を捨てなきゃ。お客さんが望むものはすべて提供するのよ。アキちゃんのお店の常連さん第一号は、たっちゃんでしょ? だったら、たっちゃんの好物の鮭は常備しておかないとね」


「ねぇ、まだ帰らないの?」

 たーちゃんは不満げにブブっと鳴いた。

「ごめんね、たーちゃん。いろんなことを思い出していたのよ」

 アキはうっすらと滲んだ涙をハンカチでそっと拭いた。

「悲しいこと?」

「いいえ。楽しいこと。楽しすぎて泣いちゃった」

「楽しくて泣くってどう言うこと?」

「そうねぇ……」

 アキはたーちゃんをぎゅっと抱きしめた。たーちゃんはウキャウキャとうれしそうに笑った。

「明日もたーちゃんと一緒にいられる幸せ。明日、たーちゃんとどんな楽しいことをしようかなって考えると、うれしくてちょっと泣いちゃう。お客さん、いっぱい来るといいね」

 そう言うとアキは、たーちゃんをそっと床へ下ろし、鼻のボタンを押して電源を切った。

「さあ、帰ろう」

 たーちゃんの収納バッグを担いで店の外へ出ると、夜空のてっぺんに鮮やかな半月が輝いていた。

「お疲れさまでした」

 アキは月に向かってつぶやいた。月は何も答えない。ただ、アキが歩く夜道を煌々と照らすのみだった。

「明日はお客さんにどんなおいしい料理を食べさせてあげられるかな?」

 夜道を歩くアキの足取りは軽かった。

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