28. 未来への憧れ
「さてと、準備はいい?」
旅立ちの決意から数日、出立の日は瞬く間にやってきた。半ば家のようになっていた医術院の部屋を片付け、騎士の仕事を引き継いで挨拶を済ませれば、町を発つ準備は完了する。今、この胸にあるのは未知の生活に対する静かな高揚だ。
「出発の前に最終確認しとこうか。次の行き先はアルストロメアから南のエリシェ。そこから私たちが最終的に目指すのはク、クレ……ごめん、なんだっけ街の名前」
「クレテリス。エリシェからさらに南下した場所にあるよ」
アルヴァレスを取り戻すために旅立ちを決めた。しかし、それは国の命令として下された正式な決定ではない。これまでの一連の出来事は、王国のさらなる混乱を防ぐために一部の人間にしか伝えられておらず、多くの人々にとって王家は未だ健在のままなのだ。王室を守る立場に加え、オリストティア防衛の第一線を担う人物が長期に渡り国を空けるともなれば、それなりの人物の許可が必要になってくる。
やらなければならないことは山積みだった。冬の騎士が冥姫を携えてこの国を離れる。ティエラの黒獣化を防げず、挙句の果てに殺害してなお、国の騎士であり続ける。強欲な選択を認めてもらうために、アユハは一度クレテリス――第二の王都を訪れなければならない。
「クレテリスかあ……もう一つの王都だっけ」
「国の重鎮が多く住んでる巨大な都だ。アルヴァレスに代わって今のオリストティアを動かしてるのもクレテリス」
「そこでアユハは国の偉い人と話す、と。……なんか私まで緊張しちゃうな」
「大丈夫。オリストティアを救うため外に行かせてください、って進言するだけだ」
「……そんなに簡単なこと?」
「いいや、全然」
「ねえ!」
実際のところ、リシアの懸念は的中している。アユハが行おうとしている交渉は、失敗に終わる可能性が非常に高いのだ。上手くいく保証はどこにもなく、認められなければ今度こそ国を去る覚悟を――あるいは、旅を諦める覚悟を固めなければならないだろう。
故に、あの先輩兵は言ったのだ。
『クレテリスで合流しよう。お前を遠征隊に推薦する身としてしっかり仕事はするさ』
ツルイとクライドは一足先にアルストロメアを離れ、王都近郊のレフィルブラン砦へと向かった。辺り一帯の防衛体制を見直し、無秩序に散在しているアルヴァレスの騎士たちを国内に再配置するためである。そちらを任せる代わりに、アユハはクレテリスまでの道のりで国内の現状を見て回る役を引き受けたのだ。真っ先に自分の目的を遂行できるほどの余力は、現在のオリストティアに残されていない。
どちらにせよ、アルヴァレスに関わる一連の変異を報告するために、王国近衛兵であるアユハやツルイはクレテリスを訪れる運命だ。時期を合わせて再会する方が、アユハにとって心強い支えとなることに間違いはない。
「しばらくこっちの事情に付き合わせることになるけど……申し訳ないな」
「チカラになるって言ったでしょ。“ごめん”はなし」
「じゃあ……ありがとう?」
「よし。でも、それはそれとして大丈夫? 緊張してない?」
「緊張? なんで」
一転して目を丸くするアユハに、彼女は笑いかける。その顔に浮かぶのは、旅の先達としての自信と威厳だ。
「こういう旅は初めてでしょう? お城の生活と比べて不自由も多いと思うけど頑張って」
「俺のことなんだと思ってるんだよ……」
「都市育ちの現代っ子」
「ああ、そういう」
かつてのアルヴァレスの姿を思い出す。立ち並ぶ家々、眠らない繁華街、この時代にしては潤う人口に、それを見下ろす白亜の大城――確かに、あの地は誰の目から見ても大都市である。
しかし、リシアの指摘をきっかけに引き出された記憶は、王都の他にもう一つ存在した。少し間を置くと、アユハは唐突に言葉を連ね始める。
「小さい頃さ、剣一本だけを持たされて山に放り込まれてた。『一か月後に迎えに来る』とか言われて。鍛練の一環として」
「?」
「もちろんケモノには遭遇するし、ケモノじゃなくて本物の獣もいるし……今思い出しても散々な目に遭った記憶しかないな……」
「……??」
「でもやっぱり、それも何度かやると慣れるんだよ。特に火の起こし方を覚えてからはだいぶ快適になって……」
「ス、ストップストップ!」
今思うと、幼い時分を過ごした場所で見たものは、人よりも植物と野生動物の方が多かった。日の高さで時間を計り、星明りを頼りに過ごした日々は城下の暮らしで遠のいてしまったが、今でもきちんと身に染みついて――というより、忘れたくとも忘れられないものである。
リシアの制止に、アユハはにやりと笑って見せる。まるで悪戯を思いついた子どものような表情だ。
「言いたいこと伝わった?」
「伝わるどころかアユハがアユハな理由にこれまでで一番納得いった……」
呆れ顔のリシアは、全てを悟ったようにアユハを見ている。
「まあ、だからどうというわけじゃないけど、それなりに使い物にはなると思うよ。たぶん」
「私は逆に不安になったよ……」
過去の野生じみた日々はさておき、リシアの懸念は杞憂に終わるようだ。感心を通り越して呆気にとられる話ではあるが、先の旅路をともにする運命共同体としては頼もしい限りである。
「ま、私の旅路もしばらくは安泰みたい」
「任せろ」
満足そうに頷いたリシアは、会話を切り上げるとともに新品の地図を広げた。オリストティア王国の詳しい地形が描かれたそれは、ツルイとクライドから王国騎士団名義で贈られたものである。
「大変お世話になりました」という礼とともに、他にも様々な旅道具を受け取った。彼らの手厚い支援に、リシアがかえって恐縮したのは記憶に新しい。
「……さてと、それじゃあ行きますか!」
エリシェまでの道のりを確認し、地図を畳む。意気揚々と出立するリシアの姿を眺めながら、アユハはアルストロメアの町を振り返った。
ケモノの脅威に晒されながら日々を過ごすこの町に、今日も穏やかな風が吹き抜ける。ふわりと漂う温かな香りは、どこかの家の朝食だろうか。もう少しすれば子供たちが町中を駆け回り、賑やかな話し声が響くようになるのだろう。
その日常は薄氷の上を歩むが如く不安定で、儚いけれど。
微睡むような安寧が一秒でも長く続くことを願っている。仮初の平和が、いつか本物になるその時まで。未来が約束される、その日まで。
オリストティア王国に平穏を。枯れ果てた大地に花々を。黒獣病からの勝利を。神のいない世界に、溢れんばかりの祝福を。――あの意志が、道なき道を駆ける足となるならば。
まだ折れない。折れるわけにはいかないと。自らを奮い立たせて進む先に、二人で掴みたかった未来があると、今はただ信じて。
「そうだリシア。まだ言ってないことがあった」
「ん? なに?」
数歩先を行く彼女を呼び止める。くるりと振り返った夜空の瞳に、笑う彼の姿が映った。
「助けてくれてありがとう」
――命を繋いだことに迷いがあった。あの涙に、できることを探していた。
始まりはただの好奇心。気まぐれと自己満足。見返りなど何も求めてはいなかったけれど。自惚れても良いのだろうか。私は確かに、彼を救うことができたのだと。
もう迷わないと胸を張る。温もりに満ちたその微笑みが、自分らしく歩むための支えとなる。この先の旅路はきっと、冬を携えた星が見守ってくれるのだろう。
だから、リシアもとびきりの笑顔で応えるのだ。
「――うん。どういたしまして!」
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