27. 騎士と魔術師 (2)
「この前一緒に戦った時から手合わせしてもらおうと思ってたんだ」
「ええ……あの忙しい時にそんなこと考えてたの?」
感心を通り越して呆れるリシアに、彼は笑うことで誤魔化した。あまり言及されたくはないらしい。気まずそうな珍しい反応に免じて許すことにする。
「あーあ、完敗。アユハの勝ちだね」
「リシアの“お願い”って何だったんだ?」
「……それ聞くの?」
「答えなくてもいいよ」
リシアは困惑しながら目を細めた。元通りに杖をベンチに立てかけ、再びアユハに向かい合う。
勝敗はついた。無粋な真似をしていることも承知だが、聞くことにそれなりの意味はある。しかし、アユハの意図など知る由もないリシアは、何かを考え込むような様子で目を逸らした。心なしか細くなる声は、彼女の迷いの表れだ。
「……冬の騎士。
「……怖かった?」
「少しだけ。いつものアユハと随分違ったから……」
「そっか」
「あ、怖かったっていうのはその、なんて言うか……普段とのギャップにびっくりしたとかそういう意味で……!」
非難したかったわけではない。そう伝えれば、アユハは驚いたように目を丸くさせた。その意外な反応の意味が分からなくて、リシアは言葉を詰まらせる。間違いがないように言い改めようとしていたことが、全て吹き飛んでしまった。そんな慌てふためく彼女の忙しない様子に、先に限界を迎えたのはアユハの方で。
「ふ、はははっ!」
「……なに」
「いやごめん、なんでも」
裏庭に響くアユハの大笑。心底楽しそうな彼の様子に思わず目を見張る。初めて見るその姿に、何だか感慨深くなってしまったのは秘密だ。
「冬の騎士、か。確かにそう呼ばれることもあるね」
剣の柄に手を置き、アユハは想像よりも軽く話をし始めた。もう少し渋るかと思っていたが、どうやらこの辺りの話は彼にとって雑談で済ませても構わないものらしい。
「ティエラ王女がこの国でなんて呼ばれていたかは知ってる?」
「……氷の王女様」
「そう。滅多に笑顔を見せない方だった。だからと言って冷たい御人でもなかったけどね。だけどそれは近くにいたから知っていただけで、民からしてみれば……まあ、冷たく見えても無理はなかったのかもしれない」
眉を下げてアユハが笑う。今日の陽光のように穏やかな微笑みは、以前の彼が見せなかった表情だ。静かな顔は数多く目にしてきたが、出会ってからこれまで、こんな風に笑う人ではなかったように思う。
「
気付いた頃には世間に馴染んでいた“冬の騎士”。畏怖の対象として馳せた異名ではあったが、この名は確かに氷の王女とともに在った。
「今でこそ冬の騎士なんて仰々しく呼ばれることもあるけど、始まりなんてただの見栄だったんだよ」
「でも事実、“冬の騎士”はこの王国に欠かせないものになってる。……そっか。“冬の騎士”は君の覚悟の形だったんだね」
「……そうだったのかも」
騎士になどなりたくもなかった過去の自分が、コレを知ったら何を思うのだろう。驚くだろうか。蔑むだろうか。それとも、悲しむだろうか。きっとどれも間違いではなくて、昔の自分はいずれにせよ、全てを投げ打って“騎士”を全うする今の自分を是としない。
(だけど、今の俺は――)
冬の騎士として歩んだ日々。王城の硬い床を鳴らし、あの人の後ろ姿を追いかけ続けたあの日々は。
間違いではなかった。そう。決して、誤りではなかったのだと。
「じゃあ、今度はアユハの番」
「何が?」
「“お願い”。君が勝ったんだから」
「あー……」
「ないの? あるから賭けに乗ったんじゃ……」
怪訝そうにリシアの眉が寄せられる。煮え切らない様子のアユハに対し、彼女は言葉を待ち続けた。急かすことはしないが、逃がしてもくれない雰囲気である。
「いや、あるにはあるんだけど……賭けの勝敗で言いたいものではないというか……」
「じゃあ先にそっちを聞く」
言い淀むのは、こんな流れで告げるつもりなどなかったからだ。決意したはずなのに、日によって揺らぐ心と決着がつかないまま、答えを先延ばしにして過ごしていた。
まだ、再び歩み始める覚悟を固めきれずにいる。あの日から遠ざかることに怯えている。ツルイの前で誓った言葉に偽りこそないものの、それに相応しい騎士で在れる自信を取り戻したわけではない。
「リシアからの旅の誘い、俺の答えはちゃんと出たよ」
「……!」
差し伸べられた手を、見なかったことにして拒絶した。アルストロメアに来てからの行いを省みることさえしなかったのは、壊れかけた自分の心を守ることに必死で、そんな余裕などなかったから。
たどった道を思い出すのが怖かった。終わることが救いに思えた。
しかし、周囲の人間たちは立ち止まることを決して許しはしなかった。繋いでいけと、責任を果たせと、彼らは口々に言いながらこの背中を押し出していく。いくら鍛えてきたとはいえ、踏ん張るのにも限度があって。よろめいた拍子に、思わず一歩踏み出してしまった。
(……ツルイさん。俺……まだティエラ様の言葉、思い出せないままです)
だけど、それでも。数々の声は確かに、この胸の奥にまで届いている。
「アルヴァレスを取り戻し、オリストティアを救いたい。その方法を見つけるため、近いうちに国を発つ予定でいる。当てのない不透明な旅だ」
張り続けた虚勢は剥がれた。いい加減に自分と向き合う時が来た。
アユハの導はもういない。明日にも潰える運命だと、嘆く声を否定できない。確かな未来は、オリストティアから失われた。
だが、道は決して途切れたわけではないのだと。敗北した自分がまだ必要なのだと、あの先輩兵は言いきった。その言葉を蔑ろにできるほど、この世界を諦めたわけじゃない。あの人の遺したものを、忘れてしまったわけじゃない。
今一度、この命が繋がった意味を問う。
国を守るための命だった。アルヴァレスは魔の手に落ち、何も拾い上げることはできず、この命だけが残された。その理由をアユハはこれから探さなければならない。あの人を失った、この世界で。
「この旅路を、リシアとともに歩きたい」
――違う世界に住む人だと、初めて出会った日に、そう思った。
彼のような高潔な生き方を知らない。全てを守ろうと誓うほど、リシアはこの世界を愛せない。
(だけど、惹かれた)
言葉を重ね、知ってしまった。そのうちに、彼の世界を、生き方を、どうしようもなく見たくなってしまった。
あの屋上で、彼を旅に誘ったこと。この王国の守護者である彼が、魔術師の隣に並ぶこと。望みこそしたけれど、本気で叶うと確信するには、二人の世界はあまりにも遠すぎて。
聞き間違いかと、そう思った。
「……本当に?」
思わず怪訝な声が出てしまったのは仕方のないことだった。魔術師である彼女は、人の隣に立つ自分など想像できない。それは、遠い記憶の彼方に置き去りにしてきたものだ。
「アルヴァレスで君を助けようと思った気持ちに嘘はなかったよ。だけど、それもただの気まぐれ。……私は誰かのためには生きられない。私は、これからも自分の望みを叶えるために旅をする」
もしも、あの日、あの場所でアユハと出会わなければ。リシアは彼の手を取っただろうか。その声に耳を傾けただろうか。今となっては、その問いに答えなどないけれど。
「旅の目的を捨てれば、誰かを救えるかもしれない――もし、そういうことが起きたとして。私はきっと、その誰かを選ばない。私は……自分のために他人を見捨てることができる人間なの」
アユハは何も言わなかった。その沈黙は拒絶だろうか。彼の顔を見ることができない理由は何だろう。
「オリストティアを救いたい。アユハの目的、私には綺麗すぎる。自分から言い出したことだけど……選ぶ人、本当に私で合ってる?」
アユハは言外に含まれた意味を察したのだろう。小さく息を呑む音が聞こえた。
“魔術師”であるリシアは、人のために生きることができない。それは、彼女がそうしたくないから、ではなく。世界が、歴史が、それを許さなかったからだ。
オリストティア王国は魔術師との間に負の歴史を築かなかった。しかし、だからと言って世界が彼女たちに向けた刃を知らないわけではない。
――でも、それが何だというのだろう。アユハはこの場で“魔術師”の話などした覚えはない。続けた言葉が思っていたよりも冷ややかだったのは、珍しく的外れな返答をする彼女に対して、微かながらも確かな怒りを感じたからだろう。
「リシアが“魔術師だから”とかそういうことを言ってるなら関係ない。ついでに、旅に誘われたからっていうのもただのきっかけにすぎない。俺は魔術師じゃなくてリシアと話をしてるんだ」
「……ちゃんと根に持ってるでしょ」
「あれは効いた」
どこかで聞いたことのある話の流れに思わずリシアは笑みを零す。釣られて笑い返すアユハに、今度こそ純粋な疑問を投げかけられそうだ。
「じゃあ……どうして?」
「決まってる。リシアとの旅が楽しそうだったから」
返る答えは至って単純だった。他に理由なんてない。想像よりも遥かに簡単な結論に、彼女は言葉を失うしかなかった。
「リシアが言ったんだよ。世界を見せてくれるんだろ? それともやっぱ嫌? 俺と行くの」
「……そんなことない。嫌だったら最初から誘ったりなんかしないよ」
「じゃあ決まり。お互いに異論ないならよろしくってことで」
「そうだけどさあ……君、やっぱり変わってるね」
「人のこと言えないと思うけどなあ」
リシアの顔に今度こそ混じり気のない笑顔が咲く。白い頬はほんのりと色づき、どこまでも嬉々として楽しそうだ。出会って以来、曇らせてばかりいた表情が、ようやく晴れやかな姿を見せる。
「私にとっても、この国のことはもう他人事じゃないよ。助ける方法、一緒に探していこう。大丈夫、きっと見つかる。世界は広いから」
“魔力が元に戻る、その日まで”。臆病な彼女にとって、それが今できる最大限の約束ではあるけれど。互いの目的が果たされる日までと、約束する勇気は持てないけれど。それでも、これは大きな進歩だった。
送る言葉は、ただの願望などではない。
事実として世界は広いのだ。忌み嫌われた魔術師を拾い、育てる人物がいたように。終焉に抗い得る彼のような戦士が生まれるように。黒獣病と歩んだ200年、縮小しながらも辛うじて世界が続いてきたように。
ならば、たった一つの国を救う手段くらい、どこかにきっとあるだろう。
「でも、確かに……これは賭けの結果でする話じゃなかったね」
「どうしようかと思ったよ。咄嗟に思いついたのはこれしかなかったし」
「えー、でも今の話は別枠じゃない? そもそも最初に誘ったの私だし。ってことではい。もう一個どうぞ」
「またそういう難しいことを……あ、分かった」
「なになに」
「また手合わせしてよ。魔術師が相手してくれる機会なんて滅多にない」
「あー……そうだった。そういう人だよね、君……」
アユハは最適解だとでも言うように満足そうに笑っている。対するリシアは、今度こそ心の底から呆れながらクライドの言葉を思い出していた。
『戦場ではアイツのそばにいてください。何があっても守ってくれます。ですが、それ以外でのアイツには注意してください。息をするように手合わせを申し込んできます。戦闘狂いの血が騒ぎだしたら最後、気が済むまで解放してくれませんよ』
げんなりした様子のクライドに、彼が今までどれだけその被害に遭ってきたのかを想像することは容易かった。ありがたいような、知りたくなかったような助言の意味を、リシアは早々に知ることになる。
そして、誠に残念ながらクライドの優しさは既に手遅れだった。彼の言葉を思い出したのは、アユハと一試合終えてしまった後である。
「クライドさん苦労したんだろうなあ……」
「クライド? なんで今」
「なんでも!」
一転して中身の薄い会話が転がる。時折通り掛かる医術院の職員と軽く挨拶を交わしながら、二人の談笑は続いた。気を緩めて会話に興じることができるのも、町の平和が保たれているからだ。
話すことは山のようにあった。“互いに言葉足らず”。その通り、相手に対してはまだ分からないことだらけだけど。以前のような無知とは違う。何より、歩み寄ることを許し、許されてここにいる。
――時間が経つのはあっという間だった。日は傾き、空が橙に染まりきったところでようやく話の落ち着いた静寂の間に、穏やかな風が吹き抜ける。
リシアはふと、町に耳を澄ませるアユハを盗み見る。涼やかな目元に宿るのは、気高き光。曇りなき今だからこそ、リシアは真っ直ぐに尋ねることができる。
「何があっても生きていく覚悟は決まった?」
「え?」
彼は超えていかなければならない。悲しみを抱えたまま、進まなければならない。人々に求められたからではなく、紛れもない自分の意志で、なおも暗いこの先を。
「なんかいいことあったでしょ? すっきりした顔してる」
彼の心境の変化には気付いていた。きっかけが何であったのかは分からない。それでも、暗がりから抜け出す道筋が見えたのなら、リシアにとっては朗報だ。
なんのために、と。悲痛に叫んだあの彼が、こんなにも優しく笑うのだから。
「……全部失くしたと思ってた。だけど……何も見ようとしなかった俺に、まだ残るものを教えてくれた人たちがいた。ツルイさんとクライド――そして、リシア。たくさんの人がまだそばにいてくれる。支えてくれる。それが……どうしようもなく嬉しかった」
「アユハ……」
「リシアに今まで言ってきたこと、どれも俺の本心で、嘘じゃない。だけど……もう大丈夫」
「……ねえ、アユハ。私、きっと君のチカラになるよ。だから私のこと、ちゃんと守ってね」
諦めることなく何度も伸ばされ続けたその手を、無碍に払うことなどできなかった。憎しみを抱きながらも、師との約束を果たす道を選んだ彼女の生き方が、どうしようもなく眩しく見えた。
「――ああ。約束する」
それは、彼女の旅路に連なれば、自分も何か変われるだろうかと愚かな望みを抱くほどに。
「じゃあ、そういうことで……改めて」
前置きをすると、アユハはリシアの正面に立った。胸に右手を添え、静かに目を伏せる。それはオリストティアの戦士の姿。陰ることのない冬の星が、今日も暗澹の世を照らす。
「オリストティア王国騎士アユハ・コールディル。今ここに、貴方の旅の安寧を誓おう」
星の瞳が、冥姫とともに煌めいた。静謐な光がリシアを映し、なおも深く透き通る。
「俺は、この先を生きるよ。――何があっても」
錆びかけた剣を研ぎ直す。崩れかけた意志を救い上げる。この命が続く意味を求め、オリストティアを救った果てに、あの人の夢見た未来があるのならば。
生きてみせよう。抗ってみせよう。死にゆく世界に希望は残ると、この剣で示すのだ。――きっとそれを、望んでくれたはずだから。
「私、アユハの剣を捧げてもらえるような立派な人間じゃないよ」
「そんなことはないさ。それに……これは俺のケジメだから」
アユハから差し伸べられた手は戦いを確かに知る人間のものだった。ペンを持つだけだった先生のソレとは違う。
その手を取ることを一瞬、躊躇って――目敏く気付いたアユハが優しく掴み取る。
「
「……うん。ありがとう」
自分はあと何度、彼女に“あの人”を重ね、喪失を知るのだろう。いつか、その姿を思い出せなくなった日に、自分は何を思うのだろうか。
先のことは何も分からない。――分からない、けれど。
「私、リシア・ナイトレイ。これからもよろしくね」
この手を取れば、遠い未来のその先で、迎えた朝が見えた気がした。
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