25. 希望の礎 (2)
「お前の言い分は理解した。だが、それはお前
「どういう……意味ですか」
「今朝な、レフィルブラン砦から報せが届いた。アルヴァレスの偵察部隊が帰還したそうだ」
近くにあった適当な木にツルイは背を預ける。腕を組んで見据える先にあるのは、今は遠いアルヴァレスの地。
王都に向けて偵察隊が出動していることは把握していたが、予想に反して戻りが随分と早い。
「結論だけ伝えると……現在、王都アルヴァレスは四方全面が瘴気に覆われている。その壁は厚く、外からの突入は困難だそうだ。つまり――アルヴァレス奪還は絶望的」
「……街の人々が黒獣化した影響ですね。爆発的にケモノが増えすぎたんだ。ケモノが生まれた場から遠く離れて移動することはありません。その瘴気が自然に晴れるとは思えない」
「ああ……中に入ればこちらの身が持たない。だが、街を取り戻すためには王都でケモノを排除する必要がある。……正直、手詰まりだ」
今も王都に大量に存在するケモノたちが、オリストティア王国中に活動範囲を拡大する可能性は低い。それは一見、不幸中の幸いのようにも思えるが、裏を返せば王都奪還の機会がないと言っているようなものである。
しかし、いくら「打つ手なし」と判断したとはいえ、国が崩壊していく様を見守っていくわけではない。オリストティアの人間は諦めが悪いのだ。
「そこで、だ。王都突入の手段を探すため、国外へいくつか遠征隊を派遣する話が出てるらしい。国内でどうにもならないなら外に頼ってみようってわけだな。無意味な議論をしている暇があるならさっさと足を動かせとのお達しだ」
「……なるほど」
「言いたいこと分かるな? ただでさえ国がめちゃくちゃなんだ。あまり多くの人員を外に割くことはできない。さらにその“外”は、ケモノがうじゃうじゃと湧いている。そんな中で国を救う手段を探し、それを持ち帰り、来たるアルヴァレスの戦いで中心に立たなくてはならない。俺たちは、それを完遂し得る人物を探している」
なりふり構っていられない状況なのだ。こうしている間にも、アルヴァレスの
いつあの瘴気が国中に蔓延し始めるか分からない。いくら黒獣の習性があるとはいえ、ケモノがアルヴァレス内に留まり続けると断言もできない。全ては不確かな推測の域を超えず、ただ不安を和らげたいがための願いにすぎないのだ。
王国の技術だけで太刀打ちできないのならば、同じ呪いと闘う諸外国に
「……俺、候補ですね?」
「そうだ。とは言ってもまだ話を公に通したわけじゃない。まずは本人の意志を確認しようと思っていたんだが……」
この案が提案された時、真っ先に思い浮かんだのはアユハだった。作戦に対する具体策が出ていたわけでも、彼を推薦する根拠があったわけでもない。そもそも、国は今も彼を“王女の護衛官”だと認識している。誰よりも重大な役割を持つ彼を有力候補に挙げてはいないだろう。
「……本気ですか。まだ俺をオリストティアに置くと」
「まだも何も、お前はこの国の騎士だろう。中途半端な人間を外に送るわけにはいかない。その点、お前なら国の顔としても、剣士としての腕も立つから安心して任せられる。これ以上の適任があるか」
ケモノが闊歩する外界を、戦う術を持たずに歩くことはできない。だからいつ何時も、人々は集団で動くのだ。しかし、この剣士が作戦に加わるのならば、ただでさえ激減した騎士団から、遠征隊へと選出する人間の数を減らすことができる。国内の守りを固める人間が増えることの重要さを理解できない彼ではない。
「正解がないのなら、ごちゃごちゃ考えてるんじゃねえ。自分はどうだっていいのなら、オリストティアのためを選んだっていいだろ」
それは国の未来と、彼に刻み込まれた誓いを盾にした、身勝手で一方的な交渉だと思った。
(……脅しだな。コイツの覚悟を利用して俺は……)
卑怯な手だと、彼は憎むだろうか。それとも、失望したと軽蔑の目を向けられるだろうか。
――どちらだって構わない。全てが無に帰すくらいならば、その程度は些事なのだ。オリストティア王国はこの若い剣士の力に頼らなければ生き残れない。
「一人で悩んで一人で解決するのは昔からお前の悪い癖だ。散々直せと言ってきただろう」
「ツルイさん……」
伝えながら、ツルイは思う。彼はそうならざるを得なかったのだ。
久方ぶりに現れた巫覡の剣の使い手だった。人間兵器とまで謳われた天才剣士だった。この王国で彼の名を知らない人間はいない。それ故にどこへ行き、何をしていようと、名も知らない他人からの視線がついて回った。それは、時折行動をともにしていたツルイですら不自由を感じたほどであった。
国を導く立場に在る人間として、彼は人々の模範でなければならない。民の希望であるために、年若い王女の負担を少しでも減らすために、かつての彼は己の感情に蓋をすることを選択した。
氷の王女と冬の騎士、彼らは確かにオリストティアの道であり、その役目を全うしたのだ。
「オリストティアの光であれ。これが俺たち騎士団の役目で、あの御方の望んだ在り方だったろう。それを誰よりも知っているはずのお前が、最初にこの国を諦めるのか」
皆は知らない。軍神の如く戦場を駆ける彼に痛みが、苦悩が――涙が、あることを。どこまでも冷酷に黒獣を屠り続けるその根底に、あまりにも清廉な願いがあることを。研ぎ澄まされた剣は、ただ一人のためだけにあったことを。
「……あなたはズルい。オリストティアの――ティエラ様の名を出せば、俺は揺れるに決まってる」
「ああ、知ってる。……ごめんな」
ツルイへと向けられたのは、どこまでも寂しそうな目だった。薄い唇は自嘲に歪む。
「……俺にとって、あの方は紛れもない希望でした。そんな人がそばにいてくれたから……世界が終わる実感、実はあまりなかったんです。けれど、失ってから……
迷いなく切り拓いてきたはずの道が、突然見えなくなった。別れを告げてきたはずの過去に、手を伸ばしたくなった。立ち止まるなと震える声が、遠い雨の彼方で聞こえる。
あれは誰の声なのだろう。それとも、見捨ててきた全て、だろうか。
アルヴァレスは終焉に飲み込まれた。無数の人々が黒獣病の手に堕ちた。オリストティア王国はこれから終わりへの歩みを加速させる。そこに、救いとなり得る導きの光はいない。だけど、それでも――。
「それでも……世界はまだ回っている」
葉の擦れる音に耳を澄ませる。揺らめく陽光が目に眩しい。瑞々しく満ちるそれは大地の呼吸だった。世界は未だ息づき、人はその上を歩いている。
終わりのない世界に焦がれた。それは最初、他人の夢だった。いったい、いつから彼女の理想が自分の理想になっていたのだろう。思い出すには、重ねた月日があまりにも膨大で。
貴女の願いを、全て叶えてあげたかった。民も、仲間も、国も、明日も。望むなら、全部。
「ツルイさん」
空を仰ぐ。晴れ渡る蒼穹に雲の影は一つもない。
「俺はまだ、誰かを守れますか」
揺れる心を曝け出す。人に問うのは、自分では言いきれる自信がないからだ。
この真意をツルイは正しく見抜くのだろう。そして、アユハは彼が
「ああ。守れるよ。アルストロメアの平和が何よりの証だろ?」
「……っ」
それは、冬の騎士には程遠い繊弱な微笑だった。噛み締めるように、何かを堪えるように、固く結ばれた口元に感情が滲む。複雑な意味を含んだその表情に、名を付けるのは不可能だ。
だから、言及はしない。代わりに問うのは、揺るがないはずのその覚悟。
「お前の誓いは、ここで簡単に投げ出せるほど薄っぺらいモノだったのかよ」
君は、生き残ったのだから。
月光の中で佇む彼女がそう告げる。それは、残酷な言葉だった。
「――いいえ。……いいえ」
生き残った。生き残ってしまった。何度疑ったところで、その事実は覆らない。
あの日から過ぎ行く数だけ、失ったものを数えている。いつかの夜、数えきれなくなって零れたのは乾いた笑いのただ一つだった。
(残されたもの、忘れてた。……いや、向き合うのが怖かったんだ)
深い瘴気の彼方に差す一縷の望み。あの人が繋いだ願いの糸。
「もう一度、俺にチャンスを下さい。今度こそ、この王国に未来を」
手繰り寄せて、手繰り寄せて、継がれる意志を。“希望”だと、誰かがそう呼ぶのなら。
「この剣に、オリストティア王国に――そして、ティエラ王女に誓います」
確証などない夢想を、今はただ信じよう。
仮初の望みとともに覚悟を謳えば、ツルイは晴れやかに破顔した。
赤い空が頭上を覆う。藍の混ざる宵の口、アルストロメアからは町明かりがぼんやりと漏れていた。病み上がりの彼に合わせてゆっくりと帰路に就いていると、ふいにツルイが足を止める。
「ツルイさん?」
「言うか迷ってたんだが……やっぱりお前にはきちんと伝えておく」
横並びだった位置からツルイは一歩前へと踏み出した。アユハを振り返る目には、王国騎士団の精鋭を率いる戦士の毅然とした光が宿っている。
「“逃げてもいい”――俺が今まで何度も隊員たちに伝えてきた言葉だ。少しでも後悔のない人生を送って欲しかったし、戦場で死ぬ以外の選択肢を与えてやりたかった。……逃がすことが、俺のできる仲間を守るための最善策だったんだ」
実際に戦場から去り、仮初の平穏を手に入れたかつての仲間を何人も見た。これで失わずに済むと、臆病な自分の言葉に救われもした。そして、この惨禍が続く限り、ツルイはこれから何度も同じ言葉を伝えていくのだろう。
「だが、お前にだけは言わない。お前に伝えるべきはコレじゃない」
それは同時に、自分を律する言葉でもあった。恐怖から目を逸らすために。怯えを振り払うために。弱い自分を、切り捨てるために。ツルイはアユハを通して今一度、自分自身が走り続ける覚悟を決める。
「責任を果たせ。役目から逃げるな。お前に乗る
厳然とした態度の裏に変わらない優しさを見た。アルヴァレスの惨劇を経てなお、強く在る人間の眩さに圧倒される。彼は確かに、アユハを“識る”人物だったのだ。
「……逃がしてはくれないのですね」
「甘えるな。先輩より先に退役しようとすんじゃねえよ」
喜々として告げるツルイに陰りはない。清々しく笑うこの姿に、アユハは何度も支えられてきた。
今日まで積み上げ続けた彼への数えきれない恩を返す唯一の手段は、彼の望みを果たすこと。大義を成し、その上で生き延びてみせること。ツルイの願いは、出会った時から不変である。
そのために今、アユハがすべきことは分かっていた。その一歩をここで踏み出す。
「先ほどの話ですが、俺は承諾している形で話を進めてください。まあ、認められるかどうかは別として」
「認められないのを想像する方が難しいが……そうなったら押し通すさ。この話はこっちに任せておけばいい」
「……あ、それと。できれば単独任務でお願いしたいんですが……」
「一人で行く気か? 流石にそれは許容できないが……」
「まさか。一緒に行きたい人がいるんです」
告げれば、ツルイは納得したように表情を緩める。それならば安心だと零すところを見るに、誰を指しているのかはお見通しのようだ。
(ああ――ティエラ様。オリストティアはまだ滅びに抗います。貴方の願いを導にして)
希望たらんと煌めく光を、どの騎士よりも近く、長く見守ってきた。遥か先を行くこの後輩が、迷いながらもまだ進むと決めたのなら。
「オリストティアにはお前の力が必要だよ。アユハ」
共に在ると、ここで告げよう。意志は繋がると、示してみせよう。
「――はい。心得ています」
はにかむ彼に祈りを。終わりへと歩む王国に誓いを。
折れぬ旗掲げる我らは、希望の礎なのだから。
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