24. 希望の礎 (1)






 閑静な森に午後の陽気が満ちている。降り注ぐ木漏れ日は湿った地面に不規則な模様を描き、風に揺れて踊っていた。小鳥のさえずりだけが響く森にケモノの姿はない。至って平和な昼下がりに、アユハの心も凪いだ海のように穏やかだ。

 彼は眩しそうに澄んだ空を仰ぐと、振り返ることなく背後に向けて言葉を発する。



「少し話しませんか――ツルイさん」



「……やっぱ気付くか」



「気付くも何も、最初から隠れる気なかったでしょう」



 静謐な森の中に二人の影が濃く落ちる。木陰から姿を現した先輩兵は、頬をかきながらアユハに歩み寄った。

 アルストロメア近郊の森に入って少し、自分を追う視線を感じ取ってからは気付かれないように相手を探っていた。しかし、その出所が親しい人物であると結論付けるのに、そう時間はかからない。その理由は言葉の通り、ツルイが自らの存在を隠そうとしなかったからだろう。



「こんなところで何してるんですか」



「ようやく足が元通りになったんで慣らしてたんだよ。そしたらお前が町から出ていくのを見かけてな。何となく追ってきた」



「病み上がりにそんなことしないでくださいよ……」



「特大ブーメランだぞ、それ」



 即座に返ったツルイの反撃は黙殺する。彼も返事は期待していなかったのか、眉をひそめながらすぐに話題を転換した。



「で、お前こそ何してんだ」



「散歩です」



「本当は?」



「……本当に散歩です」



「なるほど。お前が吐くまで居座ってやるよ」



「ツルイさんなら本気でやりかねないんですよね……」



 軽快なやり取りだが、ツルイの目は笑っていない。射貫くようなその視線には覚えがあった。彼が相手の嘘を見破っている時の目だ。



「……ツルイさんも人が悪い。最初から分かってて付いてきましたね」



 瞬きのような間の後、アユハは清々しくツルイの言葉を認めた。尾行の間に抱いた些細な違和感であったが、ツルイとしてはこうもあっさり肯定されるとかえって困惑してしまう。問いかけに対して朗らかに答えていく様は、どこか諦めているようにも見えた。



「……少し一人になれば思い出せるかもと。期待しただけです」



「思い出せる?  何を」



「ティエラ様の最期の言葉を」



 この手で王女を殺してから数週間の時が過ぎた。あの日から過ごした時間は永遠のように長くも、瞬きのように短かくもあった。死人のように冷たかったはずの体にはいつの間にか血が巡り、アユハはこうして元通りに近い生活を送り始めている。それでも、欠けた穴は原型を留めたまま巣食い、虚構を映し続けていた。



「コアを貫いた感触も、倒れ込んだ体を受け止めたことも記憶にあるんです。……だけど、あの人が最期にくれた言葉だけがどうしても思い出せません」



 遠くなる一方の“あの日”に焦燥を覚え、王都への道をなぞるようにこの場に赴いた。今更アルヴァレスに向かったところで、音を掻き消す酷い雨も、自分が流した目のくらむような血液も――瘴気とともに消えたあの人の体も、どこにも残されてはいないだろうけれど。



「……それとも、あの言葉を聞く資格なんて俺にはないのかな」



 かつての惨劇など無かったように、どこまでものどかな景色が続いていた。凪いだ目で木々を見渡すアユハの小さな一言が、本人の意図を無視してツルイに届く。

  絶句したツルイには気付いていないのか、先輩兵を振り返るアユハの目は変わらない。



「実はこの後ツルイさんを訪ねる予定でした。ちょうどいいので少しだけお時間をいただけますか」



「……込み入った話か?」



「それなりに……とは言え長居はさせません。ツルイさんがクライドに怒られるので」



「なんでお前は怒られない前提なんだ」



 口では不満を語るが、実際はアユハの言う通りだ。いくら傷が癒えたと言えど、前線に出るにはまだ時間がかかる。それはクライドも把握しており、勝手な行動をすれば雷が落ちるであろうことは簡単に予想できた。これ以上あの騎士に迷惑をかけるのはツルイとて本意ではない。

 彼は結論から、と短い前置きをすると、心の準備をさせる間もなく驚愕の言葉を口にする。



「冥姫を返上しようと思っています。この肩書とともに」



「な――待て待て待て! つまりそれは……騎士団を去る、と言ってるように聞こえるが」



「その通りです」



「その通りってお前……いや、まずは話を聞こう。どうしてそういう結論に至った」



 目を見張るツルイとは対象に、アユハは落ち着き払っている。その様子からは確固とした意志が伝わり、頭ごなしに否定するのは気が引けた。相手が突拍子もなく決断する人物ではないことを理解しているからこそ、話は慎重に進めなければならない。



「理由なんて……俺がこの剣を携えるに値する人間ではなくなっただけです」



「それはお前が思ってるだけだ」



「……近いうちに王女の死は世に知らされます。その時、そう言ってくれる人間が今の王国にどれくらい存在しますか。俺はアルヴァレス陥落も阻止できず、自分の主君さえ守り抜けなかった敗北者。巫覡の剣を賜った者に敗北は一度たりとも許されません」



 巫覡の剣の使い手、アユハ・コールディルの輝かしい戦果は、オリストティア王国において希望の象徴の一つであった。彼の功績が報らされるたび、民の未来は拓かれていく。絶望の波を押し返すチカラが王国に存在することは、曖昧ながらも明日を生きていくための糧であったのだ。

 そして、アユハはその全てを理解したうえで、これまでの戦いに臨んでいる。その重さは巫覡の剣に選ばれた者の宿命であり、数多の民を守る術を手にした騎士の誉れでもあった。



「俺にはその剣をお前のように巧く扱える人間が、今の王国にいるとは思えない」



「そうですか? 俺には一人心当たりがありますが」



「いや、確かに……あの人は技術的には十分なんだろうが……」



 指摘の通り、アユハの示す人物をツルイは正しく思い描ける。しかし、目前の剣士の手に収まる聖剣が、かの人に振るわれる未来までは想像できなかった。

 冥姫と冬の騎士。この二つの名が揃わない戦場を、ツルイは知らない。



「俺は反対だ。必ず後悔するぞ」



「……そうかもしれません。ですが、俺の使命はこの国に確かな明日を約束すること。そのような立場にある人間が、この災厄から何も守れなかったにも関わらず、未だに権利だけ手にしているわけにはいきません」



「なら、その先は? 騎士団を去り、そこからどうするつもりでいるんだ」



 彼の言い分に頷くことは不可能だった。主張のどこかに小さな綻びでもあれば、ツルイは説得のための突破口を見出せる。しかし、食い下がる先輩兵に対し、アユハは依然として涼しい態度を崩さない。

 当然、執拗な追求に遭うことを予想していただろう。おそらく彼は絶対に揺らがない覚悟を決めてツルイに話を切り出したのだ。

 彼は重要な話ほど、きちんと道筋を固めてから相手に伝える。会話の認識に齟齬が生まれないよう身に着けた習慣だろうが、その優秀さが今はとにかく恨めしかった。悩んでいる段階で一言でも零してくれていれば、クライドとともに全力で止めることができただろうに。



「どうとでもなりますよ。俺にはコレしかありませんが……それで十分だ。ケモノはどこにだって、腐るほどいるんです」



 大して長くもない人生、その全てを黒獣との戦いに捧げて歩んできた。ただ殺すだけだった空っぽの剣に意味をくれたのは“あの人”で――自分は、その剣で全てに終止符を打ったのだ。

 アユハは、剣を持たない生き方を知らない。騎士になどなりたくないと、隠れて泣いた幼い日も。彼女のそばに立ち、明日への一歩を踏み出した日も。――血にまみれて骸を抱いた、あの雨の日も。振り返ればいつだって、この手には剣が握られていた。

 王女の剣として築いた地位も、名声も、躊躇うことなく捨てられる。それはもう、アユハには必要のないモノだ。それでも――全て、自分の手で壊した先で、まだ生きていかなければならないのなら。

 を歩き続けるわけにはいかない。民に期待を抱かせてはならない。手酷く裏切った報いは、受けなければならない。

 でも、もしも。ほんの少しだけでも、この夢を――あの理想に焦がれた日々を、抱えて進むことが許されるのならば。



「きっと、これまでのようにはいられない。だけど、あの日々をなかったことにはしたくない。だから……どこにいようと、俺はこの先も戦い続けます。それだけはもう、変えられないんです」



「……国を離れ、ただの剣士として生きていく。それがお前にとってのか? ティエラ様に胸張って告げられる答えかよ」



 ツルイの問いは、渇いた胸中を潤わせるまでには到底及ばない。しかし、投げつけられた飾りのない言葉は、確かに心に波紋を描いて広がった。

 だから――溢れてしまった呟きは、誰かに認めてほしかった“冬の騎士”の中にある弱さと、誓いとともにソレを封じた誇りの狭間で生まれたものだったのかもしれない。

 


「託された願いを叶える権利も、継いでいく義務も、少しでも多くのケモノを殺せば果たしたことになりますか」



「何を言って……」



「――いや、そもそも話にならないか。俺は負けたのだから」



 残されたを、全て覚えている。

 だけど、もう、自分が叶えて良いものなのかも分からなくて。必ず果たすと、言えなくて。取り零した彼らに、赦しを請うこともできなくなってしまった。



「俺は国の話をしているんです。これは罪と責任の話で、俺とティエラ様の話じゃない。正解とか不正解とか――俺のことなんてどうだっていい」



「――なるほど。どうだっていい、か」



 おかしな点など微塵もない、つまらない話をしていたはずだった。しかし、ツルイはアユハの言葉ににやりと笑う。それは、イタズラを閃いた子どものように不敵で、どこか安堵したような複雑な笑みだった。










  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る