23. 願い、つないで、夢の先 (3)
「ちょうど2年前のこれくらいの時期だったかな。先生、ケモノに成って死んだの。滞在してた町が襲われて……その時に」
よく晴れた何の変哲もない昼下がりのことだった。思い返せば、あの日のアルヴァレスとよく似た天気だったようにも感じる。市場は人で賑わい、リシアはその雑踏の中に紛れていた。
「その町……北の大陸でも特に魔術師に対するアレコレが酷い地域でね。私を連れてたから最初、先生も行くのを渋ってた。だけど……それを無理矢理、私が押しきったの。歴史的に古い町でもあったから、先生の研究には欠かせないと思って。……でも、それが間違いだった」
いつの間にか握りしめていた拳に力が籠る。燻る感情は焼け爛れるほど燃え続けているのに、吐き出される声音はどこまでも冷ややかだ。
「……殺されたも同然だった。『魔女を育てた異端者』だって……先生、ケモノの群れを前に囮にされたの。そんなことをしたら人がどうなるか分かるはずなのにね。――いや……分かっていたから、か」
「……」
先生の姿が見えないことに気付き、ケモノに占領された町を駆け回る。しかし、たどり着いた時には何もかもが手遅れだった。目の前で消えていく瘴気とともに転がってきたのは、先生が愛用していた古びた一本のペン。
「その時になってようやく心の底から理解した。私は
他者への憎悪とともに湧き上がってきたのは、自分に対する底知れない恐怖だった。この手はいつだって人の命を奪える。触れただけで、ほんの少しだけ、チカラを込めるだけで。
ならば、その“少しだけ”を教えてくれたのは誰だったろう。魔術師の前に人であると――全てを教えてくれたのは、いったい誰だったろう。先生がいなければ、自分は何者になっていたのだろう。
「先生を見殺しにした
それはあまりにも静かで、悲痛な叫びだった。あの日からずっと、リシアは埋まらない空虚を抱えたまま生きている。
「――そうやって自棄になってた時にね、先生がよく言ってたことを思い出した。『正しく世界を知りなさい。それがきっと、今の人間がすべきことだから』……縋るしかなかったよ」
こんな世界、どうだって良かった。滅びるのなら滅びれば良いとさえ思っていた。
それでも、時間は止まってくれなくて。あの人の声が、立ち止まることを許してくれなくて。
「繋がるはずのなかった命を先生が繋いでくれた。その恩に報いるために私ができることは……先生の意志を、生きた証を繋ぐこと。終末大戦から――いや、“全ての歴史を紐解いて、世界が壊れた理由を明らかにする”――先生の夢は私が繋ぐ」
終わりゆく世界を愛した先生の意志を継ぐ。草木の枯れたこの大地に希望を見出したあの人は、人は黒獣病を克服できると屈託もなく笑っていた。
無責任な未来を繋いだあの人が、そう言うのならば、きっと。
先生の言葉を信じている。昔も、今も、何も変わらず、先生はリシアの遥か先を歩き続けていた。
「……強いな、リシアは」
「強くなんかないよ。そうやって思い込んで、仮面をつけて……剥がれないようになるのを待ってるの」
長い金髪が風になびく。屋上の柵に両腕を置いて町を眺める彼女の瞳に、点々と灯る街灯が揺れた。虫の声だけが響くアルストロメアに出歩く人の影はない。夜空にまたがる星の大河だけが、静かに語る二人の姿を浮かび上がらせる。
「でもね、最初こそこんな理由で始めた旅だったけど、案外悪くないよ。世界にはアユハみたいな人もいるって知れた」
「先生のおかげだな」
「そうだね。これも……先生が私に繋いでくれたものなのかも」
掲げた目的を果たすため、先生と同じ学者として生きていくと決意した。それは、在りし日の漠然な夢とは異なる、リシアの確然とした意志だった。
旅の供に選んだ本には、かつての先生の教えが事細かに書き込まれている。几帳面なその文字をなぞっていけば、あの頃の自分に戻れるような気がした。世界は美しいと笑う先生の言葉を、純粋に信じていられたあの頃に。
「……いつか、さ。こんな世界になった理由を突き止めたら。“先生は間違ってなかった”って言えるかな。私……もう少しだけこの世界のこと、好きになれるかな」
欄干を掴んでいた手のひらを自身に向ける。今よりも一回りこの手が小さかった頃、はぐれないように繋いでくれたあの人はもういない。
――確かに、先生は異端者だった。誰よりも大きな夢を持っていたくせに、その道を塞ぐ“魔術師”を育てたのはなぜだろう。その真意を知ることはもうないけれど。もしも、自分が――
償う相手のいなくなった罪を抱えて、憎くて憎くて堪らないこの世界を生きていく。再び歩むと決意する。一度は全てを失った彼女が奮い立つのは、先生の言葉の数々が残されているからだ。
「アユハはこの世界、好き?」
星を宿した瞳がアユハに降ってきた。彼女は緩く弧を描く視界の中に彼を収め、朗らかに問う。
「君の目にこの世界はどう映る?」
「俺の、目に……?」
それは、無邪気に問われた世界一の難問。すぐに答えることなどできるはずもなかった。自分の見る世界など、考えたこともなかった。
ただ精一杯に生きていた。この国を、黒獣病の魔の手から少しでも遠ざけるために。それが、アユハが剣を持つ唯一の理由だった。
見てきたのは、瘴気の立ち込める黒い戦場。立っていたのは、無数の屍が転がる道の先。振り返ったそこにあるのは、黒獣と犠牲になった人々だけだった。
それでも、少し前の自分であれば胸を張って答えたのだろう。見据える世界に、希望はあると。数多の可能性で溢れていると。この剣で――この手で、未来を掴むのだと。
「……いい。今はいいよ。答えなくて。私だって答えられない」
彼女は静かにそう告げた。ふわりと微笑んだその目尻に、どこか寂しそうな色が滲む。その姿がいつかのティエラに重なって――瞬きとともに幻影は消えた。
――そうだ、あの人はもういない。この手で奪った命の一つなのだと、唐突に事実が腑に落ちて収まったような心地がした。
一抹の寂しさは消えない。それでも自分のことを語る気になったのは、きっと、彼女のことがあまりにも眩しく見えたからなのだろう。
「この剣を賜った時、誓ったことがあった」
冥姫をそっと撫でる。この剣を携えた日。オリストティア王国に天才剣士が生まれた日。あの日、アユハはティエラ付きの騎士となった。それは、幼い頃に見た夢が実を結んだ日でもある。
「オリストティア王国に安寧と勝利を。それは騎士としての誓い。だけど、それとは別にもう一つ。
誰かに伝えることの意味も、必要もなかった。口にするにはあまりにも傲慢で、無礼だった。ゆえに自分だけが刻んでいれば十分だった、もう一つの誓い。それは――。
「あの方の……ティエラ様の支えで在り続けること。何があっても、俺だけはあの方を信じ続けると誓ったんだ」
黒獣病に終止符を。それは無謀な夢だった。
オリストティア王国に繁栄を。終わり行く世界で、馬鹿げた理想だった。
人々は嘲笑う。絵空事ばかりの妄言はもう十分だと。あるかもわからない遠い未来を語る暇があるのなら、目の前の戦線を見据えてくれと。王国の人間だって、決して一枚岩ではない。遥か未来の王女の理想に熱狂する者も、嫌悪する者もいた。笑いもしない氷の王女は、周囲から届くどんな言葉も否定しなかった。しかし、自身の言葉を取り消すこともなかった。
孤独に生きる人だった。周囲の賛否に揺れるような人でもなかった。だから、誓いはいつだって胸の中に秘めていた。
オリストティアに明日はある、と。あの人に伝えるべき言葉はそれで十分だったのだろうか。今となっては、答え合わせもできそうにない。
「騎士になったのは、あの方を一番近くで護るためだった。護ることばかりが先走って気付かなかったけど……今考えてみると俺はきっと、あの人の理想が叶う世界が誰よりも見たかったんだ。……それももう、叶う日は来ないけどね」
「アユハ……」
他人など、どうだって良かった。大嫌いだった。どうせ
しかし、蓋を開けてみれば彼は同じだった。夢を見て、追いかけて、諦めきれなくて。だけど、踏み出すことを恐れている。
「……私と同じ、だね」
「え……?」
彼女は恩師の姿に、自らの足で歩む意味を見出した。世界の姿を、見たかった。
彼は王女の姿に、剣を捧げる意味を見出した。その歩みの果てを、見たかった。
形は違う。それでも、これは確かにそれぞれの夢であり、願いだったのだ。
もしも、この願いが繋がり、遠い、遠い未来で果たされる。そんな日があるのなら。それを望むことが、まだ許されるのなら――。
「ねえアユハ。君にはまだ、やらなきゃいけないことが残ってる。君はたくさんの声を聞いてここにいるんでしょう?」
今にも零れ落ちそうな列星がリシアの視界を彩った。いつか人の世が終わりを迎えた時には、人工の光で隠された星々も姿を現す。それはなんて美しく、残酷な景色なのだろう。その日を迎えた時には、ありのままの星空に感嘆する者もどこにもいない。
それはまるで、彼の抱えた光の数々のようだった。彼を知る者がいなくなれば、ともにいたはずの輝きも失われる。
「もし君に、託された想いがあるのなら。君にはそれを叶える権利がある。継いでいく義務がある。だって――」
微かな願いと、儚い希望だけが繋いできたこの世界に。
「君は、生き残ったのだから」
見開かれた銀の瞳が大きく揺れる。月光を背に佇むリシアの後ろで、確かにあの人が微笑んでいた。
国の平穏を、民の安息を、王女の行く道を。この剣に、数えきれないほどの願いを託されてここまで来た。その全てを覚えている。忘れられるはずもない記憶とともに、刻まれている。
人々を守る力があると自負していた。自覚があるからこそ、この剣の届く範囲だけでも命懸けで守り抜こうと誓っていた。民の想いこそ、この身を支える源だった。
それでも、一際輝いていたのは。
(貴女の意志を、俺が継ぐ……)
私の意志はあなたが継いで――貴女の意志。それは、オリストティア王国に、世界に未来を約束すること。この終焉から脱却すること。人として、最期の時まで生きること。
二人で叶えられなかった願いを、一人で果たす。その残酷さを、貴女は理解したうえで言ったのだろうか。
「……あの日、この世界にはやっぱり希望なんてないのだと思った。抗っても抗っても奪っていくばかりの世界に対して、“それでも”なんて俺は言えない。俺にとっては、ただケモノを殺すだけの兵器になる方がずっと簡単で……残った意志を継ぐことの方がよっぽど難しいんだよ」
「そんなこと……」
「ない、と言える? 俺が生きてきたのはケモノだけの戦場だった。殺して殺して殺し尽くして……いつか、それが返ってきて。戦場で終わるものだと思ってた。
「君は――」
残される側だとは思っていなかった。そう儚く笑う彼に向け、飛び出した言葉は突如吹き抜けた強風にかき消される。乱れる髪の隙間から相手の姿を探せば、黒髪と溶け合った闇がそのまま彼を連れ去っていくような感覚に襲われて。
「……リシア?」
思わず腕を掴んだその行動に、言葉として形にできるほどの意味はない。硬直した彼女と、掴まれた腕とを交互に見ながらアユハは不思議そうな表情を浮かべる。
伝えたかったはずの言葉は風に攫われてしまった。代わりに浮かんできた言葉は、まるで砂の中からようやく掘り出したような、自分でも気付いていない隠されていた本心なのだろう。
「アユハ。私と一緒に旅してみない?」
「……え?」
「私の魔力が元に戻るまででいい。少しだけ、この旅に付き合って。私は君に、君の知らない世界を見せる。君は……その剣で私を守る。これならお互いに得があるでしょ?」
「それは――確かに。だけど……ごめん。即答はできない。少しだけ考えさせて」
「もちろん。……待ってる」
言葉を切って再び空を見上げたリシアの後ろ姿を眺める。あの人よりも淡い金髪が風に揺れ、星の輝きを反射しながら踊っていた。
かつて、あのアルヴァレス城で天を仰いでいた王女も、今のように突然の思いつきで自分を城下へと誘ったことを思い出す。あの時は確か、溜まりに溜まった執務からようやく解放され、気分転換のために城から抜け出したのだ。仕事を片付けると新件を持ち込む臣下たちの目を盗んで、民の生活を覗きに行った王女に薄っすらと浮かんだ微笑を覚えている。
氷の王女なんて呼ばれはしていた。確かに表情の変化に乏しい人だった。だけど、あの人だって笑うことはあったんだ。
そんな些細な日常での変化でさえも、ふとした拍子に思い出すことができるのに。
『――――』
たった一言。あの人の最期の言葉だけは、いつまで経っても朧げなままだった。
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