22. 願い、つないで、夢の先 (2)






「星、詳しいの?」



「いや、まったく。リシアは?」



「私は目印になるやつくらい。でも、今日の空は見上げるだけ十分。一つの星だけを探すなんてもったいないよ」



 アユハの傍らでリシアは満天の輝きを一心に見上げている。紺色の瞳に映り込む星々は、その目に確かな存在感を刻みつけていた。吸い込まれるような空に目を奪われたまま、アユハはリシアの感動に同調する。

 虫の声だけが響く静寂に身を委ね、二人揃って半ば呆然と空を眺めた。こんなにも心穏やかな夜を迎えたのは久しぶりで、隣にある人の温もりが染みるように伝わってくる。



「空、見るの好きなんだね」



「うん。……クライドから聞いたな?」



「……」



「アイツ、リシア相手だと何でも喋るな……」



「でも、そのおかげで君を捕まえられた」



 手すりに乗せた腕に体重を預けていたアユハは、その発言に少しだけ目を丸くさせた。予想外の反応にリシアは首を傾ける。



「なんか変なこと言った?」



「いや……」



「なに」



「随分ひどい態度を取ったから……リシアの方から来てくれるとは思ってなかった」



「……気にしてないよ。あれは私が無神経だったの。アユハが悪いんじゃない」



 話す間、アユハの静かな目が真っすぐリシアに注がれていた。その見透かすような視線に、彼女は言葉を詰まらせる。しかし、リシアにとっての本題はここからだ。ここで気後れしているような場合ではない。



「それと……もう一つ謝らせて。私、この前ね。医術院でアユハの話を――」



「あ、待って。それ、その話。一回止まって」



 続けようとしたリシアの言葉をアユハが制止する。実は――そう言う彼は、随分と複雑そうな表情だ。



「あの時……リシアが俺たちの話を聞いてること、なんとなくだけど気付いてたんだ。だけど止めなかった。自分のことでいっぱいいっぱいだったっていうのもあるけど……リシアならいいか、って。どこかで思ってたのかもしれない」



 それは、リシアにとっては衝撃の一言だった。気付かれているとは想像もしていなかったのだ。他でもない、あの空間で一番余裕のなかったはずのあの彼に。加えて、聞き耳を立てていたことを今の今まで黙認されていただなんて。



「どんな顔すればいいのか分かんないんだけど……」



「ごめん。でも……そういうことだから謝らなきゃいけないのは俺の方。ただでさえこういう不安定な状況なのに、勝手にこっちの事情押し付けて、当たって、迷惑ばかりかけた。俺、リシアに……」



「いや待った待った! ストップ!」



 数秒後のアユハが何を行おうとしているのか分かってしまった。慌てて言葉を遮り、リシアは彼を真っすぐに見る。この流れは、クライドの時に覚えがあった。



「その先は聞かない。私、君に迷惑かけられた覚えなんてないよ。それに……ちゃんと最後まで言わせて。――ごめんなさい。アユハの事情に土足で踏み込んだこと謝りたかったの。……でも、なんて言えばいいのか分からなくてずっと逃げてた」



 だだっ広い空間に満ちていた声を、鮮明に覚えている。昼の戦場で誰よりも強く在った目の前の彼が、あの日の彼とどうしても一致しなかった。

 震える声が、抑えきれずに零れた嗚咽が、焼きついたように忘れられなくて。苦しくなる胸に耐えるよう目を閉じれば、記憶の中とはまるで別人の、穏やかな彼の声が降ってくる。



「互いに言葉足らず。あの時リシアが言ったこと、その通りだと思った」



 身を危険に晒してまで、彼女は瀕死だったこの体に魔術を施し、アルストロメアまで運びきった。

 目を覚ましてからの自分は、そんな彼女に敬意を示すような行動をしてきただろうか。振り返らずとも恥ばかりの態度が目に余る。



「思い返せば……俺、リシアに自分の所属も、アルヴァレスでのことも自分の口から伝えてない。あなたが何も聞かずにいてくれるから、それに甘えていたんだ」



「……聞かなかったんじゃなくて、聞けなかっただけ。……いつもそうだよ。他人ヒトに踏み込まれるのが怖い。だから自分からも踏み込まない。でも……今はちょっと違うよ」



「じゃあ……せっかくの機会だ。いろいろ話そう。リシアへの誠意、今更だけど示させて」



 律儀なアユハの態度に、リシアは気恥ずかしさとともに言葉を詰まらせる。どうして彼らは皆、魔術師である自分にここまで丁寧な対応をしてくれるのだろう。隔てなく全ての人々に真摯に向き合う彼らを見ていると、自分の育った大陸が馬鹿馬鹿しく思えてくる。



「……君、変わってるね。まあ、でも……だんだん慣れてきたよ。どうせここで断ったって、引いてなんてくれないでしょ?」



「正解」



 リシアが悪戯っぽく笑った。彼女が初めて見せるその表情に、アユハはわずかに目を見張る。



「なら、私も遠慮しない。アユハのこと聞かせて。騎士団でのこと。その剣――冥姫と出会った時のこと」



 人伝ての噂や盗み聞いた断片を拾い、繋げた像ではなくて。今、目の前にいる本人から“彼”のことを聞きたい。

 自分の目で見て、耳で聞かなければ満足できないのはリシアの性分だった。普段ならば物言わぬ世界相手に対して発揮されていたはずの興味が、他人へと向けられたのはいつ以来だったろう。



「オリストティア王国王室近衛兵 兼 専属護衛官――これが俺の肩書で……要するに、俺はティエラ殿下の護衛役。普段はティエラ様のご公務に同伴したり、騎士団員として戦場に出たりしていたよ。そして、」



 アユハが左腰に携えた聖剣に触れた。先の戦いでいっそ禍々しいほどの澄んだ覇気を纏っていたそれは、星明りの下で再び静謐な眠りに就いている。



「ティエラ様の護衛役に任命された時に、この剣――冥姫を賜ったんだ。巫覡の剣の一振、といえばリシアには伝わるかな」



「うん。実は……アルヴァレスでアユハを見つけられたのはその剣のおかげなんだよ」



「え?」



「王都を逃げてた時、やけに魔力の濃い場所があった。ほら、冥姫って魔力出すでしょ? 私、魔術師だから魔力の濃さとかをなんとなく感知できるんだけど、魔力の濃い方、濃い方……ってたどって行った先に冥姫と君がいたの」



「あの状況でそんな危険なことするなよ……」



「そんなこと言っていいのかな~。君、冥姫に救われたようなものなのに」



「……それを言われると弱いな」



「ふふ、冥姫に感謝しなよ」



 その時、一陣の風が吹き抜けた。雨上がりの清涼な空気が杖の装飾をシャラリと揺らす。

 その風に背を押されるように、アユハは意を決して抱えていた疑問を投げかけてみることにした。これはきっと、互いに歩み寄ろうと決めた今だからこそ、正面から聞けることだ。



「リシアの……そのチカラ。“月の魔術”だけど“再生”、じゃないよな」



「……そうだよ。私のコレは“死の魔術”」



 リシアの手の上で魔力が弾ける。アユハの知る“月の魔術”とは異なり、その魔術の色は随分と暗い。

 そも、魔術師とは世界を構成する六要素を操る者の総称だ。炎、雨、風、大地に、太陽と月――魔術師はこれらのチカラを魔術として扱うが、個人間で得意とする要素は異なる。リシアは特に、“月の魔術”を得手とする魔術師だった。



「月の魔術は“死と再生”を操るチカラ。だけど、多くの魔術師は“再生”を得意として“死”を操ることは珍しい。これは別に高い技術がいるとかそういう意味じゃなくて……単に体質の問題。たとえば君の知る月の魔術はオリストティア王家の“再生”だろうけど……“死”の方が得意な私は、自分にしか再生を使えない」



「じゃあ、俺が生きているのは……」



「私の死が、君の死を上書きしたから。君、私が見つけた時はだったから、私の“死”がよく馴染んだみたい。そこでなんかいろいろあって……うまい具合に君の中で再生が始まったんだと思う。たぶん」



「急に雑だな……」



 確証はない。口にしたことは全て憶測の段階だ。術を施したリシアですら、未だに信じられない気持ちでいる。



「あの時……アユハの心臓は止まったばかりだった。その状態なら、生きている人よりも“死”が体に馴染んでたはず。アユハは冥姫を通して普段から月の魔力に慣れてるし、あの場所はケモノの影響で特別冥姫の魔力が濃かった。アユハの体内で“冥姫と私の魔力”が溶け合い、増幅して……もし、アユハの体を私だと誤認したなら――」



「……あの……リシア?」



 早口で捲し立てながら突如思考に没頭し始めた彼女の様子に、アユハが分かりやすく狼狽えていた。珍しい彼の困惑した姿に、ようやくリシアは自分がいつもの癖を発揮していたと自覚する。



「あ……ごめん。初めてのことだったから、いろいろ考え始めると止まらなくて。……まあ、とにかく! 自分以外に再生が使えた理由は、これからきちんと整理していくとして……でも――うん。もう二度と、こんな魔術は使わない」



「……どうしてか聞いても?」



「消費する魔力量が桁違いだから。実はあれ以来、普段の半分くらいまでしか魔力戻ってなくて」



「!? そういう大事なことはもっと早く……!」



「あー違う違う! 失われた、とかじゃないから大丈夫。少しずつ戻ってるから心配しないで。元通りになるまでに時間がかかるだけ。いつかは回復するだろうけど……あの魔術を使うたびに、こんなに魔力を失ってなんていられない」



 慌てるアユハとは裏腹に、当の本人は落ち着いたままである。その様子にリシアの話す内容が信頼できるものだと判断したようで、アユハは行き場を失った手を再び欄干に乗せるように戻した。

 彼女はそのまま静かな声で話を続けていく。それはまるで、無数の星々に向けた懺悔のようだった。



「……私は自分のために旅をしてる。誰かのために生きているわけじゃないし、生きるつもりもない。散々“魔術師”を迫害してきたくせに、死者の蘇生ができるなんて知られたら、手のひらを返していいように使われるに決まってる。もうじき世界が終わるからと言って……私はになんて絶対にならない」



 吐き出すように零された彼女の意志は、オリストティアで生きてきたアユハにとって心当たりばかりの話だった。

 再生の魔術を使っていた先代女王イリスを思い浮かべる。直接会ったことはないが、アユハも彼女の恩恵を受けていた一人だ。彼女の降らせる恵みの雨は、黒獣病で疲弊したオリストティアを温かく包み、癒すものだった。

 そして、王国を守り、憂う女王を人々は“希望”と、呼んではいなかったか。



「酷いでしょ。君、そんなに助けられたんだよ」



「そんなこと思わない。ただ……俺は知らないことばかりなんだって」



「……それは私もだよ。君の見る世界、私とは随分違ってるみたい」



 希望で在ろうとした女王と同じ、月の魔術師。しかし、万人の前に立つ光だった女王とは異なり、リシアが持つのは死を与えるチカラだった。

 共通の神秘を宿したはずなのに、この差はどこから生まれたのだろう。比較するには血筋も、生まれも――何もかもが違い過ぎて、嫉妬心すら芽生えない。同じ名称で括られた“月の魔術師”であろうと、ただ理解できないだけだった。



「その……リシアの旅の目的っていうのは?」



「“イースレウムの黙示録”――この世界の行く末を描いた6冊の本を全て読むこと」



「イースレウムの黙示録……」



「知ってる?」



「名前だけは。創世記から世界の終焉までを記した本だと聞いたことがある」



「そう。コレのことだよ」



 そう言って、リシアは足元に置いていた小さなバッグから一冊の本を取り出した。少し古びているが重厚感のある本だ。とんでもない代物の登場に、思わずアユハは言葉を失う。



「あはは、そんなにびっくりしなくても。これレプリカなの。本物みたいでしょ?」



「いや驚くだろ……これがイースレウムの黙示録……。見た感じは普通の本なんだな」



「これは黙示録の第1巻、“太陽の書”。私の恩師から譲ってもらったの。残り5冊……私は必ず見つけ出すよ。そして、あの人は間違っていなかったと世界に示す。これが……私の夢」



「夢……」



 徐に言葉を切ると、彼女はアユハに向かって目を細めた。澄んだ瞳の中で、降り注ぐ月光が淡く滲む。



「君、ここまで聞いても私のこと怖がらないんだね。この手が触れれば、アユハの命なんて一瞬でのに」



 緩慢な動きで、リシアは足元に落ちていた緑色の落ち葉を拾い上げる。それを指で挟み――刹那、彼女の手が魔術でぼんやりと光り始めた。瑞々しかったはずの葉は瞬く間に塵となり、弱風に攫われて闇夜の中に消えていく。



「……私、こうやって触れたモノの命を奪えるの。正確には触れた相手の魔力を吸って、魔力がなくなると生命力を吸って――その果てに命を、って感じ。現代の人はほとんど魔力を持たないから、簡単に命そのものに干渉できる。……取り込む魔力量は調整できるし、自分が吸ってるのかも分かるからそんなことしないけど……死の魔術が扱えるってだけで、ね。気持ちは分かるけどさ」



 月の魔術の中でも、リシアのチカラは特別だった。通常、“再生”に偏るはずの月の魔術だが、彼女は他人には死を、自分には再生をもたらすことができる。相手の生命を吸い尽くして死を与え、吸収したものは自分の魔力へと還元する。自分のチカラのために相手を殺す――リシアにその気はなくとも、その言葉は事あるごとに吐き捨てられたものだった。

 立てかけていた杖を握り直し、リシアは固い地面を打ち鳴らす。杖に垂れ下がる装飾が、彼女の動きに合わせて控えめに輝きだした。

 ふわりと空に描かれた軌跡に沿って、星々のような光の玉が浮かび上がっては消えていく。それは幼い頃、手慰みに覚えた簡単な魔術だった。――それでも、あの人は大げさに褒めてくれたっけ。



「俺はその“死”に救われたんだ」



「うん。そうだね」



 このチカラはリシアにとっての特別で、周りにとっては異質だった。

 魔術は狩り尽くすべき奇跡のチカラ。強大で、未知なる恐ろしいもの。現代の多くの人間が忘れ、過去の時代に置き去りにしてきた“不必要”。

 だから、リシアは一人で生きていくことを選んだ。自分が枠から外れた人間だと理解している。受け入れる人間が、稀有な存在であることを知っている。

 


「……アユハみたいにね、昔、このチカラを肯定してくれる人がいた。魔術師狩りの思想が残る土地で、私と生きてくれる人がいたの。この夢も、その人からもらったようなもの」



 リシアの語りに耳を傾けるアユハは、彼女から視線を逸らさなかった。全ての言葉を受け止めようとする彼の態度が、彼女の覚悟を後押しする。



「黙示録の中で、神の子イースレウムは世界の終わりを預言した。終末大戦と魔術師狩りの意味。黒獣病はどうして生まれ、なぜ世界はここまで追い込まれたのか。イースレウムの足跡をたどれば……この滅びの理由も分かるのかな」



 何気ない日常で交わしたかつての約束が、立ち止まりかけたリシアの背中を強く押し出してしまった。終わり行く世界で、黒獣の闊歩する大地で、夢を描くなど、馬鹿げていることはリシアが一番理解している。

 それでも、世界を歩くために杖を取った。知るために学を身に着けた。持つべきものは自分の覚悟だけで、周りから理解されることに期待はしていなかったけれど。



「君は……夢を笑わないんだね」



「笑わないよ。夢があったのは同じだ」

 


 晩晴の町を薄月の淡い光が覆い、ふいに二人に影が落ちる。人のいないアルストロメアに涼やかな風が吹き抜けた。

 ぽつりと落ちた彼女の声は、雨上がりの澄んだ空気によく馴染む。



「私に夢をくれた人……私の先生なの。先生、魔術の最盛期――先鋭魔術時代から現代にかけてを研究してる学者でさ。特に終末大戦に詳しかった。私、物心ついた頃からそんな先生の教えを受けて北の大陸を中心に旅をしてたんだ」



「物心ついた頃からって……リシア、もしかして……」



「そう。私、孤児なの。捨てられた。ケモノに襲われてたところを先生に救われて……それからずっと根無し草」



「……ごめん」



「気にしなくていいよ。親の顔、もう思い出せないくらいには小さい頃の話だし。私には先生がいたから」



 何でもないように彼女は語る。しかし、その目の奥に宿る哀愁をアユハが見逃すはずもない。



「……立派な人だった。魔術師が虐げられるあの大陸で、魔術師の私を育て、守り、知恵を与えてくれた人。――もう、二度と会えないけどね」



 目を閉じ、闇を覗く。あの日からリシアの傍らに在り続けるコレは、今日も変わることはない。これから先も、ただにあるだけなのだと知っている。

 らしくもないのに、ずっと考え続けていた。自分は彼にどう寄り添えるのだろう。苦悩の中手掛かりを与えたのは、同じ悩みを抱えていた彼の友クライドだった。



(私だからできること。一つだけ見つけたよ、先生)



 青い空を。鮮やかな花を。静かな森を。

 朝日の眩しさを、星空の広大さを。

 希望の在り処を、彼女は知っている。



「ねえ、アユハ。こんなに人と喋ったの久しぶりなの。もう少しだけ私の自分語りに付き合ってよ」



 絶望するのは、全てを見てきた後でいい。

 そう語るあの声を、もう思い出せはしないけれど。最後まで歩むと決めたあの日の覚悟を、ほんの少しだけでも伝えることができるのならば。

 どこか懐かしそうに紡がれる彼女の言葉に、迷いは存在しなかった。










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