19. オリストティアの冬の騎士 (2)






 黒い鳥が遥か上空を飛んでいた。もちろんカラスなどではない。描かれる軌跡は尾を引くように闇に染まり、やがて曇り空に溶けていく。

 弓兵はソレを視界に収めると、間髪入れずに弓を引き絞った。ひょうと放たれた矢は一直線に怪物を射抜き、地上に打ち落とす。あとは落下地点にいる団員が止めを刺すだろう。クライドは撃墜を確認しながら目の前の黒獣を切り伏せる。



(多いな。この人数で押しきれるか……)



 リシアと分かれたのはほんの数分前のことだ。彼女は指示通り自警団に混ざり、アルストロメアの防壁を守ることに徹している。

 戦いの最前線、アルストロメア南東部にはクライドを含む騎士たちが既に到着していた。しかし、第一戦線を突破して町への侵入を試みる鳥型の黒獣が心なしか増えてきているような気がする。

 不吉な予感だった。ふいにアルヴァレスの惨劇が頭をよぎる。

 


(何があってもここを突破されるわけにはいかない)

 


 今この場で全ての敵を押し返すことができるのならば――些細な人間の戯言くらい叶えてくれるような世界だったのなら、この世はどんなに生きやすかったことだろう。現実は遥かに残酷で、生温い願いなど聞き届けてはくれない。

 その証拠に、ほら。悲鳴に似た報せが響き渡った。



「報告! アルストロメア南西部に新たなケモノの群れが出現!」



 戦線に動揺が走った。報告と同時に大地が揺れる。黒獣の絶叫が戦場を駆け抜け、小鳥たちが一斉に逃げ去った。

 


「騎士団の人間は!?」



「合流の報せはありません! 現在は自警団のみで応戦している模様!」



「こちらも戦力を裂いている余裕はないぞ……!」

「頭上! 接近注意!」



 嘆きに被さった警告を合図に、弾かれるようにして空を仰いだ。



「なん、だ、この数は……!?」



 そこにあるのは、辺り一面を埋め尽くす黒、黒、黒。突然の夜の訪れを錯覚しそうになるそれは、言わずもがな翼を持つケモノが作り出している光景である。

 耳を裂くような奇声がアルストロメア中に響いた。それはまるで、宣戦布告でもするかのように。雪崩込んだ黒い獣が次々に団員と肉薄していく。剣で敵を切りつけながら、クライドは叫んだ。



「南西部の群れの規模は!」



「ここよりは小規模のようですが、空が瘴気で染まっているとのこと!」



「頼む、ってくれ……!」



 頬を流れる大粒の雫を手の甲で乱暴に拭い取った。それが水だか汗だか判別がつかなくなったのは、最悪のタイミングで降り始めた雨のせいである。



「くっ……!」



「クライドさん!」



 黒獣の薙ぎ払った腕が頬を掠める。上体を反らして回避するが、その隣でも別のケモノがクライドの隙を待ち構えていた。半ば反射で敵を切りつける。喉を潰した鳥のような奇声を浴びながら、そのまま努めて冷静にコアを貫いた。

 しかし、たかが数体を仕留めたところで眼前には山のような黒獣が蠢いている。病の雲海は広がるばかりで、勢いが削がれることはない。



(南西の防壁を守らなければ町が危ない。……だが向こうに割く人員もないぞ。自警団に任せるしかないのか)



 士気を昂らせるようにケモノが絶叫した。心臓にまで空気の振動が伝わり、クライドは思わず息を呑む。

 ――アルヴァレスの、あの街で。騎士団の制服を着た誰かがアリの如く踏み潰される光景が蘇った。ペンキを零したように広がる赤と、湿った肉の臭い。吐き気を催す暇もなく、また一つ、黒獣の咆哮が響く。



「ひっ……! 来るな、こっちに来るな……!!」



 “あの日”の記憶に呑み込まれた団員の震えた声が戦線を支配する。恐怖の伝達はあまりにも早い。アルストロメアを守るために燃え上がっていたはずの士気は、目に見えて削がれ始めていた。

 


「……っ、隊列を崩すな! 前を見ろ!」



 仲間の崩れ落ちる音が次第に増える。間近に迫る死への恐れと、騎士としての誇りの狭間で彼らは揺れた。理性と感情の間で立ち尽くし、硬直する者から順に、聡明な害獣は牙を突き立てていく。

 アルストロメアに迫る大量の黒獣。この手に懸かる民の命。最悪の天候の中で減る一方の味方と、脳裏を巡るアルヴァレスの悪夢。

 あの景色は二度と見たくなかった。仲間を失うのも十分だ。喰われる民を諦めるのも、黒獣化した顔見知りを殺すのも、もう。



「クソっ……」



 確実な一手が足りない。騎士団員の命を繋ぎ、敵の進行を止め、アルストロメアを守りきるには、あと一息が足りなかった。

 無いものを望んだところで戦況が変わるわけでもない。それでも、心のどこかで期待してしまう。あの剣士の姿を探してしまう。――それがたとえ、彼への酷い裏切りだと気付いていても。



(……これが、きっと。縮まらない距離の理由なんだろうな)



 衝撃を受けた出会いからずっと、その背を追いかけ走ってきた。あの剣に近付くために過ごした日々は何のためにあったのだろう。結局はこうして、人に縋らなければ自分は戦場で生き残れない。

 与えられた選択肢は二つだった。自警団を信じて目の前の戦いに集中するか、防壁まで戻り二つの群れを相手取るか。運命の分岐を慎重に見極める。

 ――涙に濡れるあの姿は忘れてやりたかった。クライドが選べるのは、僅かでも皆の生き残る可能性が高いもの。友を苦しめる可能性が低いもの。



「……仕方ない。一時撤退! 一度態勢を整え、自警団とともに……」



「いや、その必要はないよ」



 悩みに悩んで、仲間の命を優先する。しかし、その選択をも否定したのはここにいてくれればと望み、来るなと願っていたアイツだった。

 聞き慣れた声が空から降ってくる。見上げれば、よく知る最強が涼しい顔をしてクライドの真横に降り立った。



「アユハ……!?」



「状況は」



「っと……こっちは見ての通りギリギリだ。南西部でも新たな群れが確認されている。そっちは自警団のみで応戦中」



 始めに感じたのは深い安堵だった。そして、後から追いかけるようにどうしようもない不甲斐なさがクライドを襲う。しかし、一喜一憂しているような暇はない。思い直し、素早く周囲の様子を確認した。

 騎士団の印をつけた馬が訓練通り安全圏まで走り去っていく。なるほど、ここまで全速力で駆けてきたらしい。そういえば彼は町近郊の巡回中だったと思い出した。



「アユハ……? あのアユハ・コールディル!?」

「冬の騎士がなぜアルストロメアに……」



 アユハに気付いた面々から口々に明るい動揺が聞こえてくる。しかし、当の本人は背後をただ一瞥しただけであった。その様子は気にしていないというよりも、慣れていると表現した方が正しいのだろう。それほど、彼の名は騎士団と――戦場とともに在るものだった。

 


「増援がすぐに到着する。その前に俺は……先走ってきた分、きっちり働くとするよ」



「お前、体は」



「……あんな醜態はもう晒さないさ」



 直後、周囲の空気は一変し、底冷えするような覇気が溢れた。その主であるアユハは、一人群れの中へと緩慢に歩んでいく。彼の銀眼はひどく丁寧に黒獣病者たちを舐め、まるで最初の獲物を吟味しているかのようだ。



「さて。久しぶりの出番だ――冥姫めいひめ



 するりと撫でるは、アルストロメアを訪れて以来ただひたすらに沈黙を貫いていた一振りの愛剣。銀細工の施された繊細な柄を右手に握り、鞘から引き抜く勢いとともにまずは一体。最前で大きな予備動作を見せたケモノの首を刎ねてコアを砕く。

 そして、刹那。

 ――凍てつく風が、剣士を取り巻くように広がった。



「あれ、が――」



 アユハの下げた腕の先、静謐な光を湛える刃を見る。使用者をも凍り尽くさんばかりの冷気は唸りをあげながら渦巻き、まるで冷たい炎がケモノの群れを呑み込むように吹き荒れる。

 


巫覡ふげきつるぎ――」



 彼らが目の当たりにするのは古き伝説であった。

 かつて、人の時代が栄えた頃。黒獣病のない世界。極東の刀鍛冶が“神ノ石”を用いて六振りの剣を作り出したという伝説が存在する。それが“巫覡の六剣”。黒獣病に抗い得る奇跡の六本。



(……相変わらずなんて冷気だ)



 驚愕のあまり絶句する団員たちを一瞥もせず、アユハは駆ける足を徐々に速めていく。彼の通った道の上に黒獣の姿はない。それは、圧倒的な戦力差を単騎で覆す勢いだった。

 巫覡の剣「冥姫」は黒獣と戦うために生み出された剣である、とクライドは聞いている。剣から広がるは体を蝕むケモノの瘴気を浄化し、剣の周囲が冷え込めば冷え込むだけ空気は元の正常な状態に戻っていく。ひとたびその刃で黒獣を切りつければ、冥姫のチカラと衝突した損傷部位は一時的に再生能力を失うのだとか。

 つまるところ、冥姫なる剣は黒獣の脅威を半減させ、終末大戦から今日まで暗澹の未来を淡く照らしてきた希望の剣の名であった。眉唾物の伝説は、今日もこうして目の前でふわりと舞っている。



「弓隊!」



 瞬く間に形勢逆転した戦線を、隊士たちは呆けた様子で眺めているだけだった。指名を受けてようやく我に返った弓兵たちは、一拍遅れてアユハのもとに整列する。



「目標、直上の鳥型! 一斉射撃で撃ち落とす!」



「「はっ!」」



 直後、キリキリと矢を引く音が背後の至る所から聞こえてきた。クライドは聖剣に見逃された黒獣を討ちながら、先に立つアユハの横顔を見る。そこには凍てつく戦場の中心で敵を屠りながら、上空を見据える冷酷な眼だけがあった。



「焦るなよ。当たらなければ意味がない」



 息を呑むような緊張感が空間を支配する。喧騒に晒されながら、彼の指揮するこの場だけが異様な静寂に包まれていた。

 しかし、それも一瞬。



「放て!」



 ――それはまるで夜明けの如く。クライドは黒天が晴れる様子をこの目で見た。瘴気の天蓋を抜けた先、そこにあるのは雨の叩き付ける生憎の曇り空。悪天候も甚だしいが、自然がもたらす色に確かな生命の息遣いを感じる。

 黒獣の勢いが一時的に弱まった。その隙にアユハは騎士団の面々に素早く指示を飛ばす。



「クライド、ここの指揮はお前が続けてくれ」



「お前は?」



「南西部に向かう。ここはケモノの突破を防ぐことだけに集中しろ。増援の到着まで耐えれば俺たちの勝ちだ」



「了解。武運を」



 散会し、クライドの指示を受けた隊員たちが即座に持ち場に就いて迎撃を再開する。

 ひらりひらりと戦場を駆けるアユハは、適当に数名を引き抜きながら戦線を離脱した。たった一人の剣士によって飛躍的に高まった士気を前に、もはや数人の抜けなど気にならない。目の疲労を避けるために神速の剣技を追うことは早々に諦め、自分の戦場に集中する。

 月色の刀身は銀炎の軌跡を描きながら、やがて防壁に向かって消えていった。










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