18. オリストティアの冬の騎士 (1)
アルストロメアの南西部、住民たちの憩いの広場は現在、所狭しと机の並ぶ野外医術院としての機能を果たしている。アルヴァレスに異変が起きたあの日以来、王都からは多くの傷病者がこの地に押し寄せた。町の医術院はすぐに患者たちで溢れ返り、苦肉の策として築かれたのがこの仮設医術院である。
町中の椅子と机、それから寝台をかき集め、整然と並べられたそこに白い幕が垂れ下がる。急ごしらえながらも丁寧に区画化された光景は、この町が以前から
クライドは狭い通路を歩く医術師たちをぼんやりと眺めていた。仲間の騎士の付き添いで訪れたこの場であるが、想像以上に閑散としている。患者たちで溢れ返る阿鼻叫喚の現場を想像していたクライドとしては、嬉しい誤算だった。
(……この明るさは救いだな)
軽症者向けに作られた仮設医術院には、医術師の他に有志の町人が働き詰めていると聞いている。あまりにも多い傷病人を前に不足した医術師の穴を、今は彼らが埋めていた。
至るところから駆けつけた人々が、初めて出会った赤の他人を救っていく。不安を抱える状況は同じであるのに、彼らは絶望に呑まれる王都の人間たちを懸命に支え続けていた。
数えきれないほどの想いが、数えきれないほどの命を繋いでいく。救われた側であるクライドは、その尊さを身をもって知っていた。あの災禍から生き延びた。迫りくる黒獣病から逃げきった。この地でまた、人と言葉を交わす喜びを噛み締めている。
――だから、余計に案じている。誰よりもその重みを知るはずの彼が、寂しそうに町を眺める姿を直視できないままでいた。
(アイツ、笑ってたな……)
苦しい話だった。信じたくはなかった。嘘ではないと分かるから、逃げだすこともできなかった。
彼の震える背を見たのは初めてだ。あの瞳が曇るのも、弱々しい声も、隠すように伏せられた泣き顔も。
最後には本人よりも号泣した自分が、苦笑いのアイツに背をさすられる事態になってしまったけれど。今までの“彼ら”を知っている身としては、辛くて辛くてどうしようもなかったのだから許してほしい。
(俺は……どうすればアイツの力になってやれるだろう)
無理に笑わなくていいと、あの時の自分はきちんと伝えただろうか。
この野外医術院が元の広場に戻る日は近いだろう。それは、あの日から人々がほんの少しだけ日常に戻る日。戦場がほんの少しだけ民から遠ざかる日に。アイツはまた、人々の明日を創るために先陣切って剣を振るうのだろうか。どうしようもない想いを抱えて、あの方のいない、この国で。
「はあ……」
「ふふ、大きな溜息ですね。何か悩みでも?」
「っ!?」
苦笑を滲ませた言葉が真横からかけられた。驚いてそちらを見れば、最近知り合ったばかりの彼女がこちらに向かって軽く頭を下げる。どうやら近付いてくる人の気配に気付かないほど思考に没頭していたらしい。
「リシアさん……失礼しました」
「こんにちは。……どこか具合でも?」
「いえ、同僚の付き添いで。自分はただの休憩時間です」
彼女は持っていた大きな杖を机に立てかけると、そのままクライドの斜め前に自分の位置を確保した。すぐに立ち去るのではないと察するが、クライドは次に発するべき言葉を掴み損ねる。何となく気まずい沈黙を先に破ったのはリシアだった。
「アユハのことでも考えてました?」
「……ええ、正解です。そんなに分かりやすかったですかね、俺」
「いいえ、そんな気がしただけです」
彼女はアユハの命の恩人だ。クライドがリシアに対して持っている情報は少ないが、信用に足る人物だということは理解していた。
そもそも、彼女と出会ったのは北門の騒動を解決した直後である。再度の不調に倒れたアユハを医術院に運んだ際、偶然ロビーにいた彼女が誰よりも早く、血相を変えてこちらに飛んできた。事情を聞いて、その行動の理由に納得する。彼女は、自分たちの知らないアユハの空白の時間を把握している唯一の人だった。
「あなたは随分アユハのことを気にかけてくれるのですね」
「……自分の魔術の経過を見ているだけです。初めて使ったものだったので」
「ふふ、そうですか」
誰もが一瞬先の未来を保証できない世界。見知らぬ大地を踏んだばかりの旅人が、未曽有の危機に襲われたこの国で、助かる見込みのほとんどない他人を救っていた。
彼女は最初、彼の命を繋いだ理由を“魔術師としての好奇心”だと言っていた。それも嘘ではないのだろう。しかし、例え自分のためだとしても、彼女があのアルヴァレスで人を救ったことは事実である。
「助ける」と口で言うのは簡単だ。しかし、それを実際の行動に移す人々ばかりの世界ではないことを、クライドはよく知っている。その行為がいかに稀有なものであるのかを、還らない仲間たちを想うたびに噛み締めている。
「ところで、リシアさんこそどうされたのですか? どこか怪我でも……」
会話の途切れた白幕の下は静かな空間だった。穏やかな沈黙を破り、リシアは意を決して口を開く。
「……いえ。実は……クライドさんの姿が見えたので。話があって声をかけたんです」
「俺に……ですか?」
「ツルイさんにも……アユハにも、です」
リシアは机に身を預けるように崩していた姿勢を正し、彼の正面に動く。真っすぐに目を見上げるのは、こちらの誠意を伝えるため。この罪を告白するため。
真剣な様子にクライドも気付いたのか、和やかだった空気が一転する。彼はリシアの言葉をただ静かに待っていた。
「この間の三人の話――王女様の話、聞いてたんです。ちょうどアユハを探してて、その時に……」
「……」
「すみませんでした。言い訳はしません。盗み聞きしていたことも、本当はもっと早く言わなければならなかったのに逃げていたことも認めます」
頭を下げたままリシアは微動だにしなかった。クライドは謝罪する彼女を前にして、黙り込んだまま何も言わない。
アユハの抱える事情を耳にすることになったきっかけは、あの屋上での会話だった。彼の心に土足で入り込んだ無礼を謝りたくて、別れた直後に会議に向った彼を追いかけたのだ。既に込み入った話をしているようならば、すぐに退散しようと思っていた。しかし、三人だけの空間を伝って届いたソレがリシアの足を引き留める。
震える声が、聞こえてしまった。悲痛な叫びが、届いてしまった。それは誰のものでもない、“彼”の言葉だった。
傷の具合を確かめるリシアに対して「もう大丈夫」と笑う彼が、何かを隠していることには気付いていた。しかしそれは、出会ったばかりのリシアが踏み込むものではないことも理解していた。
だけど、それでも――ただ純粋に、彼のことが知りたかった。
「顔を上げてください。責めたりなんてしませんよ」
「……え……?」
好奇心に抗えず、大きな過ちを犯した。それに対する罰があることは当然で、覚悟したうえで頭を下げている。
それにも関わらずクライドは今、責めはしないと、そう言わなかっただろうか。予想していなかった展開に思わず顔を上げれば、些か困惑気味の彼がこちらに笑いかけている。
「謝罪すべきは我々です。ただでさえ不安な状況に余計な心配事まで加えてしまった。申し訳ありません。もっと周囲に気を配るべきでした」
「や、やめてください! 私が謝ってもらうことなんて……!」
深々と頭を下げる彼に慌てたのはリシアの方である。忙しなく手を振りながら拒む彼女に、クライドは至って真面目な表情で続けた。
「不躾ながら、一つお願いをしても?」
「は、はい」
「会話の内容はどうか内密にお願いします。我々だけで解決できるような問題でもないですし……何より、国の士気に関わるので」
(――あ、)
クライドの言わんとすることはすぐに理解できてしまった。王都の陥落。王族の死。騎士団の――“最強”の敗北。どれを国民に知らせても、与える影響は目に見えている。終焉の淵で戦うこの国は、一気に終わりへの道を加速させていくことだろう。
(なんて……苦しい立場なの。彼も、この人たちも)
故郷の悲劇を、大切な人の死を、ただ偲び、声を上げて泣くことすら許されない。全てはその身に王国の未来を背負うばかりに。世界が刻々と終わっていくばかりに。彼らには立ち止まる時間すらも与えられていないのだ。
「約束します。誰にも、決して言いません」
「ありがとうございます」
「誓約書でもあれば名前書きますけど……」
「いえ、必要ありません。あなたなら信頼できる。口約束で十分です」
逸らされることのない真っすぐな視線には戸惑うばかりだ。
「どうして……そんなに信じてくれるんですか」
リシアには分からない。素性も知れない人間の言葉を信じる心理も、過ちを犯した人間を許す心根も。
彼女は彼らの信頼に応えられるほどの行動を示していない。それとも、国の守護者となる者たちは皆、このような人間ばかりなのだろうか。――
混乱するリシアを前に、クライドは変わらない姿勢で真摯に答えていく。
「あなたがアユハの恩人だから」
クライドが彼女を信じる理由など、単純にして明快だった。
「そ、れは……ただの偶然です。私は魔術師として、自分の限界を知りたかっただけ。助けたのは気まぐれです」
「それでも、リシアさんがいなければアイツは――」
「……そうだったかもしれないですけど……」
クライドはリシアに向き合いながら、柔らかく微笑む。その表情があまりにも穏やかで、続けようとした言葉は飲み込まざるを得なかった。
「大切な友人なんです。救ってくれてありがとう。あなたに心からの感謝を」
「私は……自分がその言葉に見合った行動をしたとは思ってません。それに、アユハは自分が助かったことを……」
「……それでも、です。たとえアユハが認めていなくても……俺はアイツを失わずに済んだ。自分もあなたに救われたんです」
何人も、何人も見送ってきた。再会を望み、その度に裏切られてきた。今回も、もしかしたら――なんて。考えなかったと言えば嘘になる。
「……そっか。少し、安心しました」
「安心?」
「彼は独りじゃないんですね」
目を覚まして以来、医術院の屋上から呆然と町を見下ろす彼の姿を見かけることがあった。凪いだ眼差しの下、その瞳には何も映っていないのだと気付いてしまったのはいつのことだったろう。
感情を失った灰色の瞳は、それでもどこか寂しそうで。迷子のような視線は何かを必死に探し続けているのに、彼から助けを求める言葉はない。
あれからずっと、何ができるのかを探している。どうでも良かったはずの他人に興味を抱いている。自分の中の変化には戸惑うばかりだ。
「……支えがそばにあること。それが人でも、物でも何だっていいけれど、近くで感じられるのと、そうでないのとでは何もかもが違います。アユハのそばにはクライドさんたちがいてくれる。……たとえ、今のアユハが望んでいないとしても。彼はどうしたって独りにはなれない」
「それは――」
まるで身に覚えでもあるかのように彼女は言う。
――それは、あなたが経験したからなのか。浮かび上がった疑問が口から出ることはない。リシアの深い場所に触れるような行為は、クライドにはできなかった。
その代わり、少しだけならこの胸のわだかまりを吐き出すことは許されるだろうか。クライドは誰にも言わないまま秘めてきた心の内を打ち明ける。
「……あなたはそう言ってくれますが、実際は何もしていません。結局、どんな言葉を掛ければいいのかさえ迷ってそのまま。一人で苦しむアイツに、自分がしてやれることが分からなくて――ですが……今、少しだけ掴んだような気がします」
「……?」
長年、多くの者が知らない彼の素顔を見てきた。誰よりも研ぎ澄まされたあの剣に宿る誓いが、誰のためにあったのかを知っている。
一時は、あの鮮やかな剣技に憧れた。そして、何をしても縮まらない距離に現実を思い知った。いつか堂々と彼の隣に並び立つために、強く在ろうと追いかけ続けている。
それでも、まだその背は遥か遠く、一向に届く気配はしていない。壁に直面するたび、悔しさで歯を食いしばるばかりだけれど。
この声の届かない場所で、友が一人で崩れていくくらいならば。この手が届かなくとも、また前を向いてくれるのならば。
「アイツのそばにいてやってくれませんか」
「……私が……?」
「あなたが、です。きっと、今のアユハに必要なのは俺のように多くを知っている人間じゃない」
心の底の、奥の奥。彼の沈めた本心が、彼女になら引き出せる。そんな予感がした。
「……それが正解だとは思えません。そもそも、私は“魔術師”です。そんな存在に何をしろと?」
「我々に
クライドの言葉に顔を上げる。目が覚めた気分だった。ぼやけていた視界が急激に晴れるような、そんな感覚。
リシアだけが知る世界。確かに、クライドの言うことには心当たりがあった。記憶の中の“あの人”が教えてくれたそれを確かめたくて、こんな世界に飛び出したのだから。
「……私は――」
「!」
リシアの言葉は途中で遮られた。不吉を知らせるアルストロメアの警鐘によって。
「これは……!」
「まさか、またケモノが……!?」
黒獣の襲来を知らせる鐘の音が町中に響き渡る。のどかだった野外医術院に走る緊張を感じ取った。人々の騒めきがリシアの心を不穏に揺らし、鼓動を逸らせる。
「話の途中ですが行きます! リシアさんはここから離れてなるべく町の中央に。騎士団の詰所があるので彼らの指示に従って……リシアさん?」
「私も行きます。近くにいるのに逃げるなんてしません」
「しかし……!」
机に立てかけられていた杖は既にリシアの手に取られている。銀色の長い得物は彼女の身長を優に超え、動きに合わせて揺れる装飾が星々のように煌めいた。凛とした佇まいはどこか持ち主を彷彿とさせ、静謐の中にぶれない一本の芯を見出す。
その立ち姿は確かに戦う者の様だった。クライドの複雑な胸中を知るはずもないリシアは、自信の乗った笑みを彼に向ける。
「言いましたよね?
得意げに笑うリシアに対し、クライドの反論する余地はなかった。言葉を詰まらせたのも一瞬、すぐに意見を改める。
「……分かりました。リシアさんは自警団に混ざって町の防衛をお願いします」
「了解です。行きましょう!」
言いながら走り出した彼女の後に続く。駆けだした二人を、鳴り止まない警鐘が追いかけていた。
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