17. 涙






 淡々と進められるその報告を、ツルイとクライドは微動だにせず聞いていた。

 閑散とした医術院の共有スペースに湿気を含んだ空気が流れ込む。それはまるで、死に際の人間のように生温かい。



「アルヴァレスにおける報告は以上です。あとは……」



「アユハ」



「死亡を確認した隊士の身分証は後ほど提出します。さすがに全員分は回収できませんでしたが……」



「アユハ!」



 止まらない話を遮るようにツルイは彼の腕を掴む。怪我が痛んだのだろう、身構えていなかったためか、珍しく顔が苦痛に歪んでいた。しかし、構うことはない。



「なん、ですか」



「なんですか、じゃない。他に言うことがあるだろう」



 ツルイの言葉にアユハが分かりやすく硬直する。そっと腕を掴んだ手を離せば、彼は車椅子に座る先輩兵に目線を合わせた。常と変わらず、その瞳が揺れることはない。



「報告が遅れ、申し訳ございませんでした。内容については一切の弁解の余地もありません。全ての責任は……」



「違う、そうじゃない。そういうことを言いたかったわけじゃない」



 車椅子に身を預けたまま、目の前に立つアユハを見上げる。その灰色の目に感情はない。それがかえってツルイの疑念を確信に変える。

 この男は、昔から心を殺すことが得意だった。



「大丈夫か、お前」



「……大丈夫、とは」



 不自然な沈黙の後に継がれた言葉の尾が震える。その異変に気付かないほど二人は鈍感ではない。

 ツルイの真意は伝わっていないのだろうか。彼らのやり取りを見守っていたクライドは、それとなくアユハの顔を覗き込んだ。目を見張ることになったのは、長年をともに過ごしてきた同期の異常が、目に見えて現れていたからである。



「お前、寝てないだろ。ずっと怪我のせいかと思ってたが……そういうわけではないな」



 怪我の具合はクライドから見ても明らかに改善している。そうであるにも関わらず、薄くならないどころか日に日に濃くなっていく隈の理由にようやく辿り着いた。

 なぜ気付かなかったのだろう。なぜもっと早く話してくれなかったのだろう。思い当たる理由は山ほど存在するが、ここまで抱え込まなくても良いではないか。握りしめた拳が震えるのは悔しさだろうか。それとも行き場を失った怒りだろうか。

 しかし、こちらの葛藤など露知らず、彼は何事もないとでも言うように淀みなく返答する。



「主を守りきれずに殺した人間が、どの面下げて眠れと」



「あのなあ……」



「俺の役目、知ってるだろ。この身は王女の盾に、この剣は王女の道を切り拓くために存在する。そんな人間に、もう一度同じことが言えるのか」



「……」



 理解している。アユハがどれほど特別な立場にいる人間かを。そして、それ以上に知っている。彼が、そこにいるためにどれだけのものを捧げてきたのかを。

 アユハ・コールディル。その名が王国最強の剣士として知られる所以を、ずっとそばで見てきたのだから。

 オリストティアの冬の騎士、その異名をほしいままに戦場を駆ける青年は、たった一人の主人に命を捧げた。その主こそがティエラ・ルミ・オリストティア。オリストティア王国の王女にして、次期国王――になるはずの人だった。



「あの日、俺には誰よりも優先すべき人がいた。だからみんな、見殺しにして置いてきたんだ。それなのに……結局、俺は誰も守れなかったんです。民も、仲間も――ティエラ様でさえも」



 あの日、未曽有の危機を前にして数えきれないほどの国民が命を落とした。アルヴァレスの道を進むにつれ、次々と仲間たちが力尽きる。劣悪な環境で万全な処置を施すことは叶わず、彼らのために歩みを止めることも許されない。豪雨の中、瀕死の仲間たちを置き去りに生への道を進むのだから、恨み言の一つや二つ、遺してくれれば良かったのに。

 王女を、民を、国を、守ってくれと。この意志を、繋いでくれと。いつか、王国に確かな未来をと。死にゆく彼らが思い思いにアユハに託す。あまりに清い遺言は、巡りに巡って呪いのようだ。

 その願いの全てを抱え、背負い、最後の時まで生きること。それが彼らに示す敬意で、自分なりの贖罪だと思っていた。いつか、必ず果たすと誓ったのは偽りではない。叶うと本気で信じていたのだ。あの人とともに歩む、この道ならば。



「あいつらは……ティエラ様は、最期にお前を恨んだか?」



「……いいえ」



「だろうな。みんな、お前に散々守られてきた。お前なら自分の言葉を忘れないでいてくれることも知っている。そういう姿をお前はずっと示してきたんだろ」



「……」



「きっと、残されたのは悔しさだけではなかったはずだ。道半ばで尽きても、まだお前がいる。お前が走り続ける限り、生きた証は残される」



 たとえば、気の遠くなるような闘いの果てに、ツルイがいつかどこかで尽きるとしたら。願いを、意志を、迷うことなくこの後輩に託すのだろう。彼は決して忘れない。彼ならば、自分をそこに連れて行くと知っている。



「誰も守れなかっただなんて、よりによってお前が最初に終わらせるなよ。まだ溢れるほど残ってるだろ。この町に、アルストロメアにいながらお前は――自分の行いを全て否定するのか。ここで生きる民たちを見なかったことにして」



「そんなことは……」



 誰よりも先を走って追い付かせもしないくせに、振り返っては手を差し伸べる彼の優しさに支えられてここにいる。揺るぎない強さに甘え、この時代を生きている。

 周囲にいる人間が、彼と同じ景色を見ることは叶わない。だから、せめてどこまでも信じてやりたかった。騎士としてではなく、この終焉の中に生まれ、剣を持ち、明日のために戦うことを選んだ同志として。の願いは、必ず叶うものなのだと。



「……アルヴァレスは堕ちました」



「ああ」



「民も、仲間も。たくさんの人々が死にました」



「……ああ」



「そして……俺が、オリストティアの希望を絶ったんです」



 強力な指導者を失った王国の行く先は暗い。黒獣病に対して長らく善戦してきたオリストティアの状況は、じきに大きく傾くことだろう。

 全ては、王女を守りきれなかったばかりに。

 どれだけ巡る町を眺めようと。どれだけケモノを狩り尽くそうと。あの人が自分の前を歩く日々はもう戻らない。この名を呼ぶことは、もう二度とないのだと理解してしまった。



「今、この国に必要なのは俺のような人間じゃない」



 この手は敵を屠ることしかできない。暗澹を歩む国の光となり導くことは叶わない。どれだけ名が広がろうと、一人では何もできないのだと自分が一番よく知っている。

 それでも、空っぽだった剣に意味をくれた人がいた。何を犠牲にしても、そばにいたい人がいた。黒獣病からの勝利を誓ったあの方の。民を憂うあの人の。平和を夢見た彼女の、道を拓く剣で在りたくて。

 貴女を守り、果てるのなら。それが本望だった。



「なのにどうして……! どうして、俺だけが……っ!!」



 目覚めた瞬間、まだ続いていた生に抱いたのは絶望だった。耳鳴りのような雨音が、あの日からずっと鳴り響いている。手を滴り落ちる黒い液に、吐き気を覚える白昼の幻覚。黒い獣が、虚構を映して嗤っていた。



『――、――――』



 誰よりも耳にしたはずのあの人の声が、日に日に曖昧になっていく。あの瞳も、笑顔も、王都を見渡す横顔も、いつか思い出せなくなる運命ならば。霧とともに散りゆく体を抱いたあの記憶も、夢のように消えてしまえば良いのに。

 都合の良い願望は叶わない。遺された言葉すらも思い出せないのは、疑う隙もなく罰なのだ。



「……ぅあ、」



 止めどなく脳内に溢れ出した、あの日の記憶に耐えきれず崩れ落ちる。小刻みに震える背に、慌てたクライドが手を置いた。いつの間にか荒れた呼吸が耳障りだ。



「大丈夫。大丈夫だから。落ち着こう、な?」



 彼らの希望を奪い取った。光を消した。こんな風に支えてもらう権利など、もうどこにも残されてはいない。

 憎めば良い、恨めば良いのに。どんな罰を課されたとしても、許しを請う理由などないのだから。

 ――それなのに、溢れ出した涙の止め方が分からなかった。オリストティアの滅びのきっかけを作ったかもしれない自分に、泣く資格なんてない。泣きだしたいのは、知らない間に導きを失っていた彼らの方だというのに。

 旧友の手から伝わる確かな温もりが、凍てついた心を溶かしていく。罪の意識に苛まれ押し潰されそうだった本心が、か細い声となって零れ落ちた。



「おれ、この手で、あの人を……っ」



 あの人のために磨いた剣だった。

 あの人と歩むこの道に確かな明日を描いていた。

 誰よりも大切で、この命に代えても守ると誓った人だった。

 生きたかった。生きていきたかった。あの人と二人、この世界をどこまでも。

 あの日から、ずっと。コアを貫いた感触が手に染みついて離れない。



(……ティエラ様。なぜコイツを置いて先に逝ったのです)



 引き攣るような嗚咽が三人だけの広い空間を満たす。

 声を上げて感情のままに悲しむことも、彼には許されないのだと知ってしまった。全ては、その名が人々の希望であるばかりに。剣に掲げた誓いが、あまりにも清廉であるばかりに。

 いかなる逆境であろうと民の前に立ち、道を拓いてきた彼が絶望に呑まれる姿を見る。

 あの最強が泣いていた。










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