16. なんのために
「さて、そろそろ俺は戻るが……くれぐれも町に出るなよ? くれぐれも」
「分かった分かった。薬でフラフラしてるからあんま動けないって」
「信じられるか。前科あるのを忘れるなよ」
北門の騒動から数日が経過していた。医術院のアユハの部屋にはクライドが顔を出している。ベッドに腰掛けるアユハと向き合うようにして椅子に座った彼は、呆れた表情を隠しもせずに深々と溜息をついていた。
絶対安静の状態でケモノを相手に立ち回り、それを原因とした発熱が続くこと数日間。ベッドと一体化するような生活も解熱とともにようやく終わりを迎えたが、回復したアユハを待っていたのは案の定ツルイの激しい雷であった。こってり絞られたのは言うまでもない。最終的には医術師の許可が下りるまでクライドが定期的に様子を見る――という名の監視が付くことで落ち着いたが、あの先輩兵が納得していないことだけは確かだ。
しかし、上司の言いつけを律儀に守って部屋を訪れるようになった戦友のおかげで、体調が目に見えて改善したのも事実である。まだ違和感こそ残るものの、件の騒動時のような明らかな不調は消えた。常に刺されているような痛みからの解放は、心に幾ばくかの余裕を生み出している。
「……アユハ」
「うん?」
扉に手をかけ、退出していく直前のクライドが動きを止めた。肩越しに振り返った彼は、眉をひそめて何やら神妙な顔だ。
「お前さ、その……」
クライドの視線がアユハから逸らされた。その口は次の言葉を発しそうで、しかしそうはならずに不自然な沈黙が部屋を満たす。彼が何に頭を悩ませているのか、その重々しい静寂の中で何となく察しが付いた。
「アルヴァレスでさ……あー、いや、その…………そうだ。お前、最近リシアさんと会ったか?」
「……会ってないけど……というか、彼女のこと知ってるんだな」
「お前が寝てる間に知り合った。『どうしてこんな無理させたんだ』って怒られたよ。……彼女、お前のこと随分と気にかけてる。ちゃんと礼しろよ」
「ああ……分かってる」
「……ならいい。じゃあな」
クライドはまだ何かを言いたそうであったが、アユハに追及される前にさっさと部屋を出て行ってしまう。一人になった部屋に、静寂が訪れた。
剣の手入れは既に終えている。怪我人に渡すものはないと騎士団の仕事も回してはくれなかった。つまり、話し相手のいなくなったアユハは完全に時間を持て余すことになる。軽い運動でもできれば良い暇つぶしになるのだが、それを実行した暁には今度こそツルイの怒りが収まらなくなるだろう。アユハとしても、恩ある先輩にこれ以上迷惑をかけることは本意ではない。
とりあえず、室内の空気でも入れ換えようか。そう思い立って窓を開けば、爽やかな外気が流れ込む。血と薬品の匂いが混ざる部屋が洗われていくような心地がした。呼吸が楽になったような感覚は、おそらく気のせいではないのだろう。
窓から見えるアルストロメアの町は、今日も穏やかに回っているように見えた。平穏なこの町を眺めていると、世界の直面する終焉などうっかり忘れてしまいそうになる。
目の前に広がる光景は目指していた平和そのものだった。黒獣のいない世界は、どこに行ってもこんな町並みが続くのだろうか。この剣が必要とされない世界。それは、もしかするとひどく退屈で、あまりにも眩しい――。
「……分かってるよ、クライド。お前の言いたいこと」
このまま部屋に留まってはいけないと本能が告げていた。溜息を一つ、窓はそのままに身を翻す。壁に立てかけられた自分の剣が視界に入るが、逡巡ののち、アユハは何も持たずに部屋を後にした。
解放感のある医術院の屋上ならば、陰鬱とした気分も少しは紛れてくれるだろうか。今日も今日とて鈍色の空が広がっているが、雨の気配は遠い。
何の面白味もない退屈な曇天を、ただぼんやりと見上げていた。このように生産性の欠片もない時を過ごしたのは、いつ以来だったろう。前まではもう少しだけ近くにあったような気もする空は、いつの間にか随分と距離が開いてしまったようだ。
「あ……」
そんなアユハを現実へと引き戻したのは、扉を開く音とともに現れたリシアである。彼女はアユハの姿を見つけるや、様子を窺うような素振りを見せながら歩み寄ってきた。色素の薄い金髪がリシアの歩調に合わせて揺れる。
「ちょうどよかった。少し話せる?」
有無を言わせないその言葉にどこか棘を感じた。アユハを見つめる瞳は恐ろしいほどに静かで、何の感情も読み取れない。常とは異なるその様子は、どう見ても――。
「……怒ってるな」
「理由が分からないとは言わせないから。……北門でのこと全部、クライドさんたちから聞いた」
言われた通り、彼女の憤る理由には心当たりしか存在しない。こちらを射貫く視線に気圧され、アユハは逃げるように目を逸らす。納得してもらえるような言葉を探す間に、淡々とした彼女の追及が始まった。
「あんな大怪我を負って動くのもやっとだった状態で、ケモノと戦うなんて正気じゃない」
「……分かってる。だけど、すぐに対応しなきゃ町はケモノに呑まれてた。近くにいたのは俺たちだけだ」
「だから君が自分の命を削ってまで戦ったのは正しかったとでも? アルストロメアの自警団はそんなにヤワじゃない。救援だってすぐに来たはず」
「なら、町の危機を放って寝てればよかった? 俺は騎士だ。国を守る立場にある騎士が、そんなことをして許されるわけがない」
「騎士とか立場とか、そんなこと今話してない! 私はアユハの話をしているの! 君が自分を優先しなくてもいい理由、私が納得できるように説明してよ!」
開かれていた数歩分の距離をリシアが詰めてくる。近付けば意識せずとも香る薬品の匂い。もう随分と薄れたが、完全に消えるまでにはもう少し時間がかかると知っている。彼の様子を一番近くで見てきたのは他でもない、ずっと隣で看病してきたリシアなのだから。
「誰かを守るために自分を傷つけるなんて、そんなの守れてないのと一緒だって分からない!? 君を犠牲に助けられても、心から『生きててよかった』なんて言えないでしょう!?」
「……」
それでも――それでも、生きていてほしい人がいたと言ったら。自分の全てを投げ出してでも、救われてほしい人がいたと言ったら。
あの北門での戦いが、褒められた行動ではないことだなんて分かりきっている。それでもきっと、
何があっても歩んでいくと、あの日確かに言葉を交わした。けれどそれは、互いを繋ぐ約束にはならなかったようだ。
だって、ほら。何もかもを失って、今は形だけの立場にみっともなく縋りついている。そうでもしていなければ、自分の形などすぐに忘れてしまいそうだった。それはまるで、死の病に蝕まれたあのケモノのように。
「せっかく助かった命でしょう!? だったら、もう少し――」
「助けてくれだなんて頼んでないだろ! この命なんかどうだって――!」
「……!」
口を突いて飛び出したのは抑えきれない激情だった。胸の奥底に鎖で雁字搦めにしていたはずの心が、小さな衝撃で溢れ出す。言葉として形になることで理解したのは、漠然としていた本心だった。
――そうか。自分はあのまま、終わりたかったのか。
しかし、納得すると同時に後悔が満ちる。目を見開いた彼女が、今度こそ大きく瞳を揺らしていた。勢いに任せてこの胸中を口走るなど、あってはならない失態である。今の立場になってからは、こんな過ちを犯したことなどなかったというのに。
事情も何も知らないまま手を差し伸べてくれた優しい人間に、この醜い感情をぶつけてしまうだなんて。
「ごめん……さすがに失言だった」
「……でも、それが君の本心なんだね」
空気は一転し、何かを注意深く探るような眼差しが注がれていた。同情するのではなく、さらに深いところまでを読み解こうとするような聡い目。思いも寄らない反応に、言葉を失うのはアユハの方だ。
「――私は、君がこの世界とどう闘ってきたのかを知らない。オリストティア王国がどんな国なのかも分かってない」
オリストティアの人々は、この終焉の時代に何を希望にして生きるのだろう。何が、この国を照らすのだろう。リシアはその全てを何も知らない。辿り着いた頃には、この王国は絶望に呑まれすぎていた。
「だけど、それでも確かなことはある。“命”を決めるのは神の領域。どんなに絶望的でも繋がる命があれば、あっけなく零れる命もあるということ。君が今ここにいるように。救えた命と、救えなかった命があるように」
「……この世界に神がいるとでも? 悪いけど神は信じてないんだ」
「いるなんて言ってない。でも、いないとも言い切れない。確かめた人なんて誰もいないんだよ」
――もしも。彼女の言う通り、この世界に神がいるとするならば。この時代を、今もどこかで見ているとするならば。
そうであるのなら、神は日々消耗していくだけの世界の中で、何を思って過ごすのだろう。やがて終わる生命を前に、塵のような救いの手すら差し伸べないのだろうか。
せめて、せめて、真っ当な命だけでも生き残れるような道は、もう残されていないのだろうか。
もしも、神がいるのなら――。
「だったら、なんのために」
彼の灰の瞳がゆらりと揺れる。月のような見知らぬ誰かの色が、その奥底に見えた気がした。
「なんのために、神は俺を残したんだ」
ありもしない祝福には頼らない。いもしない神の恩寵など望まない。その代わりに、戦乱の時代に身を置く
神はいない。物心ついた頃には知っていた。知っているはずだった。世界はこんなにも理不尽に溢れている。意味もなく消えていく命を数えきれないほどこの目で見てきたのだから。
だから、神はいない。そう、分かっていたはずなのに。
「……」
信じもしない神に祈っていた。コレが嘘であれば良いと。目覚めとともに全て消え去る夢であれば良いと。
しかし、体を蝕む痛みが、人々の苦悶が、コレを紛れもない現実だと告げている。目を逸らすには、刻まれた傷があまりにも生々しくて。
「アユハ、」
彼に伸ばしかけた手は、正午を知らせる鐘の音によって引っ込められた。濁りのない高らかな音色がアルストロメア中を駆け抜けていく。
リシアの行動に彼が気付いたのかは分からない。しかし、彼は彼女から一歩退き、酷く柔らかに微笑んだ。完璧な笑みが、まるでそれ以上踏み込むことを拒んでいるように見えて。
「話の途中で申し訳ないけど……ごめん、中に戻るよ。これから人と会うんだ」
硬直した彼女に分かれを告げる。真横を通り過ぎて建物の中に戻るが、リシアが引き留めることはなかった。
「……私、勘違いしてるのかも」
一人残された屋上で、リシアはぽつりと呟いた。思い返すのは今までの彼とのやり取りだ。
あれほどの傷を負いながら生還した奇跡を経ても、自らの命を顧みない彼に対して確かに怒りを覚えていた。それは、皆が享受できる幸運ではないのだから。どんなに望んでも叶わずに終わる人々がいるのだから。
騎士として民を守り、導く立場にある彼が、この混乱の中で多くの命を諦めてこなければならなかった状況を想像していた。救える者とそうでない者を秤に乗せ、選ばなければならない場面に何度も向き合ったことだろう。
それ故の苦悩だと思っている。捨てた者たちへの後悔と、無念と、懺悔とが混ざり合って、自暴自棄になっているのだろうと。
(たぶん、それも間違ってはないだろうけど……)
しかし、どうやら彼を蝕むモノはそれだけではないようだ。激しい感情を吐き出す彼を前に、ようやくその影を見ることができた。そして同時に、これまで抱え込み続けたその心を想う。
穏やかな表情を一度たりとも崩さなかった彼が、言葉を荒げ、顔を歪めて、ふらつきながら立っていた。それはまるで、膝を折ることすらも赦されていないのだと言うように。
「……
命を燃やして日々を過ごす彼に、泡沫の安寧すらも与えてはくれないのだろうかと。
問いかけた空は何も答えてはくれなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます