15. 罰と呪いと黒獣と (3)






 逃げる人々の流れに逆らってアルストロメアを駆けること少し。アユハとクライドは黒獣の姿を眼中に捉えていた。守りを固めていた自警団に状況を聞けば、事態は予想以上に悪いことばかりが明らかになっていく。



「……思ってたより多いな」



「自警団にはこのまま後方で待機してもらおう」



「はいよ」



 黒い塊がアルストロメアに向かって近付いてくる。集団の通った道に生える植物は少しずつ黒く変色し、黒獣化の兆候を見せていた。黒獣病を前に植物や人間など関係はない。命ある者は例外なく緩やかに中枢を侵され、やがて自我を失うだけだ。

 瘴気から誕生し、知能の代わりにチカラを手に入れたケモノは、目に付く全ての命を喰らうためだけに腐った大地を歩き始める。

 かつて誰かと繋いだ手は、その心臓を貫くための凶器に変わった。かつて夢を語ったその口は、未来を約束した相手を喰らう。そうして巡り巡った人生のどこかで、いつかケモノの生んだ瘴気を吸い、人はその憎悪の対象に自らも“成る”のだ。

 これを呪いと言わずして何と呼ぼう。あるいはこれは罰だろうか。世界の終わりは、この死の病とともにすぐそこにまで手を伸ばしている。



(罰、か。だとしたら、俺たちはどんな大罪を犯したんだろうな)



 クライドが自警団に指示を出す様子を見守りながら、ふとアユハはそんなことを思う。

 自分が人間だったことを忘れ、ただ命を貪る獣に成り果てる災いのような死の病。

 気休め程度の療法はあれど、体が瘴気に耐えられなくなればケモノに成り行く自分を眺めながら待つばかり。泣きながら無差別に人を殺し始める“獣”を、たいして長くもない人生の中で飽きるほど見てきた。

 いったい、人が――生物が、この世界に何をしたと言うのだろう。何を犯せば、何百年にも渡る呪いの中で、明日の消滅を怯えながら暮らしていかなければならないのだろう。

 いつ、どこで、誰が、黒獣になるのかは分からない。だから、いつしか人々は未来を諦めるようになっていた。いずれケモノに喰われ、殺され、堕ちる運命ならば。果ての決まった世界ならば。この世界で怯えながら生きていく意味なんて――。



(……今ならその気持ちがよく分かる)



 クライドと合流し、簡素な造りの北門を潜り抜ける。前方に淀んだ漆黒の霧が迫り、夜でもないのに空を闇に染めていた。その光景が、あの王都を彷彿とさせる。

 あと何年、いや、あと何日。あとどれくらい世界はこの形を保っていられるのだろう。泥に汚れ、血に濡れて戦い抜いた先に、あと何度の未来が残されているのだろうか。



「前方、ケモノを確認」



 同期の抑揚のない声が届く。剣を掴んだ右手に力が入った。走る速度を緩めない体にずきりと鋭い痛みが走る。その苦痛すらも、自分の生を主張しているようだ。

 を超えて生きている。の先を進んでいる。生き残った事実が、こんなにも駆ける足の枷となる。

 ――それを振り払うように、アユハは抜刀と同時にケモノの首を刎ね上げた。大きく仰け反った黒獣の横をクライドが走り抜けていく。



「無理するなよ」



「そっちこそ」



 軽い言葉を交わしながらも、アユハの目線は首の取れた黒獣に張り付いたままだ。時を待たずしてソレはバネのように体を起こし、頭部の再形成を始めた。

 再生。それこそが、黒獣が最凶の名を欲しいままにする所以である。四肢をもぎ、首を刎ね、体を潰そうと、胸に鎮座する“コア”を破壊しない限りケモノの進行は止まらない。

 ケモノとの戦闘は速度が重要だ。瘴気を吸うほどに身は侵され、黒獣は瞬く間に増えていく。染みつくほど知っているからこそ、アユハは刹那の間を待たずして胸の中心を貫いた。

 コアを潰す確かな感触。剣を引き抜くと同時に飛び散る、瘴気に成りきらなかった黒い液体がアユハを濡らす。振り払う素振りも見せず、彼は次の獲物に飛び掛かった。

 蠢くのは二足歩行の人型をしたケモノ。町に迫る集団は、疑う余地もなく人が黒獣になったものだ。人間であった頃の名残は境界の曖昧になった姿だけで、その身体能力は生き物のソレを遥かに凌駕する。その証拠に、アユハを目掛けて軽く振り下ろされた手が、雨で柔らかくなった地面を深々と抉っていた。



「……」



 しかし、その程度で今さら怖気付く彼ではない。ひらりと攻撃をかわしたついでに腕を落とし、一太刀でケモノを上下半分に切り分けた。研ぎ澄まされた剣先はすぐに翻り、先程と同じようにコアが砕ける。

 借り物の刀身が艶やかな黒い液体に濡れていた。確認もせずに汚れを振り落として新たな個体へと肉薄する動きには、一見すると怪我の影響は感じられない。至って好調に思える鮮やかな剣技を、しかしクライドは注意深く観察していた。



(……



 次から次へと敵を斬ってはコアを潰し、裂いては砕くその剣筋に曇りはない。気付けばクライドの倍以上のケモノを屠るその姿は相も変わらず圧倒的だが、万全には程遠いと、早急に結論付けた。

 長い月日を、その背を見ることに費やしてきた。だからこそ、小さな異変を見逃すなどと甘いことはしてやらない。その変化を見破ることができたのは、自分の目が鍛えられたからなのか。それとも、あのアユハが隠しきれないほどの不調を抱えているからなのだろうか。前者であれば良いと、クライドは柄にもなく強く願う。

 


「今のお前になら余裕で勝てるぞ……」



 喧騒に紛れる呟きはアユハには届かない。

 あの日、アルヴァレスで彼の身に“何か”が起きたことには気付いていた。しかし、その“何か”を聞き出せずにいるのは、クライドにその勇気がないからだ。意気地のない自分への苛立ちと、やり場のない悔しさがぐちゃぐちゃにかき混ざる。いかに今までその身に頼ってきたのか、思い知るのはこんな時ばかりだった。

 クライドがアルヴァレスの戦火を逃れることができたのは、今回も運が味方したからだ。しかし、アユハは違う。この男は自力で道を開いてあの戦場をも生き延びた。オリストティアの希望は、今も確かに繋がっている。

 それなのに何故。何故お前は、未だあの都にいるような顔をして戦っているのだろう。何がその剣を逸らせているのだろうか。

 染みついた癖のように前を行く剣士の姿を追っていると、その青白い顔に汗が伝った。普段ならばただ一人だけ涼しい顔をして戦場を駆けるはずのその身に、極めて珍しい変化をクライドは目撃する。



「アユハ、」



「いい、から。集中。死ぬぞ」



「死にそうなのはお前だろ」



 喘鳴の混ざり始めた声は細い。しかし、剣に纏う覇気は鬼気迫る戦士のモノだ。その様子にクライドは黙らざるを得なかった。ここで大人しく後方に下がってくれるような相手なら、そもそもツルイは説得に苦労などしていない。



「……すぐに終わらせる」



「ああ、頼む……」


 

 視界の端で、ゆらりとその体躯が揺れた。隙だらけの身をすかさず黒獣が狙う。しかし、剣は一閃、目に追えない速度でコアだけを精巧に貫いた。それはまるで矢で射貫いたとでも言うように、一寸のブレもなくケモノの胸に穴を空けている。

 崩れ落ちるような時間も与えられず、敵の身は塵となって消えていく。消滅を確認するまでもなく切り返された剣は、アユハの真横、迫っていた黒獣の核をまたも狂いなく砕いた。

 それは、寒気が走るような冷徹で精密な技だった。最早動くことも億劫であるのか、彼は先程から剣の届く範囲にまで敵を招き寄せているようにも見える。それを罠だと認識する知能すらも失った黒獣は、彼の思惑通り甘い誘惑に堕ち、最初の一撃で仕留められては消えていた。



(だが……は健在、か)



 あの穏やかな笑みを乗せる顔に、今は感情の欠片もない。流れ作業のように敵を葬る残酷な剣技を前に、畏怖した味方を何度見たことだろう。

 立ちはだかる全ての者に終わりを告げるオリストティアの人間兵器。もしも死神がいるとするならば、それはきっと――いつか、誰かが声を潜めて囁いた言葉を思い出した。



「……相手にはそう見えるのだろうな」



 最後のコアが砕け散る。瘴気が霧散し明瞭になった視界を前に、クライドは呟きを零した。今の今まで黒獣の咆哮で溢れていた空間が、ほんの数刻の間に静寂に包まれる。平時に戻った景色が、なぜだか無性に不気味だった。

 


「っ、」



「おっと……! アユハ」


 

 立ち尽くしていたクライドの視界の隅で傾いた体は、今度こそ止まることなく崩れていく。地面に倒れこむ前に腕を滑り込ませれば、燃えるような熱さが服越しに伝わってきた。激しく動いたことで発熱したらしい。弱った声が耳に届く。



「……悪い。あと頼む……」



「お前、ツルイ隊長に殴られても絶対に助けないからな」



「それは勘弁してもらいたいな……」



 吐息のような声ですら熱を持っている。しかし、相変わらず傷口は彼女の魔術で冷えきり、ちぐはぐな体温が気持ち悪い。頭を抱えたくなるような衰弱っぷりであるが、残念なことに今のアユハにはそれを嘆く体力すらも残されていなかった。



「……それより、応援だ」



 クライドがアユハの腕を肩に回していると、項垂れた彼が町の方面を示す。振り返れば、自警団であろう面々の中に見慣れた王国の制服が混ざっていた。ツルイの報を聞いた騎士団員たちが駆けつけてくれたようだ。



「あとは彼らに任せるとして……とりあえず、お前はすぐに診てもらわないと。傷、開いてないな?」



「……たぶん」


 

 もし開いていれば、今度こそ“終わり”だったろうか。他意もなくぼんやりと考えながら、頭上で交わされるクライドと団員の会話を聞いている。靄がかかったような頭では内容の半分も理解できないが、これ以上の負担を彼に掛けるわけにはいかない。途絶えかけの意識を繋ぐのは、負け惜しみのような意地であった。



(アユハがここにいなければ……)



 脱力した彼を支えながらクライドは思う。当初の予定通りここに一人で出向いていたとしたら、戦闘は今も続いていたのだろう。それどころか町にケモノが雪崩れ込んでいたかもしれない。

 瞬く間に黒獣病は町を支配し、アルストロメアがあの日のアルヴァレスの惨状に迫る。――背筋の凍る想像は鮮明に、容易く描くことができた。

 おそらく彼には視えていたのだ。群れの規模も、必要な戦力も、命運の分岐点も、何もかも。アルストロメアはこの死にかけの騎士に、知らずの間に救われている。



「お前は判断を誤らないな」



 クライドの呟きは、不明瞭な意識を掻い潜って鮮明に届く。

 そうであったのなら、今頃――脳裏に浮かんだ言葉の続きは、形になることなく消滅した。










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