14. 罰と呪いと黒獣と (2)






 黒獣が町のすぐ近くに現れた。そんな誰かの叫びを聞くや、これまでまばらだった人の流れが一斉に町の中央へと向かい始める。黒獣が出現したのなら、全てを投げ出して少しでも遠くへ避難すること。それは、戦えない者に教え込まれたこの世界で生き残るためのたった一つの術だった。



「状況は!?」



 逃げ惑う町民の一人をクライドがようやく引き留める。立ち止まった男は額に冷や汗を浮かべながら早口で答えた。



「北からケモノの群れだ! こちらに向かってくるのが見えたんだと!」



 騒ぎにかき消されないよう声を張り上げる彼の背後は、逃げる人々で溢れている。クライドと男の会話を隣で聞きながら、アユハはツルイを振り返った。



「北門……ここからすぐですね」



「ああ。だが、あそこにうちの団員は配置してないな」



 騎士たちの間で交わされる会話が地上の男に届くはずもない。しかし、二人に反応するように眼下の男は頭を抱えて嘆いた。



「王都の騒ぎで自警団の連中も怖気付いて、最近は人がかなり減っちまった。このままじゃ町がケモノに飲まれちまうよ!」



「すぐに騎士団が対応します! あなたは落ち着いて避難を! 情報ありがとう!」



「アンタら騎士か! なら頼むぞ!」



 男を見送るまでもなく、クライドがアユハとツルイに視線を送った。二人を案じて優れなかった顔色は、危急の事態で既に騎士のものへと戻っている。そこにあるのは、数えきれないほどの民の命運を背負う見慣れたいつもの顔だった。



「自分が先行します。二人は応援の要請と避難誘導を――」



「いや、一人じゃダメだ」



 すぐにでも現場に向わんとするクライドの声を遮ったのはアユハである。ツルイとともに情報の分析に務めていたはずの彼は、今は柵に身を預けながら視線を彼方へと飛ばしていた。

 鋭利に煌めく視線の先、彼に倣って目を凝らせば、うっすらと空が黒く染まっている。それは、病獣の発する瘴気が目視できるほど、多くのケモノがこの町に押し寄せている証拠だった。いくら騎士団の精鋭であろうと、単独であの大量の敵の中に飛び込めば、結果は火を見るよりも明らかである。



「ツルイさん。これからアルストロメアの騎士たちを集めるとしたら、どのくらい時間かかりますか」



「招集に即座に対応し、全員が馬を駆ったとしても十数分。避難誘導も兼ねながらだとすると……」



 アユハの視線は北を睨んだまま逸らされない。遠くを見据える彼の銀眼が刃のように研ぎ澄まされていることに気付き、クライドは言葉を失わざるを得なかった。

 ――この、冷ややかな瞳を知っている。彼が戦場に立つ時の目だ。いくら酷い怪我に苛まれていようと、この男は未だにそこにいるのだと理屈もなしに伝わってしまった。



「俺も出ます。クライドと二人なら増援が来るまで繋げるはずです」



 明瞭に告げられる固い覚悟。常ならば二つ返事で託すはずの提案を、しかし今の二人は是としなかった。苦い顔をしながら、半ば呆れたように諭すのはツルイである。



「あのなあ、その話は今終わったろ。休めと言ったはずだ」



「クライド一人をあの中に送り出し、俺にはここで黙って見てろと仰いますか。町の存亡が懸かっているというのに」



「支援に回れと言っている。お前、たぶん自分が思っている以上に顔色最悪なんだぞ」



「自分の体のことは分かっています。でも――」



 自分の状態など、目覚めたその時から把握している。楽観視するには重すぎる体に、現実から目を逸らすことは許されないのだと警告され続けているのだ。

 しかし、それでも立ちたかった。まだこの身が存在する意味を確かめたかった。これは身勝手な我儘なのだ。案じてくれる彼らの言葉に逆らってまで戦場に向かおうとするのは、ただ――。

 それは、たった瞬きの間の出来事。彼の言動に注視していたからこそ気付くことのできた変化だった。見慣れた微笑みを作る直前の彼の薄い唇が、何かを耐えるように歪んだ。頑なな同期に掛けようとしていた言葉が、その一瞬で霧散する。



「アルヴァレスと同じ光景は、もう見たくない」



 それは、全てを込めた切願だった。言葉を失くして目を見張る二人に、アユハは笑う。今度こそ見知った表情がそこにはあった。涼しげで品のある端正な顔に、しかし宿す光は雄々しく自信に満ちている。



「それに……俺なら守れる。先輩は信じてくれますよね」



「その言い方はズルいな、お前」



 無茶だと引き留めた、ツルイのこの感情に偽りはない。それにも関わらず、心のどこかで彼に期待している自分がいた。今にも倒れそうな後輩を戦場に送り出そうとする傍らで、自分には“ただ黙って見ている”ことしか選択肢が与えられていないらしい。

 しかし、ツルイには唇を噛む前にやるべきことがあった。それは、相手がアユハだからこそ確認しているのだと、問われる本人は分かっているのだろうか。



「信じていいんだな」



「はい」



「俺はもう、仲間を失うのはごめんだぞ」



「……はい」



 光景は見たくない。何かを失いたくもない。叶わない理想も、この騎士だけはきっと超えていく。

 そう信じている。ずっと昔から、そう信じてきた。これだけは揺るがないと、崩れかけた国の上で彼は証明してくれるだろうか。



「クライド、任せるぞ」



「コイツの見張りですか。腕が鳴りますね」



「無茶しだしたら気絶させてでも引きずり戻せ」



「それが一番難しいと隊長もご存知でしょうに……ですが、承知しました」



 口調こそ軽快だが、そこには騎士の誓いがある。民は決して傷つけない。仲間は何としてでも守りきる。

 戦場に向かう前の独特な高揚感を前に、クライドは深い呼吸を意識した。次に目を開けば、そこには勝手知る戦友が地に足をつけて立っている。



「あ、ツルイさん剣貸してください」



「え? ああ、構わないが……お前、アレどこにやったんだ」



「部屋です。取りに戻る時間も惜しいので」



 車椅子に立てかけていたツルイの剣――近衛兵の証であるそれを即座に手渡す。普段は別の剣が収まっているはずのアユハの腰に、ツルイの武器が揺れていた。

 その姿に馴染みがあるのは、かつての彼もこれを振るっていた時代があったからだ。しかし、昔を懐かしむには芽生えた違和感があまりにも大きい。

 


「では――クライド」



「おう」



 翻った二人の背中をツルイは無言で見送る。足取りは確かであるが、その服の下、見えない部分にも傷が広がっていることは確認せずとも明らかだ。薬品特有のツンとした香りが、アユハの動きに合わせて鼻を刺していった。

 


「……お前が剣を置いてくるなんて、“何かあった”と言ってるようなものだろう」



 小さな呟きは人々の混乱に紛れて消えていく。勝利への確信と不自然な行動に対する動揺を持て余し、ツルイは一人、退屈な灰色の空を仰ぐことしかできなかった。










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