13. 罰と呪いと黒獣と (1)
金槌を振るう音がアルストロメアの町に響いている。アルヴァレス変異の知らせを受け、町の防壁を強化するための工事音だった。住人らしい男たちが先ほどから工具を片手に道を往来している。その様子はアユハのいる医術院の屋上からだとよく見えた。
今日も変わらずアルストロメアの空は分厚い雲に満ちている。ここ数日は晴れ間もあったとリシアから聞いていたが、怪我の影響で寝込んでいたアユハとしては、連日変わらない景色が続いているようにしか見えない。
体をかき混ぜられるような猛烈な不快感と高熱に襲われながら、長い睡眠とほんの少しの覚醒だけを繰り返した数日間。ほとんど記憶のないうちに時間だけが過ぎていたが、そのおかげで体調は急速に回復している。少し前からは普通の食事が喉を通るようにもなり、院内でなら単独での行動も許されるようになっていた。
(感覚……は、戻らないな)
鉄柵に手を乗せる。欄干は風に晒され冷えているはずだが、彼にその感触は伝わらない。手先は冷えきり、人らしい温もりはあの王都から失われたままだった。
生物として信じ難いほど低すぎる体温は、彼女いわく“魔術の影響”らしい。いつまで経っても凍りついたままの四肢はまるで動く死人のようで、自分が生きているのか死んでいるのかさえ曖昧だ。
だから、調子の良い日はずっとここからアルストロメアの町を眺めていた。
重い木材を持ち上げる住人たちの掛け声。客引きをする商人。町中を駆け回る子供たち。こんな状況の中でも当たり前に過ぎ行く些細な日常を見て、ようやく呼吸の仕方を思い出すような日々を送る。
人の営みは巡る。それがたとえ終焉を目前にした世界であろうとも。――昨日まで死の淵に立たされていようとも。
命ある限り、人には明日が訪れる。人は人として生を歩み、いずれの日か人として死んでいく。
「それが当たり前の世界を、か……」
いつの日か、
「……」
アルストロメアに芽吹く緑を涼やかな風が撫でては吹き抜けていく。混乱した国の状況など忘れさせるような平穏な昼下がりに、アユハは重々しい溜息をついた。
その反動で肺に大量の空気が流れ込むが、澄んだそれは弱った身体には冷たすぎるらしい。耐えきれずに激しい咳が溢れる。
「……っ、はは」
どっと押し寄せた疲労感とともに苦笑が零れた。思うように動かない体には困惑してばかりだ。全身を刺すような痛みは四六時中続いており、部屋で安静にしていなければならないことは理解している。しかし、アユハには無理をしてでも屋上に足を運ぶ理由があった。
毎晩、飽きもせずに隣に佇む悪夢が手を伸ばす。気を抜けば一気に深淵へと引きずり込まれそうな一人の夜に、窓から差し込む淡い月光だけが心の拠り所だった。
だから、取り残された夜から逃げるように、日中は決まって部屋から離れる。町を見渡せるこの場所からならば、確かに存在する人々を感じられて安心した。
――まだ逃げている。痛みで誤魔化し、言い訳を繰り返して。あの日から、ずっと。
これが幻であればいいと祈っている。存在しない神に、一心に。
今日はどんな悪夢に魘されて目を覚ますのだろう。故郷が燃え、黒い獣に裂かれる夢だろうか。それとも、あの人が目の前で
「……っ」
鈍器で殴られたような頭痛がアユハを襲う。ガンガンと鳴り響くそれは警鐘か。それとも甘美な終わりへと誘う歌か。
世界が歪む。灰色の空が回る。回転する視界はやがて白く染まり――急速に焦点を結んだ。屋上の欄干を鷲掴み、激しい眩暈に汗を浮かせながらリシアの忠告を思い出す。
(“次はない”……)
渇いた嗤いが耐えきれずに漏れた。
この絶望を忘れられるのならば、なんて。
「……戻るか」
柵から重い身を剥がし、背を向ける。時を同じくして屋上の出入口が開いた。高さの異なる二つの人影が現れる。車椅子に座る人物が先にこちらに気付いたようだ。
「先客がいらっしゃいましたか。これは失礼を――」
車椅子の男の言葉は途中で不自然に途切れる。同時にアユハの歩みも停止した。三人の視線が交わり、すぐに見開かれる。
「アユハ!?」
「ツルイさん? クライド……!」
見覚えのある二人が、瞬きの間に破顔した。
オリストティア王国に仕える身となってから、アユハに騎士としての振る舞い方を一から教えてくれた人がいた。その人物こそが、王国近衛兵団1番隊を率いるツルイ・ブレーデル。右足全体を包帯で覆い、車椅子という痛々しい姿で目の前に現れた先輩兵である。
「どうしてお前がこんなところに……いや、理由は同じか」
「お前がそんな怪我をするなんてな……大丈夫か?」
車椅子を押すクライドがアユハの顔を覗き込む。1番隊に所属する彼が隊長であるツルイとともにいることは当然なのだが、二人が揃う姿を見るのは随分と久しぶりのような気がした。
彼の気遣いに礼を言いつつ、アユハは再び柵に身を預ける体勢に戻っていく。
「まさか同じ町にいるとは。1番隊はレフィルブランにいるものだとばかり……」
「お前こそ。互いに酷い有様だが……今回もなんとか生き残ったな」
頭上で交わされる会話を耳に、ぎこちなく車椅子を操作しながらツルイが移動してくる。彼はアユハに並ぶとそのまま町を眺めるが、対するクライドは二人から一歩ほど距離を取った。その視線は上司と旧友を観察するように彷徨い、心なしか揺れている。普段から
「クライド? どうした」
「いや……お前が生きていると分かって自分が思ってた以上に安心したというか……生きてるだろうって曖昧に信じるのと、実際に確認するのとじゃ違った」
「……そうだな。俺もホッとしてる。他の1番隊は……」
「みんな王都でバラバラだ。アルストロメアにいるのは俺たちと、他に少しだけ。残りはレフィルブランにいることを祈るしか……」
「そうか……」
簡単に近況を確認し合うと、訪れたのは重い沈黙だった。その隙間を満たすように、鳴りやまない工事の音が聞こえてくる。
刹那の静寂の後、口を開いたのはツルイだ。
「……アルストロメアに逃れてきた隊士も随分と多くなった。その中でまともに動ける人間は半分程度だが……残念なことにここ数日、町へのケモノの襲撃が頻繁になっている。そろそろ隊を編成してきちんとした警備をしないとな。騎士団の人間がいるっていうのに、いつまでも自警団だけに戦わせるわけにはいかない」
「……アユハがいると分かった途端に仕事の話ですか。そういうの、俺がやるんで今は休んでくださいと言ったはずですが」
「バカ言え。このメンツが揃っておきながら丸投げするわけがないだろう。歩けはしないが頭は動くんだ。この状況下でいかにアルストロメアを守るかくらい考えさせろ」
「それは……そうですが……」
「アユハと再会できたのは幸運だっただけだ。これ以上の戦力は望めない。来る可能性の低い援軍を待ち続け――アルストロメアを滅ぼすか?」
「…………」
クライドは何も答えない。再び何とも言えない沈黙が場を満たすが、胸中で思うことは全員一致しているのだろう。
ツルイの言うことは正しかった。あの王都の惨劇をここにいる全員が見ている。守るべきもの、見捨てるべきものを取捨し、命の選択を経てここに立っている。今、ここで言葉を交わせること。それは、奇跡以外の何物でもないのだと知っている。
あの王都で戦っていた人間たちは今、どこで何をしているのだろう。無事にアルヴァレスを脱出し、どこかの町にたどり着けたのだろうか。それとも――。
後ろ向きな想像を巡らせるほど簡単なことはない。それを振り払うように、アユハは意図して話題を切り替える。
「話を進める前に……ツルイさん、怪我の状態を伺っても? それぞれどんな状態なのかは把握しておいた方がいいかと」
「……ケモノに右足をざっくりな。霊薬があれば完治もするらしいが……まあ、見ての通り今は歩くのも難しい」
「そんな軽いものではないでしょう」
適当な説明をするツルイの隣でクライドが顔を歪ませる。自分の傷のように痛々しい表情を隠さない彼の額には、アユハと同じ真っ白な包帯が巻かれていた。
「丸々持っていかれる寸前だったんです。あと少しアルストロメアが遠かったら……」
「ま、運がよかったな」
朗らかに笑うツルイとは対照的に、クライドの顔は青い。人の良い上司が穏やかなのはいつものことであるが、この大男が顔色を変えているのは珍しいのだ。
そして、それは同時に彼らの潜り抜けてきた戦場がいかに過酷なものであったのかを、言葉よりも鮮明に物語っていた。王国近衛兵団の精鋭である彼らは、ただケモノが存在しているだけの戦場で怪我など負わない。
「ティエラ様の指示で王都に到着して早々、予想外のケモノの多さと王都の混乱によって1番隊は分断された。なんとかアルヴァレスを抜けてレフィルブラン砦に、ってところで王都から追ってきた黒獣の群れに何人かやられて……その時に隊長も」
「そんな顔するな。コレは俺の落ち度であってお前のせいじゃない。――アイツらのことも気に病むなよ。……今はまだ」
「……分かっています。隊長だけでも無事でよかった」
複雑なその表情が示すのは、不調であるにも関わらずへらりと笑って見せる上司への怒りだろうか。それとも、救えなかった仲間に対する悲しみと悔しさだろうか。読み取った感情は、きっとどれも的を射ているのだろう。
「……とにかく。お前がここにいるとなれば俺たちの行動も変わってくるな。アルストロメアの警備に関してはすぐに方針を決定するとして……レフィルブランとの連携も取りたい。さすがに今すぐ移動はできないが、あそこの状況だけでも知っておくべきだ」
「レフィルブランは王都からの避難民を誘導しながら、今もケモノとの交戦を続けていると聞いています。こっちには砦に応援が出せるほどの余裕もありませんし……いろいろと整うまではこの町の警備優先でいいかと。ツルイさんとクライドがいるのなら指揮は何とかなります」
「そうだな。不本意だが俺は動けないし……クライド、俺の代わりにいろいろ頼むことになる」
「承知しています。隊の編成もやっておきますよ」
「助かる。迷惑かけるな」
「いえ。何度でも言いますが今の隊長に必要なのは休息です。無理に動かないでください」
本気で言っているであろうクライドの覇気に、さすがのツルイも苦笑いで応えるだけだった。部下の心配を素直に受け取ったことは伝わったのだろう、クライドの視線が今度はアユハに移る。
「アユハ、お前もツルイ隊長と一緒に俺たちの補佐をしてくれ。医術院で過ごしてるってことは……そういうことだろ」
二人の視線が首元に注がれているのが分かった。動かないよう厳重に固定されている包帯を見て彼らは眉をひそめる。
「お前は? その首の傷どうなんだ」
「……結構深くまで裂けてたみたいです。今は無理矢理繋げているような状態で」
「ならしばらくは控えだな」
「周辺の警備程度ならできますよ。ただでさえ気の抜けない状況なんです。動ける人間は使わないと」
それは有無を言わせない意志のある言葉だった。しかし、ツルイはその内容に肯定を返さない。意識して厳しい声音を作るのは、こちらも強気でいかなければこの後輩騎士にすぐに丸め込まれてしまうと知っているからだ。
「それで大事の時に不調が残ったらどうする。お前、いい加減自分の立場を自覚しろ」
「しています。だからこそ言っているんです」
「あのなあ……そんな状態の時くらい休め。顔色最悪だぞ」
「……」
ツルイは黙り込んだアユハの様子に奇妙な感覚を覚えていた。言葉の通り、彼は自分の立場を正しく理解している。重い責任を背負いながら、常に最善の判断を下していく姿をこの目で何度も見てきた。
しかし、今の彼にあの面影を見出すことができるだろうか。どんな戦火の中でも凛としていたはずの瞳が、心なしか曇っているような気がした。
「アユハ、お前――」
言葉では表し難い小さな、しかし見逃すには大きな違和感。その真意を問いただそうと、アユハに詰め寄った瞬間だった。
「ケモノだ! ケモノが来るぞ!!」
悲鳴とともに、襲撃を告げる警鐘が町に響き渡った。
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