12. 終わりの始まり (2)






「でも父さん、イリス様は素晴らしい人だったって言ってたよ?」



 黙り込んだ彼女の耳に少年の疑問が届く。馴染みのない人物の登場に、彼女の思考は一気に現実へと引き戻された。



「イリス様?」



「亡くなった先代女王様。僕らが生まれる前に病気で死んじゃったから、今は王配だったブレイア様が王様だけど……イリス様は“魔術師”だったって」



「そう、だったんだ……」



「魔術師が悪いならさ、なんでみんなイリス様が好きなの?」



 それは、子どもだからこそ口にできる言葉であるような気がした。無垢な疑問に対し、彼女は正答を持たない。今度は、彼女が言葉を詰まらせる番だった。



「……オリストティアはいい国だね」



「なんで?」



「イリス様が親しまれてたって、この時代まで魔術師が生きていける国だったってことでしょう?」



 カップに添えた手に力が籠められる。ふるりと指先が震え、残っていた中身に円形の波紋が広がった。



「黒獣病は“誰か”のせいなんかじゃない。こんな世界、誰かの責任にするなんて間違ってる。……この国の人は知っていた」



 遠く離れた故郷を思い出す。今も“魔術師狩り”の思想が残るあの地では、数少ない魔術師への迫害が当然のように行われていた。魔力を持って生まれた人間は、覚えのない悪意に晒されながら生きていくことを強いられるのだ。“魔術師狩り”全盛期のような勢いは失われたとはいえ、魔術師が生き辛い社会であることに変わりない。



「そういえば……なんでティエラ様は魔術使えないんだろうね。イリス様も、その前の王様も……王家の人たちはずっと魔術師なのに」



「ティエラ様って……」



「オリストティアの王女様。大人たちが『チカラのないあの人じゃ国を守れない』ってよく言ってる」



「イリス様は“再生の魔術”ってヤツでみんなの怪我とかを治せたらしいよ! その前の王様もみんな“月の魔術”っていう癒しのチカラを持ってたんだって!」



「イリス様がいたらも起きなかったのかな……」



 アルヴァレスを襲った災厄も、今は亡き女王がいれば防げたのだろうか。少年たちの“もしも”は、国を想うあまりに残酷だと思った。魔術師が必要とされる世界は、随分と昔に終わっている。



「ティエラ様って少しも魔術使えないの?」



「そうらしいよ。だから王家の魔術師がやる儀式もティエラ様じゃできなくて……みんな、イリス様が亡くなった後は『あの雨が恋しい』って。オリストティアには年に一度、王家の魔術師が国中に雨を降らせる祝福の儀式があったんだ」



「……“月の祝祭”」



「そうそう! 国の平和を祈る大事な儀式だったんだって。……ねえ、姉ちゃん。アルヴァレスがおかしくなっちゃったのは、その雨が降らなくなったから? オリストティアはこれからどうなるの?」



「それは……」



 アルヴァレスの惨劇を思い出す。飛び散った誰かの肉片。街道を流れる真っ赤な血の川。人を喰うケモノと、泣き叫ぶヒトの声。

 脳裏に焼き付いたあの光景を、リシアが忘れることは二度とないのだろう。



「世界は、本当に終わるの?」



 彼女に注がれた二つの視線は真っすぐで、どこにも揺れることはない。まるで禁忌とでも言うように“終焉”の話を避けたがる人間が多い世の中において、少年たちの純粋な好奇心は彼女を普段よりも饒舌にさせる。

 黒獣病のない世界には、どんな景色が広がっていたのだろう。戦争が起こる前の人々は、どんな世界を見ていたのだろう。――どうして、人はその世界を捨ててまで、戦うことを選んだのだろう。魔術師は、本当にこの世界には不要だったのだろうか。

 この世界に、そんな確かめようもない疑問を抱いていた。



「世界は終わりへと向かっている。その終わりは今日かもしれないし、ずっと先かもしれない。分からないけど……どうして世界が壊れたのか。その理由を正しく知ろうとしなければ、世界の崩壊は確実に訪れる」



「……!」



「50年も続いた戦争、黒獣病と魔術師狩り。一連の過去を経た今、世界は花すらも咲けないほど荒廃し、終わる寸前まで追い詰められている。だから、あの戦争は“終末大戦”と名付けられた」



 それは、全ての“終わり”の始まりとなった最悪の戦争。更なる豊かさを求めた身勝手な人間のおかげで、現代の世界は人類どころか、生命滅亡の危機にまで追い込まれている。



「じゃあ、終末大戦がなければ今の時代は平和だったのかな。――そもそも、平和ってなんだろう。ケモノが存在しないこと? 明日の心配をしなくても眠れること? そんなの全部想像で……私たちは誰も“平和”を知らない」



 生まれた時には、既に世界は終わりかけていた。今を生きる人々は、ケモノのいない暮らしを知らない。天寿を全うすることなどとうに諦め、運の尽きを恐れながらその日その日を惜しむように過ごしていく。



「終末大戦がなかったら……私たちはどんな暮らしをしていたのかな」



 だから、彼女の問いに答えられる者など、世界のどこにも存在しなかった。自問のように静かな言葉を零す彼女の前で、少年たちは険しい顔をして唸る。



「姉ちゃんの話……いつも難しいけど今日が一番わけ分かんないよ」



「そうだね、確かに難しい話だ。だけど、この国に生まれた君たちなら――」



「あ、いたいた。リシアさん! 今後の治療方針で確認したいことがあるのですが」



 言葉に被さるように彼女の名を呼ぶ声が聞こえた。振り返るとアルストロメアに来て以来、世話になっている医術師がこちらに向かって歩いてくる。

 その様子を確かめ、リシアは残っていたハーブティーを一気に飲み干した。机に広げていた地図を畳み、立ち去る準備をし始める。

 リシアに医術のことは分からない。しかし同様に、医術師には魔術のことが分からない。の体温は目を覚ました今も、死人のように冷たいままだ。普通ならば死んでいるはずの状態で生きる彼を前に、医術師たちが慎重になるのも頷けた。何が魔術に影響を与えるのか――魔術の廃れた現代では、リシアの施した“奇跡”は未知の領域だ。せっかく繋がれた一つの命を取りこぼしたくはないだろう。



「ごめん、ちょっと行ってくる」



「いいよ。今度は霊草の話聞かせてくれよ」



 椅子を片付け、ふと確認するように窓の外に目を向ける。たった数分で天気が変わるわけもなく、相も変わらずどんよりと重たい空が地上を押し潰さんばかりに広がっていた。

 リシアはほんの一瞬、しかし屹然とその景色を見据えて医術師を振り返る。その足取りは、ここ数日で最も軽いものであった。










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