10. 姫の呼び声 (2)






 揺蕩う意識の中で、あの人は確かに笑っていた。



「わた、し、は……――なか――よ」



 一度たりとも聞き逃したことのなかった声が霞んでいる。どこで何をしていようと、常に追いかけていたはずの姿が静かに溶けだした。

 待って。行かないで。お願いだから。もう一度だけ――。

 伸ばした手は虚空を掴み、その体は消えていく。耐えきれずに顔を覆い、何とも表し難い違和感を覚えて手を見つめれば。どす黒い液体と、目の覚めるような鮮血でその手は汚れていた。











「彼の調――、どうで――か……?」



「……すね。様子しだ――は、もっと――い霊薬……で」



 水が入ったように詰まった耳が、聞き覚えのない誰かの声を拾った。その声の主を知りたくて、重い目を開く。――目を、開く?



「――……」



 無意識に零れたその声は聞き苦しく掠れていて、最早形を成してはいなかった。それを自分が発した音だと認識するためにたっぷりと時間を費やし、やけに痛む喉に触れようと腕を持ち上げる。何かがその動きを引っ張るようにして止めた。

 透明な管が不明瞭な視界の隅でちらついている。そこで、彼はようやく自分がベッドに横たわっていることに気が付いた。



「…………生き、て……」



 硬直した体はそのままに、彼は目だけを動かして周囲を観察する。

 白い天井があった。やはり、どこを見ても透明なチューブが視界を横切る。動く何かに気付いてそちらを見ると、天井と同じような白いカーテンが風でふわりと揺れていた。

 囚われたかのようにその動きを眺めていると、ふいに誰かが自分に近付く気配を感じ取る。無理矢理頭を動かしてそちらを確認すると、いつの間にか真横に見知らぬ少女が立っていた。彼女は彼を覗き込み、そのまま下へと視線を滑らせる。



「うん。よく



 彼女はそのまま、静かに彼の体に触れた。首筋、肩、腕へと温もりが移り、その手は脇腹を通って足へと移動する。



「見た目は結構普通になったね。でも……やっぱ体温は戻らないか。魔力の香りはかなり薄くなったけど……まだが濃い」



 独り言を呟きながら彼女は観察を続ける。自分の状態も、いる場所も、彼女が何者なのかも、全てにおいて理解が追い付かないまま混乱で言葉を失っていると、ようやく彼女と目が合った。彼女は少し考えるような素振りを見せた後、唐突に尋ねる。



「これ、痛い?」



「……いや……」



「これは?」



「ぐ……」



「……なるほど。は感覚なし、ね」



 彼女の押さえた場所から激痛が走る。瞬く間に全身へと広がる痛みを前に、抑えきれなかった呻きが漏れた。



「気分はどう? 少しだけ話せそう?」



「あなた、は……」



「ああそっか、いきなりごめんなさい。私はリシア。リシア・ナイトレイ。君は……」



「……アユハ・コールディル」



「アユハ。君、随分長く眠ってたんだよ」



「眠って……?」



「そう。私が君をアルヴァレスで見つけて……あれからずっと」



「……!」



 その瞬間、直前の記憶が蘇った。全ての光景が脳裏を駆け抜け、思わず体を勢い良く起こしかける。



「っあ……」



 しかし、全身に杭を打たれたかのような激痛がアユハの動きを止めた。堪らずに体を抱えてうずくまる。体中に繋がれた得体の知れない管が揺れた。



「動かない方がいいよ。今の君、ほぼ死体と同じだから」



「……ここは、」



 彼女の言葉の意味は理解できないが、とにかく身を起こすことは諦め、呼吸を荒くしながら状況を尋ねる。

 頭は誰かに握り潰されているようで、視界がずっと回り続けている。手足の感覚は失われ、何より全身が常に焼かれているように痛い。それにも関わらず意識だけはやけに鮮明で、気分は最悪なのに意識を飛ばすことも許されなかった。黙り込むと痛みに全てを支配されそうで、逃れるために激痛のする喉を無理矢理震わせて声を絞り出す。



「アルストロメア。レフィルブラン砦とアルヴァレスの中継地……だって聞いてる」



「……王都の南、か」



 呼吸を整えるために一度会話を切る。リシアは辛抱強くアユハの次の言葉を待つが、その気遣いに気付く余裕すらもない彼は鈍重に口を開いた。



「俺を……アルヴァレスで見つけたって……」



「うん。関門近くでね」



「あなたが、ここまで運んでくれたのか」



「そうだよ」



「……死んだと、思ってた。なんで、俺、生きて……」



 最後の一言は、アユハにとっては独り言のはずだった。しかし、聞き取ったらしいリシアは彼のベッドに腰かけ、アユハの心臓部を指差す。

 彼女の顔が近付いた。夜空のような色をした瞳いっぱいに、生気のない自分の顔が映り込む。



。私が君を見つけた時はもう止まってたよ」



「……」



「今の君は私に生かされてる」



 彼女の指が離れた。リシアは立ち上がり、その視線がアユハの負傷した部位をたどる。



「ありえない方向に曲がった足も、裂けた脇腹も、抉れた首も……君の命は今、私の魔術が繋いでる」



「魔術……あなたは……」



 ベッドサイドから離れ、彼女は硬い靴で医術院の床を鳴らす。そのまま、部屋の入口に立てかけていた自身の身長よりも背の高い杖を手に取った。



「かの大戦では勝利を導く英雄。後の世では世界を壊した大逆者」



 振り返り、彼女は凪いだ目でアユハを見ていた。


 

「その血を引く私を、人は――“魔術師”と。そう呼ぶよ」



「魔術師……」



 彼女の“血”は、オリストティア王国にはあまりに馴染みの深いものだった。それは、王家の人間に、王女に、流れていたものと同じ――。



「君が助かったのは運がよかっただけ。もし、また同じようなことが起きれば……はない」



「…………」



 雨が、見えた。風が唸り、黒が叫ぶ。血しぶきが飛び散り、足元にごろりと誰かが転がった。

 虚ろな肉塊の上を黒い油が流れ落ちる。鉄臭い血液はケモノ臭と混ざり、溶け合い、生温かい空気となってあの王都を吹き抜けていく。

 鐘が、聞こえた。王国中に広がる澄んだ鐘の音。時を刻み、祝福を呼び覚まし、永遠の安寧を祈る鐘が何度も何度も悲鳴のように。

 それは助けを求める声だった。救いを乞う涙だった。肉を咥えたケモノが「クスリをくれ」と手を伸ばす。その必死な様相に、許してくれとは言えなくて――深淵から差し出されたその手を取った。



「アユハ、君の……アユハ?」



 ほんの一瞬、目を離した途端に静かになった彼を覗き込む。いつの間にか瞳は固く閉じられ、額に汗が浮かんでいた。真っ白に染まる血の気の失われた顔に嫌な予感がして耳を近付けると、浅く頼りない呼吸が鼓膜を震わせる。何とか今日も生きているらしい彼の様子に、零れたのは安堵の吐息だった。



「……ティ、……ま……」



 眠った、というよりも気絶に近い意識の失い方だが、どうやら危機は脱したようだ。自分の魔術の出来に不安を抱えながらその瞳が開くことを待ち続けたリシアにとって、彼と言葉を交わせた事実は明るい進歩である。



「アユハ・コールディル……」



 彼の寝顔を眺める。柔らかそうな黒髪を、湿った空気が撫でていった。



「まさか、の使い手とこんな形で出会うなんてね」










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