1章

9. 姫の呼び声 (1)






 大樹歴5450年――今から250年前。オリストティア王国から遥か北東の大陸で戦争が始まった。それは当時、世界の中心であった魔術大国ユノリアと、ユノリアの配下にあったヴィシュヴェルデ族という二つの巨大な勢力の衝突だった。

 争いは瞬く間に世界に波及した。魔力技術の最盛期だった世界は、培った魔術のすべてを軍事開発につぎ込み、戦いは拡大していく。

 長い、永い戦いが終わりを迎えるまでに50年。ユノリア王国は無尽蔵の戦力を有した反乱軍に敗北し、王国を取り込んだヴィシュヴェルデ族は新たな国――ヴィシュヴェルデ帝国を築き上げた。


 戦争は終わった。世界には50年ぶりに平穏が訪れたように思えた。

 しかし、そこから世界は一変する。


 戦火に包まれた大地は荒廃していた。終戦直後の枯れた大地には、いつの間にか“黒い獣”が徘徊するようになっていた。

 黒獣病――知性を持たないケモノが、大戦で疲弊した人間を喰う時代が訪れる。


 おぞましい光景に人々は恐怖し、絶望した。

 この未知の病は、魔術師が世界を燃やし尽くしたからに違いない――。誰かが吹聴した根も葉もないは不安定な世界に急速に拡大し、“魔術師狩り”が始まる。それは、狂った正義による一方的な殺戮の時代だった。


 それから、200年。大樹歴5700年。

 相も変わらず黒獣は大地を闊歩し、世界の終わりが現実味を帯びるほどに増加の一方をたどっている。

 人間たちの必死な抵抗も虚しく、近い将来に黒獣はこの世界を飲み込むのだろう。

 ――今日もまた、一つの街がその“黒”に敗北した。











 の背が見えた。破壊されたアルヴァレスの外れで、いるはずもない人の姿を捉えた気がした。そんなもの幻覚だと理解していたけれど。我に返って瞬いた視界の先には、地面に倒れこんだ血まみれの青年と、今にも彼の胸を抉ろうとしている黒獣の姿だけが残されている。

 ケモノの手が青年に届く直前で、私の暗い炎が敵を燃やす。もっとたくさんいたはずの黒獣は、大方この青年が処理したのだろう。大した戦闘をするわけでもなく、大通りのケモノは一掃された。

 ――大都市を滅ぼしたくせに、なんて脆い。

 私の位置からだと、アルヴァレスの関門がはっきりと確認できた。あそこに向かっていたのだろうか。あと一歩のところで脱出の叶わなかった青年は、私の足元でごぷりと鮮血を吐いた。雨を潜り抜けてか細い喘鳴が耳に届き、私は思わず彼の真っ赤な体を抱き上げる。



「君、まだ生きたい?」



 青年は答えなかった。しかし、血に汚れた唇がかすかに動く。言葉が音になることはなく、新たな血液が口元を濡らすだけだったけれど。

 薄っすらと開かれた瞼の間から見えたのは、星のような銀の瞳だった。穏やかな視線と一瞬の交錯を果たす。瞬きをするようにゆっくりと目を閉じて――それから、彼が動くことはなかった。かくりと頭が落ち、支えを失った首筋が伸びる。

 彼の首元に刻まれた裂傷からは、未だに鮮血が溢れ出して止まらない。それは、一目でだと分かる怪我だった。あまりにも濃厚な死の気配に、雨からもたらされるものとは異なる悪寒が走る。

 私は騎士たちが叫んでいた“レフィルブラン砦”への道を急いでいた。助かる見込みの無い人のために足を止めている時間は、残念ながら今のアルヴァレスには残されていない。しかし、流れ出す命を前に、彼の体温を奪い続ける雨を前に、どうしてだろう、私の心は揺らぐ。

 なぜ手を伸ばしてしまったのだろう。道端で息絶えた人々は、ここまでの道のりでもたくさん見てきた。彼もその一人ではないか。

 彼の胸に手を当てる。既に鼓動はない。彼の口元に耳を近付ける。呼吸もない。大量に血を吐いた跡があまりにも痛々しく、私は思わず眉をひそめた。

 ――私は、ここで死ぬわけにはいかない。この罪悪感を振り切って今すぐにあの門を越えなければいけない、はずなのに。

 手にした杖にチカラを込めたのは、半ば無意識だった。夜空のような濃青の光が、彼の全身をぼんやりと包み込む。

 死の病が蔓延る世界で。黒い獣が闊歩する世界で。じきに終わる世界で――彼はまだ、生きていたいと思うだろうか。



(……今なら間に合う)



 水樽をひっくり返したような雨が世界の音を奪っていく。生気を失った真っ白な顔で眠る彼の姿は、まるで彫刻のように美しい。

 間に合うと感じたのは直感だった。何か根拠があったわけでもない。しかし、ただの希望にしては確信めいたそれに、私の魔力はみるみるうちに高まっていく。いや、これは――私のチカラが引き出されるほど、彼に吸われているのだと気が付いた。



「……ッ」


 

 死は救済だと知っていた。生き延びたところで、どうせ先の短い世界だった。これ以上の絶望の果てに朽ちるくらいなら、今ここで――。

 絶望的な状況の中で、私は諦めかけていた。そんな刹那、その目尻に大粒のしずくが零れ落ちる。静かに、緩やかに頬を伝うそれがまるで――まるで、泣いているように見えて。



(……ああ)



 この迷いは罪だった。露わになった傷口に私の魔力が触れる。裂けた肌が、折れた足が、血の溢れる首が、魔力によって繋がれていく。



(私のは、どこまで君のに抗えるかな)



 それは、ほんの少しの好奇心。どうにもならなければ、その運命を受け入れよう。私は名も知らない彼の死を見届け、自分が生き残るための道を進むだけ。でも、もし――再びその体に温もりが巡るのなら。私は私自身に、もう少しだけ自信を持っても許されるだろうか。



「戻って……こい!」



 いつ黒獣が襲ってくるかも分からない王都の街道ど真ん中。私は自分のいる場所も忘れて縋るように叫ぶ。

 ――この手に拍動が触れたのは、その瞬間だった。か細く、頼りない波が、それでも確かに私に伝わってくる。



「……!」



 自分の魔術が傷を覆い、組織を構築していく様を見ながら、私は彼を背負いあげる。

 完全に意識を失った彼の体は重く、降り注ぐ雨がずしりと追い打ちをかけた。静まり返ったこの場所には、自分の息遣いしか聞こえない。人の温もりなど感じない。それの何と孤独なことだろう。

 しかし、彼のものであろう剣と自分の杖を支えに、私はふらりと弱々しい一歩を踏み出した。滑る地面に何度も足を取られるが、意地でも外に向かう速度は落とさない。

 


(……アルストロメア、だっけ。レフィルブランよりも近いはず)



 手を伸ばした命が、どうか、繋がってくれますように。

 祈りにも近い願いは、いるとも知れない神に届くだろうか。手を伝い滴り落ちる彼の血には気付かないフリをして、町への道を急ぐ。

 耳元で震える小さな呼気を、私は縋るように聞いていた。










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